第5話 Sランクの自称エース
「……聖人様、ねえ」
真紅の鎧の大男は、俺の噂が書かれた紙を握りつぶしたまま、のしのしと近づいてきた。鎧がやたらと磨かれていて、ギルドの天窓の光を全方位に跳ね返している。
「バルドさんだ……」
「Sランクの……」
「剣一本でオーガ十体を倒したっていう……」
冒険者たちが、潮が引くように道を空けた。取り巻きが三人、後ろに従っている。
「お前だな。水晶を割ったとかいう新人は」
「やれやれ、騒がしい男だ」
(挨拶から入れ。社会人経験者だろ、俺)
バルドの眉が、ぴくりと跳ねた。
「俺はバルド。このギルドで八年、Sランクを張ってる。昨日から街中が『聖人様』『聖人様』ってうるせえんだよ」
「やれやれ、俺が頼んだわけではない」
「ああ、頼んでねえだろうな。頼まなくても、周りが勝手に持ち上げる。羨ましい話だ」
バルドの声は、怒鳴り声ではなかった。低くて、乾いていた。
近くで見ると、鎧の下の手が目に入った。指の付け根が、硬い皮で何重にも覆われている。剣だこだ。両手とも、ひび割れた痕だらけで、爪の間には落とし切れない黒い汚れが残っている。
腰のベルトには、角が擦り切れた小さな手帳が差してあった。
(この人、遊んで強くなったんじゃない)
そう思った瞬間、胸倉を掴まれた。
「報酬を受け取らねえ? 断食だあ? そういう気取った新人が、一番気に入らねえんだよ」
足が、床から浮いた。
息が詰まる。昨日の猪の牙がかすめた脇腹に、鎧の肘が食い込んだ。包帯の下で、傷口が悲鳴を上げる。
(痛い。痛い痛い痛い。声が出ない)
視界の端が白くなっていく。踏ん張ろうにも、足が届かない。喉を締められて、口から出たのは、呼吸のような音だけだった。
「バルドさん、やめてください!」
ミナがカウンターを飛び越える勢いで駆け寄ってきた。
「うるせえ、受付は黙ってろ」
「…………」
ミナの笑顔が、すうっと消えた。
室温が二度下がった気がした。
「その手、離してください。ギルド内での暴力は、規則で禁じられています」
「規則だ?」
「今、作りました」
「…………は?」
「三秒前に作りました。違反者には、受付嬢が全力でお説教します。三時間コースです」
(三時間コース)
バルドの手が、一瞬ゆるんだ。俺は床に落ちて、激しく咳き込んだ。
「……ちっ」
バルドは舌打ちして、俺から一歩下がった。
「なあ新人。ここは実力の世界だ。口先と噂だけの偽物は、嫌いなんだよ。訓練場で、手合わせしてやる。俺に勝てたら、聖人でも神様でも好きに名乗れ」
ギルド中が、息を呑んだ。
手合わせ。剣がない。握り方も知らない。持っているのは銅貨三枚と、昨日のパンの余韻と、まだ血の滲む脇腹だけだ。
口が、勝手に開いた。
「やれやれ、相手になるまでもない」
しん……。
(……最悪の一言が出た)
少しの間のあと、ギルドの片隅から、すすり泣きが聞こえた。
「……そうか。戦わない、と仰るのか」
年配の冒険者だった。目頭を押さえている。
「相手になるまでもない。つまり、剣を交える必要すらない、ということ。争いそのものを、空しいものと見ておられるのだ……」
「あの方は、強いから勝負を避けるのではない。人を傷つけたくないから、避けるのだ」
「報酬も取らぬ。肉も断つ。そして、争いも断つ……」
「真の平和主義者だ……!」
(待て。方向が違う)
(水晶を爆散させて、山を消して、猪を月まで飛ばした男が、平和主義者?)
