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「役立たずの聖女」と婚約破棄された私、辺境では一日で五百人を救ってしまいました  作者: カルラ


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11/11

第11話 ただいま、と言える場所

その夜、地下へ降りた。


今日が、最後になると思っていた。

水脈の浄化は、七日かけて深い層まで届いていた。

あとは——一番底にある、根の核を断つだけだ。


カイルが隣に松明を持って立っていた。

いつも通りだった。


 


「今夜で終わるか」


 


「終わらせます」


 


「無理はするな」


 


「今夜だけは、少し無理をします」


 


カイルが短く息を吐いた。

止めなかった。

わかっていたのだろう。


膝をついた。

両手を石の床に当てた。

目を閉じた。


意識を沈めていく。

第一層。

第二層。

第三層。

もっと深く。

もっと深く。


暗い。

重い。

何百年分の澱が、圧力のように全身にかかってくる。

それでも、手を離さなかった。


核が見えた。


水脈の一番底、岩盤の割れ目の奥に、黒い塊があった。

長い年月をかけて固まった、欲と腐敗の結晶だ。

触れた瞬間、反発するような力を感じた。

押し返してくる。


それでも、指を離さなかった。


丁寧に。

焦らずに。

硬く固まったものを、少しずつほぐしていく。

まるで凍りついた土を、春の温もりで溶かすように。


どのくらい時間が経ったかわからなかった。

体の感覚が、薄くなっていた。

手が痺れている。

息が浅くなっている。

それでも、手を離さなかった。


 


「エレノア」


 


カイルの声が、遠くから聞こえた。


 


「聞こえるか」


 


聞こえていた。

でも答える余裕がなかった。


核が、少しずつ緩んでいく。

固かったものが、ほどけていく。

百年分。

二百年分。

三百年分。


長い時間が、逆向きに解けていく感覚があった。


そして——核が、音もなく消えた。


地下水脈が、一瞬静止した。

それから、水が動き始めた。

綺麗な水が、浄化された流れが、地下を満たしていく音がした。


手を離した。


倒れた。


カイルが支えた。

間に合った、という感じの速さだった。


 


「……終わりました」


 


「わかった。よくやった」


 


短い言葉だったが、声が違った。

いつもより、少し低かった。


 


「自分で歩けますか」


 


「少し待てば」


 


「待たなくていい」


 


抱え上げられた。

抗議しようとしたが、言葉が出なかった。

それだけ、消耗していた。


地上に出ると、夜風が冷たかった。

空を見上げると、雲が広がっていた。

星が見えない夜だった。


 


「雨が来る」


 


カイルが空を見て言った。


 


「……ちょうどよかった」


 


「何がだ」


 


「浄化された水脈に、雨が合わさると、広がりが早くなります。明日には——」


 


「今は黙れ」


 


「でも——」


 


「仕事の話は明日しろ。今は黙って運ばれていろ」


 


黙った。

運ばれながら、夜空を見ていた。

雲が動いていた。

雨の匂いがした。


館に戻ると、マーサが飛んできた。

カイルが私を椅子に座らせながら、簡潔に状況を説明した。

マーサが泣きそうな顔をして、でも泣かずに湯を沸かしに行った。


カイルが向かいに腰を下ろした。


 


「終わったな」


 


「はい」


 


「明日、症状が改善し始めるか」


 


「明日、雨が降れば——はい」


 


カイルが窓の外を見た。

雲が、月を隠していた。


 


「帰れるな」


 


その言葉が、温かかった。

帰れる。

辺境へ。

修道院へ。

ルカのところへ。


 


「帰れます」


 


「よかった」


 


カイルが立ち上がった。


 


「休め。明日は俺が対応する」


 


「でも——」


 


「俺が対応すると言っている」


 


「……わかりました」


 


「本当にわかったか」


 


「本当にわかりました」


 


「信用係数六割だが、今日は許す」


 


足音が遠ざかった。

扉が閉まった。

一人になった部屋で、深く息を吐いた。


体が重かった。

でも、清々しい重さだった。


翌朝、目が覚めると雨の音がしていた。


窓を開けた。

細かい雨が、王都の石畳を静かに濡らしていた。

派手な雨ではなかった。

光も出なかった。

音もなく、ただ、降っていた。


でも——その雨が、地面に染み込むたびに、浄化された水脈と混ざっていくのが感じられた。

綺麗な水が、王都の地下を満たしていく。

長い年月の澱が、少しずつ洗われていく。


階下が騒がしくなった。

マーサが飛んできた。


 


