第10話 広場の前で、彼が出た
翌朝から、仕事を始めた。
最初に向かったのは、疫病が最も広がっている南側の村だった。
王都の城壁の外、農家と職人の家が密集する地区だ。
通りに出ると、人の姿が少なかった。
店が閉まっている。
子供の声がしない。
開いている窓から、咳の音が聞こえてくる。
案内の騎士に連れられて、最初の家へ入った。
五人家族で、全員が病に伏していた。
父親。母親。祖母。子供が二人。
一人ずつ、手を当てた。
王都の病は、辺境のものより複雑だった。
汚染された水を飲み続けた年月が長い分、体の奥まで入り込んでいる。
丁寧に、時間をかけてほぐす。
昼になった頃、カイルが後ろから声をかけた。
「食え」
「あと二軒——」
「食ってからあと二軒にしろ」
振り返ると、手に包みを持っていた。
昨日のうちに手配していたのだろう。
素直に受け取った。
石段に腰を下ろして、パンをかじった。
「今日は何人診た」
「二十三人です」
「王都の感染者は現時点で三百人超えだ。全員回るつもりか」
「順番に回ります。ただ——患者を一人ずつ診るより、水源を直す方が早い」
「水源というのは、昨日言っていた地下水脈か」
「はい。ただ、あれは時間がかかります。数日では終わらない」
カイルが腕を組んだ。
「その間も患者は増え続ける」
「だから両方やります。昼間は患者を回って、夜に水源へ向かいます」
「夜に?」
「水源は城壁の中心部の地下にあります。昼間に大勢の人が動いている時より、夜の方が静かで集中できます」
カイルが私を見た。
何かを言いたそうな顔だったが、しばらく黙っていた。
それから言った。
「付き合う」
「夜まで——」
「付き合うと言っている」
それ以上は言わなかった。
その日の夜、城壁の中心部へ向かった。
王宮の地下に続く古い通路を借りて、地下水脈のある場所まで降りた。
松明の明かりだけが頼りの暗い通路を、カイルが前に立って歩いた。
地下に降りると、水音が聞こえた。
大きな水の流れが、地下を走っている。
その音を辿って、水脈の真上に立った。
石の床に膝をついた。
手を当てると、すぐにわかった。
深い。
本当に深い。
何百年もの澱が、層になって積み重なっている。
「時間がかかります」
カイルに言った。
「かまわん」
「今夜だけでは終わりません。何日もかかるかもしれない」
「かまわんと言っている」
目を閉じた。
意識を深く沈めていく。
第一層、第二層、第三層——汚染の層が、何枚も重なっていた。
一番深いところに触れた瞬間、重さが全身にのしかかった。
何百年分の人間の欲と腐敗の重さだ。
それでも、手を離さなかった。
どのくらい時間が経ったかわからなかった。
気づいたら、カイルが隣に座っていた。
壁に背を預けて、松明の明かりの中で静かにこちらを見ていた。
「……どのくらい経ちましたか」
「二時間ほどだ」
「そんなに」
「顔色が悪い。今日はここまでにしろ」
反論しようとした。
でも体が、正直に重かった。
素直に手を離した。
立ち上がると、足元がふらついた。
カイルが素早く腕を支えた。
「言っただろう、倒れる前に言えと」
「倒れていません」
「今倒れかけた」
「かけただけです」
「屁理屈を言う元気があるならまだいいか」
地上に戻る道を、カイルに支えられながら歩いた。
情けないと思う気持ちと、素直に助かったという気持ちが、半分ずつあった。
館に戻ると、マーサが起きて待っていた。
顔を見るなり、眉をつり上げた。
「お嬢様! 顔色が!」
「大丈夫です」
「全然大丈夫じゃないですよ!」
「明日また行きます」
「カイル様、何とかおっしゃってください!」
カイルが一拍置いて言った。
「今夜は寝る。それは約束させた」
マーサが私を見た。
私は頷いた。
マーサが深いため息をついた。