「バルドさんも気の毒に……」
「あの方に、手を汚させようとしているのか」
「やめてやれ、バルドさん。聖人様は、お前を傷つけたくないんだ」
ギルドの空気が、バルドを悪者にする方向へ傾いていく。
別の席では、逆の声も上がった。
「いやいや、あれは挑発だろ。完全にバルドさんを格下扱いしてる」
「Sランクを前にして、あの余裕……やはり底が知れない」
「待て、平和主義者派と、余裕派がいる」
「どっちも正しい気がする」
「両方だ。平和主義で、かつ強い。最強の無抵抗主義者だ」
勝手に、新しい称号が生まれた。
バルドの首筋に、青筋が浮かんだ。
「……俺が、悪者、だと?」
声が、低い。
「俺を、傷つけたくねえ、だと?」
「やれやれ、事実を言ったまでだ」
(事実とは、一般に、事実であるときに使う言葉である)
「事実……!」
「やはり、バルドさんを気遣って……!」
「なんと慈悲深い……!」
バルドの顔が、真っ赤を通り越して、赤黒くなった。
「てめえ……」
拳が、震えている。殴りたいのを、ぎりぎりで堪えているのが見えた。
ミナが、慌てて小声で割り込んできた。
「カイさん、今の、煽ってますよ。しかも、ギルド中が謎の方向に誤解してますよ」
「いや、煽ってなどいないが」
「煽ってます。本気で言ってますか」
「やれやれ、本気など出すまでもない」
「……はあ。ですよね。わかってました」
(わかってもらえてる。それだけで、少し息ができる)
「ミナさん、聖人様は、やはり争いは嫌いなんですよね?」
通りすがりの若い冒険者が、期待に満ちた目で尋ねた。
「えっ、いや、その……」
ミナは、言葉に詰まった。
「争いが嫌い……というか、その、嫌いでは、ないような……いや、でも好きでもなくて……」
「そうですよね! 嫌いなんですよね!」
「違っ……いえ、違わなくも……あああ、もう!」
ミナが、解釈の渋滞に巻き込まれている。
「いいだろう」
バルドが、低く言った。
「三日後、ギルド合同のワイバーン討伐がある。そこで白黒つけようぜ。どっちが多く狩るか、勝負だ」
「やれやれ、好きにしろ」
「ワイバーン勝負……!」
「だが、聖人様は殺生を好まぬのでは?」
「いや、人間ではなく魔物なら、やむなく刃を取るのだろう」
「バルドさんとの争いを避ける代わりに、ワイバーンで決着をつける……なんと賢い」
(解釈が忙しい。誰か俺に説明してくれ。俺が何を企んでいることになってるのか)
バルドは、取り巻きを引き連れて、扉へと向かった。
去り際に、振り返る。
「首を洗って待ってろよ、聖人様。化けの皮、剥いでやるからな」
扉が、ばたんと閉まった。
ギルドの中に、静寂が戻る。
数秒後、全員の視線が、一斉に俺に集まった。
「カイ殿……」
「あの、バルドさんを、あんな風に庇って」
「次の勝負、平和的な決着を楽しみにしています!」
拍手が起こる。
庇ってない。平和的でもない。ワイバーンは普通に血を流す。
心臓が、耳のすぐ裏で鳴っている。拍手より、うるさい。
「カイさん」
ミナが、隣に立った。
「手、握りしめすぎて白くなってますよ」
「やれやれ、準備運動だ」
「脇腹、また開いてますよね。包帯、替えますから、奥に来てください」
「やれやれ、大した怪我では――」
「来てください」
有無を言わせない声だった。
奥の部屋で、ミナは黙々と包帯を替えた。血の滲んだ布をほどいて、新しい薬草を当てて、きつく巻き直す。
「……ワイバーン、本当に大丈夫ですか。平和主義者ってことになってますけど」
「やれやれ、心配は無用だ」
「無用じゃないから聞いてるんです」
その声は、からかいではなく、本気だった。
「やれやれ、お前こそ、勝手に危険に首を突っ込むな」
(違う。ありがとうと言いたかっただけだ)
ミナは、手を止めずに、小さく笑った。
「じゃあ、勝手に突っ込みますね。相棒なので」
(…………)
(今夜も、反芻する)
包帯の端を結び終えて、ミナが顔を上げた。
「ところで、剣の握り方、ご存じですか」
「やれやれ、そのくらい――」
「知らないんですね」
「…………」
「三日で、なんとかしましょう。朝は私が付き合います」
ミナが、小さな木の棒を一本、俺に差し出した。
そのとき、ギルドの出口のほうで、何かが落ちる音がした。
見に行くと、床に、角の擦り切れた小さな手帳が落ちていた。
バルドのものだった。胸倉を掴まれたとき、ベルトから外れたのだろう。
拾い上げて、ふと、中を開いてしまった。
ワイバーンの絵だ。翼の付け根、首の鱗の隙間、急降下の癖。細かい字で、びっしりと書き込まれている。ページの端は、手汗で黒く変色していた。
最後のページには、赤い文字で、こうあった。
『今回こそ、単独で仕留める。誰にも、手柄を渡さない』
「…………」
横から覗き込んだミナが、息を詰めた。
「この人……すごく、努力してる人ですね」
「やれやれ、そのようだな」
(知ってる。手を見ればわかった)
手帳を閉じる。
あの男は、本気だ。俺みたいに、勝手に持ち上げられた偽物とは、背負っているものが違う。
そして俺は、剣の握り方すら知らない。
三日後には、ワイバーンがいる。




