第3話 これくらい、普通のことです
三日目の朝、異変に気づいたのは井戸の前だった。
修道院の門の外に、人が立っていた。
老いた男性と、その腕に抱えられた幼い子供。
二人とも、ぼろぼろの服を着ている。
男性の顔に見覚えはない。
修道院の関係者ではないはずだ。
院長が難しい顔で言った。
「近くの村から来た方たちです。聖女様が来られたと聞いて……」
「病気ですか?」
「子供が熱を出しているようで……でも本来、外部の方を無制限に受け入れることは——」
「お通しください」
院長が少し目を細めた。
反論するかと思ったが、彼女はただ短く頷いた。
子供を診ると、腸の病だった。
水が汚染されていたせいで広がるタイプだ。
辺境の村では珍しくないのだろう。
手を当てて、丁寧にほぐしていく。
小一時間ほどで、子供の顔から苦しそうな表情が消えた。
「……動ける?」
子供がこくりと頷いた。
老人——祖父らしき人が、子供を抱きしめながら声を震わせた。
「ありがとうございます、ありがとうございます……薬を買う金もなくて、このまま死んでしまうかと……」
「大丈夫です。でも村の井戸も確認した方がいい。同じ症状の人が他にもいませんか」
老人がはっとした顔をした。
「……います。五人ほど」
「案内してもらえますか」
院長が目を丸くした。
「エレノア様、修道院を離れるのは——」
「すぐ戻ります。村は遠いですか?」
老人が首を振った。
「歩いて半刻ほどで……」
「では行きましょう」
マーサが慌てて後ろからついてきた。
文句を言いたそうだったが、私の顔を見て何も言わなかった。
村は、修道院よりさらにひどかった。
家が傾いている。
子供の姿が少ない。
土地の瘴気が濃く、空気が淀んでいた。
病人は五人どころではなかった。
蓋を開ければ十二人いた。
全員、水が原因の病だった。
まず村の井戸を浄化した。
それから一人ずつ診ていった。
村人たちが遠巻きにこちらを見ている。
怪しむような目。
期待するような目。
諦めたような目。
いろんな目が混じっていた。
最後の一人を診終えた頃には、昼を過ぎていた。
立ち上がろうとして、少しふらついた。
十二人を続けて診るのは、さすがに体に響いた。
「お嬢様!」
マーサが腕を支えてくれた。
「大丈夫ですよ、少し立ちくらみがしただけです」
「だから言ったんです、一度に全員なんて無理だと!」
「でも全員、今日が必要な状態でした」
マーサが深いため息をついた。
その時、村の入り口の方が騒がしくなった。
馬の蹄の音。
数頭ではない。
砂埃の中から、騎馬の一行が現れた。
先頭の男が馬を止め、こちらを見下ろした。
三十代前半くらいだろうか。
日焼けした顔。
短く切った黒髪。
鎧は実戦向けの、装飾のない造りだ。
目が鋭い。
戦場帰りの目だ、と直感した。
「お前たちが修道院の者か」
低い声だった。
「はい。私はエレノア・セレスティアと申します。修道院に赴任したばかりです」
男が私を見た。
じっと見た。
値踏みするような目ではなく、何かを確かめるような目だった。
「カイル・フォーレンだ。この辺境を治めている」
辺境伯。
この地の領主だった。
「病人が出ていると報告を受けて来た。状況は」
「十二人を診ました。原因は井戸の汚染です。井戸は浄化しましたので、しばらく様子を見ていただければ」
カイルが眉をわずかに動かした。
「十二人を、一人で?」
「はい」
「何時間かかった」
「三時間ほどです」
短い沈黙があった。
彼の後ろに控えた騎士たちがひそひそと何か話しているのが見えた。
「……信用できると思えない」
率直な人だ。
嫌いではない言い方だった。
「確認していただければ結構です。患者の方々に話を聞けば、わかると思います」
カイルが馬から降りた。
思ったより背が高い。
村の奥へ、自分で歩いていった。
しばらくして戻ってきた時、その表情は少し変わっていた。
何かを考えているような顔だった。
「お前、王都から飛ばされたという聖女か」
「飛ばされた、というのは正確には——」
「大体そういうことだろう」
否定できなかった。
少し間を置いて、私は答えた。
「そうです」
「なぜ断らなかった」
「断る理由がありませんでした。必要とされる場所に行けと言われたと思えば、むしろ喜んで」
カイルがこちらを見た。
何を考えているかわからない顔だった。
しばらくして、ただ短く言った。
「そうか」
それだけだった。
彼は馬に戻り、部下に何か指示を出した。
去り際に、一度だけ振り返った。
「修道院に何か必要なものがあれば申し出ろ。食料の支援は領主として出せる」
「ありがとうございます。では麦と豆と——あと、子供用の薄い毛布をいただければ」
「……それだけか」
「今すぐ必要なのはそれだけです」
また短い沈黙。
「わかった」
馬が砂埃を巻き上げて去っていった。
マーサが呆れたように言った。
「お嬢様、あの方は辺境伯様ですよ? もっと色々お願いすればよかったのでは」
「今必要なもの以外を頼んでも、管理できません」
マーサがまたため息をついた。
私は村を振り返った。
病人たちが、家の戸口や窓から顔を出してこちらを見ていた。
さっきまでの遠巻きな目とは、少し違う目をしていた。
修道院に戻ると、院長が門のところで待っていた。
心配していたのだろう、少し険しい顔をしていたが、私の顔を見てそれが緩んだ。
「お帰りなさいませ」
「ただいま戻りました。村の件、勝手に動いて申し訳ありません」
院長が首を振った。
「……いいえ。私が止めなかったのですから」
彼女が少し迷う様子を見せてから、続けた。
「エレノア様。お聞きしてもいいですか」
「何でしょう」
「なぜ、こんなに……働くのですか。追放された先で、誰も見ていないのに」
私は少し首を傾けた。
追放。
そうか、そう見えるのか。
確かに外から見ればそうだろう。
「誰も見ていないから、できることがあります」
院長が目を細めた。
「王都にいると、いつも誰かに見られていました。演じなければならない。期待に応えなければならない。でも今は——ただ、目の前の人を助けることができる」
風が吹いた。
修道院の古い石壁が、夕陽にオレンジに染まっていた。
「それが、思ったより気持ちいいんです」
院長がしばらく黙っていた。
それから、今まで見た中で一番柔らかい顔で微笑んだ。
「……夕食にしましょう。今日はアンナが張り切って、スープを作っているようです」
食堂に入ると、昨日よりずっといい匂いがした。
病気から回復した子供たちが三人、もう食卓に座っていた。
私の顔を見て手を振る子がいた。
手を振り返した。
夜、窓から空を見上げた。
今日も星が多い。
体は疲れていた。
でも——眠る前に感じる充実感は、王都では一度も感じたことのないものだった。
四日目の朝、また門の前に人が来ていた。
今度は、七人。
全員、顔色が悪かった。
「聖女様が来たと聞いて……隣の村から」
隣の村。
昨日の村から話が広まったのだろう。
私は院長を見た。
院長は何も言わずに、ただ頷いた。
こうして、四日目が始まった。