「お嬢様、外を見てください!」


 


窓から身を乗り出した。

館の前の通りに、人が集まり始めていた。

雨の中、傘もない人が、ただ立っている。

子供が、空に向かって手を伸ばしていた。

雨粒を受け止めるように。


老婆が、濡れた地面に膝をついていた。

肩が震えていた。


私服のカイルが、館の前に立っていた。

雨に打たれながら、空を見上げていた。

私の視線に気づいて、見上げてきた。

何も言わなかった。

でも、その顔が言っていた。


よかったな、と。


その日の昼過ぎ、アルノルトから使者が来た。

南側の村で、新規感染者がゼロになったと。

既存の患者も、症状が急速に改善していると。


私は使者に言った。


 


「ご報告ありがとうございます。では約束通り、明後日に辺境へ戻ります」


 


使者が少し戸惑った顔をした。

まだいてほしいという気持ちが、その顔に出ていた。

でも、約束は約束だった。


夕方、アルノルトが館を訪ねてきた。

一人で来た。

護衛も連れていなかった。


応接間で向かいに座ると、彼はしばらく何も言わなかった。

雨の音が、窓の外で続いていた。


 


「……ありがとう」


 


小さな声だった。


 


「民のためにやりました」


 


「わかっている。それでも——」


 


アルノルトが手を膝の上で組んだ。


 


「俺は間違えた。あの式典の日、間違えた」


 


「はい」


 


否定しなかった。

彼が少し目を細めた。

慰めを期待していたのかもしれない。

でも、慰める気持ちがなかった。

正確に言えば——もう、それを気にする気持ちが、残っていなかった。


 


「リリアは」


 


「辺境へ向かわせた。そちらで働いてもらうことになった」


 


私は少し考えた。


 


「辺境で地道に働けば、リリアも力がつきます。向いていないわけではないので」


 


アルノルトが私を見た。


 


「……怒らないのか。恨まないのか」


 


「怒る時期を、とっくに過ぎました」


 


静かに言った。


 


「アルノルト様、良い王になってください。民のそばにいる王に」


 


それだけ言って、立ち上がった。

アルノルトが何か言おうとした。

でも、言葉は来なかった。


扉を閉める直前、小さな声が聞こえた気がした。

すまなかった、という声が。

振り返らなかった。

振り返る必要が、なかった。


出発の朝は、雨上がりだった。

空が、久しぶりに青かった。

王都の石畳が、雨に洗われて明るく光っていた。


館の前に馬車が来た。

荷物を積んで、マーサが乗り込んだ。

カイルが馬に乗って待っていた。


出発しようとした時、通りに人が集まっていた。

昨日も一昨日も集まっていた人たちだ。

雨の中ずっと待っていた人たちだ。


老婆が、前に出てきた。

私の手を、両手で包んだ。

皺だらけの、温かい手だった。


 


「達者でいてください」


 


「はい。お体に気をつけて」


 


老婆が離れた。

次に、子供が走ってきた。

花を押しつけて、また走って戻った。

カラス村の娘がくれた花と同じ、白い野の花だった。


人々が左右に並んでいた。

道を作るように。

見送るように。


馬車が動き出した。

窓から手を振ると、人々が手を振り返した。

子供が走って追いかけてきた。

しばらく並走して、止まった。


王都の城門をくぐった。

外に出ると、空が広かった。

荒野が続いていた。

遠くに山が見えた。


 


「帰るぞ」


 


カイルが馬を並べて言った。


 


「はい」


 


「ルカが毎日騒いでいると、院長から文が来た」


 


「麦の刈り取りに間に合いそうです」


 


「間に合う。計算した」


 


「計算したんですか」


 


「当たり前だろう」


 


馬が歩き出した。

馬車が揺れた。

王都が、少しずつ遠くなった。


窓から後ろを見た。

城壁が小さくなっていく。

その向こうに、アルノルトの王宮がある。

式典の大広間がある。

あの日の拍手が、ある。


でも——それはもう、遠い話だった。

遠い国の話のように、薄かった。


マーサが隣で言った。


 


「お嬢様、王太子様のこと……もういいんですか」


 


窓の外の荒野を見ながら、少し考えた。


 


「そんな人もいましたね」


 


マーサが目を丸くした。


 


