第7話 言えない真実、胸を締める鎖
ワイバーン討伐から戻った夜、街は宴会の最中だった。
「バルド殿に乾杯!」
「聖人様に乾杯!」
「譲り合いの美学に乾杯!」
乾杯が三つあるのが、おかしい。
俺は宿の裏庭の井戸端に座り、冷たい水で顔を洗っていた。熱はまだ、体の奥でくすぶっている。くしゃみ一つの代償にしては、重い。
「カイさん、ここにいたんですか」
ミナが、湯気の立つスープ椀を持って現れた。
「やれやれ、探すほどのことではないだろう」
「探しましたよ。主役が消えたって、ギルドが騒いでます」
スープが、目の前に差し出される。受け取る。美味い。いつもの流れだ。
ただ、その夜は、スープを半分飲んだところで、決めた。
話そう。ミナには、話そう。
この子は、三日間、俺の棒の握り方に付き合った。口じゃなくて行動を見ると、言ってくれた。この世界で、唯一、嘘の外側にいる人間だ。
死ぬ、という条件が、頭の隅で点滅していた。だが、あれは「誰かに話したら」だった。話し方に工夫すれば、すり抜けられるかもしれない。
「……ミナ」
「やれやれ、が付かないんですね。珍しい」
「ああ。実は、俺には、のろ」
胸が、ぎゅっ、と鳴った。
比喩ではない。心臓を、冷たい手で握られた。鎖が一周、胸骨に巻きつくような感覚。息が、止まる。
「やれやれ、のろのろ歩くのが、好きでな」
「……のろのろ?」
「やれやれ、歩く速度が、人より少し遅い」
「最強の人が、のろのろ歩くのが好き……」
ミナが、真剣に考え込んでいる。
(違う。違うんだ)
口がだめなら、書けばいい。
俺は懐から紙切れとペンを出した。
『の』
書けた。『ろ』。書けた。次の文字を書こうとした瞬間、指が、固まった。胸の鎖が、きりきりと締まる。視界の端が暗くなる。かろうじて動いた指が、勝手に走った。
『のろやれやれ』
「……のろやれやれ?」
「やれやれ、新しい挨拶だ」
最悪だ。
次は、身振りだ。
俺は立ち上がって、両手で自分の首を締めるような動作をした。
「……カイさん、苦しいんですか?」
首を横に振る。違う。
次は、空を指して、指で円を描く。それから、その円を叩く。
「……雨?」
違う。
手を合わせて、拝む仕草をする。それから、自分を指す。
「……聖人様の、モノマネ、ですか」
違う。
最後に、両手で顔を覆って、首を振った。
「やれやれ、何をしているのだ、俺は」
「……何してるんでしょうね、本当に」
ミナが、あきれたように笑った。その笑顔は、半分、心配でもあった。
「カイさん、変ですよ、今日。何か、言いたいことがあるんですか」
この問いは、ずるい。
はい、と答えたい。口がだめでも、頷きたい。頷いた。
頷いた瞬間、胸の鎖が、ぐん、と強く締まった。
息が、できない。
「……カイさん?」
「やれ、やれ、……」
膝が、石畳に落ちた。手から椀が離れて、割れる音がした。
視界が、狭くなっていく。ミナの顔だけが、白く浮かんでいる。胸が、潰れる。喉が、ひゅう、と鳴る。
(これは、ダメだ。本当に、死ぬ)
「カイさん! カイさんっ!!」
遠くで、ミナが叫んでいる。誰かを呼ぶ声がする。足音。
何か言おうとしていた。何を言おうとしたのか、自分でも、もうわからなかった。
---
目を開けると、天井が見えた。
宿の部屋だ。窓の外は、薄い朝焼けだった。
胸の鎖は、消えていた。ただ、体の芯が、洗濯後の布みたいに、くたくたに力が抜けている。
隣で、ミナが椅子に座ったまま、眠っていた。眼鏡がずれている。机の上には、冷めたスープ、濡れた布、そして、割れた椀の破片が、きちんと並べて置いてあった。
「……ミナ」
「……ん」
目が開いた。
「カイさん!」
がばっと起き上がって、俺の顔を覗き込む。
「生きてますね! 生きてますよね! 脈、ありますよね!」
「やれやれ、大げさだ」
「大げさじゃないです! 倒れてから、半日、目を覚まさなかったんですよ!」
半日。そんなに。
「お医者さんは、原因がわからないって。心臓に異常はないし、毒でもないし、魔力の暴走でもなくて。ただ、胸の周りに、見えない何かが巻きついてたみたいに、筋肉が固まってたって」
ミナが、ぎゅっと自分の手を握った。
「それで、わかりました。昨日の、あれ」
「……」
「何か、言おうとしてましたよね。それで、体が、止まった」
答えられない。頷くこともできない。頷けば、また。
俺は、黙って、ミナの目を見た。
ミナも、黙って、俺の目を見た。
しばらく、そのままだった。
「……言えない事情が、あるんですね」
ミナが、静かに言った。
「それは、やれやれ、って言うのと、同じ理由ですか」
ここで頷けば、危ない。首を横に振っても、嘘になる。だから、動かなかった。
ミナは、それを見て、小さく笑った。
「……いいです。答えなくて」
「やれやれ、何も隠してなど——」
「はいはい」
ミナは、俺の手首を取った。脈を確かめる手つきだった。いつも包帯を巻いてくれる、小さくて、荒れた手だ。
「死にそうになるくらいなら、もう、言おうとしないでください。お願いです」
「……やれやれ、善処する」
「善処、じゃなくて」
「……そうする」
あれ。
今、「やれやれ」がなかった。
ミナも、目を丸くした。
「今の、普通に、言えましたね」
「……ああ」
短い言葉が、通った。「そうする」。ミナに頷き返したくて、それだけの意思が、そのまま届いた。
「でも、私の方は、ちゃんと言いますよ」
ミナが、涙ぐんだ目で、にっと笑った。
「言えるようになったら、いつでも、聞きます。何年かかっても。だから、焦らないでください」
「……ミナ」
「あと、カイさんが倒れたとき、私、すごく、怖かったので」
ミナは、俺の手首を、そっと離した。
「次に、無理したら、本当に、怒ります。三時間コースです」
「やれやれ、それは、勘弁してくれ」
「はいはい」
---
その日の昼。
ようやく起き上がれるようになった俺は、宿の食堂へ降りようとして、扉の前で、足を止めた。
宿の前の通りが、人で埋まっていた。
「聖人様が、倒れたそうだ」
「断食の修行の、限界に達したのだ」
「いや、ワイバーンとの戦いで、無理をなさって」
「バルドに手柄を譲って、体の中の気を、使い果たしたんだ」
「祈れ! 祈れ!」
通りの端で、人々が膝をつき、手を合わせている。
その横で、見覚えのある太った男が、そろばんを片手に叫んでいた。
「お見舞い用の『聖人様快癒祈願パン』、本日限り、銀貨一枚でございます! 売上の一割は、聖人様に!」
窓から、通りの向こうの、ギルドの掲示板が見えた。新しい紙が、貼り出されている。
『聖人冒険者・カイ殿の弟子、募集! 志願者は、宿前に整列のこと』
「…………は?」
宿の扉が、がらり、と開いた。
扉の向こうに、整列した十数人の若者たちが、きらきらした目で、俺を見上げていた。
「師匠!!」
(呪いの話を、している場合じゃなかった)
-




