第6話 ワイバーン討伐、手柄は誰のもの
三日間で覚えたのは、木の棒の握り方だけだった。
「違います。力みすぎです。棒は恋人じゃありません」
「やれやれ、握り方など、どうでもいい」
「どうでもよくないから三日も付き合ってるんです」
ミナは容赦なく俺の手の甲を叩いた。朝の訓練場に、乾いた音が響く。
出発の朝、ギルドの前には討伐隊が集まっていた。総勢三十人、馬車が五台。誰もが俺を見て、目が合うと会釈してくる。
「聖人様だ……」
「今日は殺生を避けたいだろうに、ワイバーンは別なのか」
「しっ。聞こえたらどうする」
その人垣の向こうに、真紅の鎧が見えた。
俺は懐に手を入れた。角の擦り切れた手帳が、三日間ずっとそこにある。返すなら今しかない。
人をかき分けて、バルドの前に立った。取り巻きが身構える。バルドは何も言わず、ただ俺を見下ろした。
「落とし物だ」
……言えた。
短い言葉は通る。名前の時と同じだ。バルドの目が、手帳に落ちた。次に俺の顔を見た。
手帳が、ひったくられた。
中を見たか、とは聞かれなかった。バルドは無言で懐にしまい、背を向けた。耳の先が赤かった。
「……今の、普通に言えましたね」
隣でミナが小声で言った。
「やれやれ、たまたまだ」
「はいはい」
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目的地は、街から二日の北の岩稜地帯だった。
岩壁の上空を、黒い影がいくつも旋回している。翼を広げれば馬車ほどもある。ワイバーン。喉の奥から、金属を擦るような声が降ってきた。
討伐隊は谷の入口に陣を張った。作戦はこうだ。弓隊が群れを引きつけ、地上に落ちたものを剣士が仕留める。
「俺は先に行く」
バルドが言った。誰の許可も待たなかった。
「群れの奥に、でかいのがいる。あれは俺がやる。手を出すな」
「やれやれ、頼まれても出さん」
「……けっ」
バルドは一人で、岩場を登っていった。
俺とミナは、少し離れた岩陰から後を追った。手を出さない。ただ、見ておきたかった。
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バルドが足を止めたのは、谷でいちばん日当たりのいい岩棚だった。
彼は、そこに堂々と立った。真紅の鎧が、陽光を全方位に撒き散らす。
「……なんで、わざわざ目立つところに」
ミナが小声で言った。
俺は、手帳の中身を思い出していた。『光る物に、群れが寄る。主は最後に降りる。急降下は一度だけ。避けたあと、首の付け根、逆さの鱗』。
「やれやれ、あの鎧は、餌だ」
「えっ」
「……え?」
今、普通に説明できた。短い言葉は通るらしい。いや、そんなことより。
「あの人、毎朝ギルドの前で鎧を磨いてたの、これのため……?」
ミナが、息を呑んだ。
空が、ざわついた。黒い影が、輝く一点に向かって、輪を縮めていく。群れが降りてくる。バルドは動かない。剣を下げたまま、ただ、上を見ている。唇が動いていた。
「……まだだ。群れが先だ。主は、最後に降りる」
八年分の知識が、そこにあった。
そして俺は、そのとき、岩陰の埃を吸い込んでいた。
「カイさん、静かに――」
「やれやれ、静かにしている。……っ、くしゅん」
くしゃみだった。
握ったままの木の棒が、勝手に横へ振り抜かれた。
音が、なかった。
一拍遅れて、谷全体が、ぐにゃりとたわんだ。群れが、見えない手に払われたように、反対側の岩壁へ飛んでいき、そのまま、ぺたりと貼りついた。二十九体。
ただ一体、灰色の個体だけが、残っていた。
群れより高い空から、ちょうど、急降下に入ったところだった。風の壁を、重い体で突き抜ける。翼が風に煽られて、わずかにずれた。だが、狙いは外れない。真紅の光に向かって、一直線に、落ちてくる。
バルドの目が、細くなった。
一度だけ、避ける。
彼の体が、半歩、横へ滑った。爪が、空を切る。灰色の巨体が、鎧の脇をかすめて、岩棚に突っ込みかける。その首の付け根、一枚だけ逆さに生えた鱗の隙間に、バルドの剣が、吸い込まれた。
迷いのない、一突きだった。