「……本当に、お二人とも似たもの同士ですね」
どういう意味か聞こうとしたが、もう体が限界だった。
部屋に入って、横になったら、すぐに落ちた。
そういう日が、続いた。
昼間は患者を回る。
夜は地下水脈へ向かう。
三日目には、水脈の第三層まで届いた。
四日目には、南側の村の感染者の新規発生が止まった。
それを聞いた時、アルノルトが使者を寄越した。
礼を言いたいと。
私は丁重に断った。
まだ終わっていないから。
五日目の朝、王宮の前に人が集まり始めた。
最初は十人ほどだった。
それが夕方には五十人を超えていた。
全員、病が治った人たちだった。
あるいは、治った家族を持つ人たちだった。
彼らが王宮の前で何をしているかというと——ただ、待っていた。
私が通るのを、待っていた。
通りかかると、声があがった。
「聖女様!」
振り返った。
老婆が、前に出てきた。
杖をついて、ゆっくりと歩いて。
私の前まで来て、深く頭を下げた。
「四日前まで寝込んでいた孫が、今朝走り回っています」
言葉が続かなかった。
老婆の肩が震えていた。
「……よかった」
それしか言えなかった。
でも老婆は顔をあげて、涙に濡れた目で笑っていた。
その輪が、翌日も、また翌日も広がった。
七日目には、王宮の前に二百人が集まっていた。
みんな、静かに立っていた。
騒ぐわけでも、要求するわけでもなく、ただそこにいた。
その日の夕方、アルノルトが王宮から出てきた。
護衛を連れて、人々の前に立った。
私は少し離れた場所にいた。
水を持ってきてくれた子供に礼を言っていた。
「エレノア!」
アルノルトの声が、広場に響いた。
人々がざわめいた。
私は子供に微笑んで、振り返った。
アルノルトが歩いてきた。
護衛が後ろに続く。
人々が左右に割れた。
彼は私の前に立った。
以前の余裕は、もうなかった。
ただ、真剣な目をしていた。
「頼む。戻ってきてくれ」
広場が静まり返った。
二百人が、息をのんでいるような沈黙だった。
私は答える前に、周りを見た。
集まった人々の顔。
老婆の顔。
子供の顔。
病が治って、でもまだ不安そうな顔。
そして——少し後ろに、カイルが立っていた。
腕を組んで。
静かに。
私を見ていた。
アルノルトが続けた。
「お前の力が必要だ。王都に、王家に——」
「アルノルト様」
静かに遮った。
広場に、私の声が通った。
「私が救うのは、民です」
アルノルトが目を見開いた。
「王家のためではありません。今ここにいる人たちのために、仕事をしています。それは婚約者としてではなく——ただ、聖女として」
しばらく沈黙があった。
「仕事が終われば、私は辺境へ帰ります。それが最初からの約束でした」
アルノルトが何か言おうとした。
その前に、足音が聞こえた。
カイルが、人々の間を抜けて前へ出てきた。
アルノルトの隣に並んで、静かに言った。
「辺境伯として確認する。エレノア様との約束は、王家として有効か」
低い、静かな声だった。
でも、その場の全員に届く声だった。
アルノルトがカイルを見た。
カイルは表情を変えなかった。
「仕事が終われば帰る。それが条件だったはずだ。王家はその約束を守るか、守らないか」
広場の二百人が、固唾をのんで見ていた。
アルノルトが——黙った。
何も言えなかった。
言える言葉が、なかったのだろう。
カイルが私を見た。
目が、静かに言っていた。
行くぞ、と。
私は頷いた。
アルノルトの前を通り過ぎながら、一度だけ振り返って言った。
「もう少しだけ、待っていてください。必ず終わらせます」
それだけ言って、歩いた。
カイルが隣を並んで歩いた。
人々が、左右から静かに道を開けた。
誰も、何も言わなかった。
でも——背中に、たくさんの視線を感じた。
温かい視線だった。