「……もうそんな感じなんですか」


 


「そんな感じです」


 


マーサが笑い出した。

声をあげて笑った。

久しぶりに聞く、マーサの大きな笑い声だった。


七日かけて、辺境へ戻った。


修道院が見えてきた時、門が開いた。

誰かが走ってくる。

小さな影だった。


ルカだった。


馬車が止まる前に走ってきて、扉が開くなり飛びついてきた。


 


「おそい!!」


 


「ただいま」


 


「おそいよ!! 麦もう刈り取り始めちゃったんだよ!!」


 


「ごめんなさい。でも間に合いました」


 


「間に合ってないよ!! 一列目はもう終わったんだから!!」


 


「ごめんなさい」


 


「もう、ほんとに、もう——」


 


ルカが泣いていた。

怒りながら泣いていた。

七歳の、真っ正直な泣き方だった。

背中をさすると、しばらくそのままでいた。


院長が歩いてきた。

いつもの静かな顔で、でも目が少し赤かった。


 


「お帰りなさいませ」


 


「ただいま戻りました。ご心配をおかけしました」


 


「……いいえ」


 


院長が、それだけ言った。

でも、その二文字に全部が入っていた。


アンナが厨房から飛び出してきた。


 


「聖女様——! シチュー作ってました! 今日絶対帰ってくると思って!!」


 


「ありがとう、アンナ」


 


「カイル様もどうぞ! 量は多めに作りました!」


 


カイルが馬から降りながら言った。


 


「気が利くな」


 


「カイル様の分、最初から入ってましたよ」


 


カイルが少し黙った。


 


「……そうか」


 


老神官が、畑の前から手を振っていた。

麦が、風に揺れていた。

黄金色に実った麦が、夕陽を受けてきらきらしていた。


私は畑の前に立った。

一ヶ月前に植えた種が、こんなになった。

地味な浄化が、静かな恵みが、ここまで実った。


光は出なかった。

派手な奇跡もなかった。

でも——確かに、ここにあった。


 


「また働きすぎるなよ」


 


カイルが隣に立って言った。


 


「今日くらいは休みます」


 


「今日くらい、か」


 


「明日からは働きます」


 


「知ってた」


 


夕陽が、修道院の古い石壁を橙色に染めていた。

ルカがまた走ってきて、私の手を引っ張った。


 


「シチュー食べよ! 早く!」


 


「はい、行きます」


 


食堂に入ると、温かい匂いがした。

子供たちが席についていた。

全員の顔色がいい。

全員の目が明るい。


私もその中の一つの席に座った。

アンナがシチューを運んできた。

老神官が今日の畑の出来を嬉しそうに報告し始めた。

ルカが隣で、王都の話を根掘り葉掘り聞いてきた。

カイルが向かいで、黙ってシチューを飲んでいた。


にぎやかだった。

温かかった。


これが、私の場所だと思った。

光の出ない聖女の、地味で静かな場所。

でも——誰かの熱が下がって、誰かの畑に芽が出て、誰かの水が綺麗になる場所。


それで十分だった。

それ以上は、いらなかった。


窓の外に、星が出始めていた。

辺境の空は、今日も星が多かった。

余計なものがないから、よく見える。


ルカが私の袖を引いた。


 


「ねえ、お姉さん」


 


「何ですか」


 


「ずっといる? もう行かない?」


 


少し考えた。

考えてから、答えた。


 


「います。ずっと」


 


ルカが満足そうに頷いて、またシチューを飲み始めた。


カイルが向かいから、静かに言った。


 


「約束したな」


 


「しました」


 


「破ったら承知しないぞ」


 


「破りません」


 


「信用係数——」


 


「今回は百です」


 


カイルが短く鼻を鳴らした。

でも、口の端が少し上がっていた。


食堂に笑い声が響いた。

雨の夜ではなく、星の夜だった。

修道院の古い壁が、ランプの明かりに温かく照らされていた。


役立たずの聖女と言われた私は、今日も光を出さない。

奇跡は地味で、派手さがなくて、拍手ももらえない。


でも——ここにいる人たちは、みんな元気だ。

水が綺麗で、土が豊かで、パンが美味しい。

子供たちが笑っていて、老神官が畑を愛でていて、院長が静かに微笑んでいる。


それが、私の奇跡だと思う。





終幕



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面白い面白い。 王子は後悔しているようだけど、断罪の事を考えると一切同情できない。
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