灰色の巨体が、岩棚に叩きつけられ、そのまま、動かなくなる。バルドの鎧は、傷一つ、ついていなかった。
俺は、くしゃみの反動で、空にいた。
足の下を、雲が流れていく。はるか下に、小さなミナが、何か叫んでいる。口の形からして、おそらく「棒!」だった。
手の中の棒が、真ん中から、ぽっきりと折れていた。
五秒ほどの落下のあと、俺は柔らかいものの上に着地した。ぼふっ。灰色の巨体の腹だった。クッションとして優秀だった。
膝が、笑っていた。くしゃみ一つで、体力の全部を使ったらしい。
「……邪魔は、するなと言ったはずだ」
バルドが、息を整えながら、俺を見下ろしていた。
「やれやれ、手を貸しただけだ」
(すまない。くしゃみだ)
バルドの眉が、ぴくりと動いた。だが、怒鳴りはしなかった。壁に貼りついた二十九体を見て、足元の灰色を見て、自分の剣を見た。
しばらく、誰も何も言わなかった。
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駆けつけた討伐隊が、谷を見て、絶句した。
「……三十体、まとめて?」
「さすがSランク……!」
「灰色は、俺がやった」
バルドが、低く言った。
「壁のは、俺じゃねえ。……あいつだ」
誰かが、感極まった声を上げた。
「なんと潔い……!」
「Sランクの方が、手柄を譲るのか」
「聖人様に、感化されたんだ」
「いや、聖人様が先に手柄を譲ったのを、バルドさんが見抜いて、返してるんだよ」
「譲り合い……! なんと美しい……!」
「違う」
バルドが、頭を抱えた。
「そうじゃ、ねえ」
「違います! 本当にそうなんです!」
ミナが叫んだが、輪の中には届かなかった。
(バルドが、初めて、同じ顔をしている)
そこへ、記録係が羊皮紙を抱えて走ってきた。
「勝負の記録ですが、ギルド規則第十二条により、群れの主を単独で討った者は、十体分と数えます。壁の二十九体は、止めを刺した者に帰属しますので、現時点では未計上です」
「そんな規則、聞いたことない!」
「去年からございます」
「……今、作ったんじゃなくて?」
「去年からございます」
ミナが、初めて、自分の流儀で殴り返された顔をした。
バルドは、短く息を吐いた。
「……数は、数だ。俺の勝ちでいい」
勝ち誇る声ではなかった。
「やれやれ、退屈しのぎにはなった」
(見事だった、と言いたかったんだ)
バルドが、一瞬、俺を見た。それから、鼻を鳴らした。
「……そうかよ」
背を向けて歩き出す。ただ、数歩行ったところで、折れた棒の片割れに、ちらりと目をやった気がした。
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天幕で、ミナが黙って包帯を巻いていた。
「くしゃみで谷を吹き飛ばさないでください」
「やれやれ、くしゃみなど、していない」
「しましたよね。聞こえました」
「……」
「ですよね」
ミナは、ふう、と息を吐いた。
「バルドさん、すごかったですね。あんなに鎧を磨いて、餌にして、一回だけ避けて。八年分の、積み重ねって感じでした」
俺は、天井を見上げた。
強さなら、あるいは、俺のほうが上かもしれない。だが、群れを呼び、主の降りる一瞬を待ち、一度だけ避けて、一突きで仕留める。あれは、俺には絶対にできない。
今日、あの谷で、一番ワイバーンを知っていたのは、あの男だった。
「やれやれ、……あいつの剣は、見事だった」
ミナの手が、止まった。
「……今の、本音ですか」
「やれやれ、さあな」
「はいはい」
ミナは、天幕の隅の布の包みを、俺の前に持ってきた。
中には、折れた棒の両端と、壁から剥がしてきた鱗が一枚入っていた。
「壁の二十九体の傷は、全部、棒の太さです。灰色の一体は、バルドさんの剣です。ちゃんと分けて、覚えておきます。どっちの分も」
「やれやれ、好きにしろ」
「はい。好きにします」
ミナは、にっと笑った。
天幕の外に出ると、焚き火の向こうで、バルドが一人、鎧を磨いていた。そばには、角の擦り切れた手帳が開いてある。彼は、今日のページに、何かを書き足していた。
膝は、まだ、笑っていた。




