第4話 報酬を受け取らない聖人
金貨一枚は、驚くほど早く消えた。
滞納していた宿代、ボロボロの服の買い替え、鍋いっぱいのシチュー。財布には銅貨が三枚しか残っていない。
(金貨、シチューに負けるな)
朝。俺はミナと一緒に、ギルドの掲示板の前に立っていた。
「カイさん、この依頼はどうですか。『ホロ村の畑を荒らす魔獣の討伐』。報酬は銀貨八枚です」
「やれやれ、手頃だな」
(手頃なのは俺の懐の寒さだ)
「じゃあ、受けますね。行きましょうか、相棒さん」
「やれやれ、相棒呼ばわりはやめろ」
(相棒呼び……たまんねえな)
ホロ村は、馬車で半日ほどの小さな村だった。
畑には巨大な足跡が刻まれ、作物は無惨に踏み荒らされている。腰の曲がった村長が、杖をついて頭を下げた。
「夜になると、巨大な猪の魔獣が出るのです。もう三晩も、村人は眠れずにおります」
「やれやれ、一晩で片づける」
(二晩かかったらどうするんだ、俺)
その夜。
月明かりの下、畑の真ん中で待っていると、ミナが毛布にくるまったまま小声で言った。
「今回はちゃんと加減してくださいね。山ごと消したら、畑も消えますから」
「やれやれ、心配性だな」
(正論だ。ぐうの音も出ない。「やれやれ」しか出ないけど)
地面が、ずしんと揺れた。
闇の向こうから現れたのは、牙が丸太ほどもある巨大な猪だった。猪というより、動く地形だ。
突進してくる。俺は両手を前に構えた。
(小さく。今回は小さく。昨日の反省を活かせ)
熱を呼び起こそうとして、気づいた。
昨日の夜から、何も食べていない。
体の奥に、火種がない。ミナの前でふらつくまいと、今朝から気合いだけで立っていたのだ。その気合いが、今、音を立てて底をついた。
(出ない)
猪が、目の前に迫る。
(待て、出ない、出ない出ない出ない)
「カイさん!」
ミナの声が、遠くに聞こえた。
次の瞬間、巨大な牙が脇腹をかすめた。
体が宙に浮く。地面に叩きつけられ、肺の空気が全部抜けた。視界が白くなる。口の中に、土と血の味が広がる。
猪が、ゆっくりと向きを変えた。
もう一度、来る。
立て、と思った。立てなかった。膝が言うことを聞かない。腕で地面を押しても、肘が折れる。
(くそ、こんなところで)
猪が地を蹴る。
その前に、小さな影が立ちはだかった。
「こっち! こっちだよ!」
ミナが、毛布を振り回して猪の注意を引いていた。
「やめろ!」
声にならなかった。口から出たのは、いつもの言葉だった。
「やれやれ、下がっていろ」
違う。逃げろと言いたいんだ。頼むから、逃げてくれ。
――その時、腹の底で、何かが弾けた。
ミナを失う。その想像が、空っぽの体に、最後の火をつけた。
(小さく、小さく、小さく――いや、もう、小さくなんてどうでもいい!)
ドンッ!
猪の巨体が宙を舞った。
十メートル、二十メートル。月に届きそうな高さまで上がり、森の向こうへ消えていく。
遠くで、どーん、と音がした。
畑が静まり返る。
新しい穴も、焦げ跡もない。山も無事だ。たまたま、そうなっただけだった。
俺は、その場に崩れ落ちた。
「カイさん!」
ミナが駆け寄って、俺の肩を掴んだ。
「怪我、怪我してる、脇腹が……!」
「やれやれ、かすり傷だ」
「かすり傷じゃない! 血、出てるじゃないですか!」
ミナの手が、震えていた。毛布を握りしめていた指先が、白くなっている。
「……無茶しないでください。お願いですから」
「やれやれ、これくらい、軽いものだ」
「いや、本気など出していないが、とか言わないでくださいね。今回は、絶対に」
「……やれやれ」
(言わなかった。言えなかった。ただの「やれやれ」で、助かった)
ミナは、ふっと息をついて、少しだけ笑った。
「はいはい。わかりました」
そこへ、畑の端から村人たちが駆けてきた。
「魔獣が飛んでいったぞ!」
「一撃で!?」
「畑も無事だ! 一本も踏まれておらん!」
涙を流して駆け寄ってくる。
「ありがとうございます! ありがとうございます!」
「やれやれ、大げさな」
「大げさ、と……」
「我々の感謝を、さらりと受け流して……」
「なんと奥ゆかしい……」
その後ろで、鍬を抱えた中年の男が、青い顔をしていた。
「俺は、怖い……。あんなに強いのに、あんなに無欲で……。あれは、人間なのか……?」
隣の若者が、肩をすくめた。
「いや、あれは、あれで、たぶん腹が減ってるだけだと思う」
鋭い。
翌朝。
宿屋で目を覚ますと、脇腹は包帯でぐるぐる巻きにされていた。ミナの仕事だ。
村長が、袋を抱えて待っていた。
「約束の報酬、銀貨八枚です。それと、村中から集めた感謝のしるしを」
袋の中には、銀貨のほかに、野菜、干し肉、チーズ、焼きたてのパンが詰まっている。
(飯だ。袋が光って見える)
震える手を伸ばす。ありがとうございます、助かります。全身全霊を込めて口を開いた。
「やれやれ、通りがかっただけだ。礼など不要だ」
(……通りがかった?)
(予約して来たんだが)
村長の目が見開かれた。
「な、なんと……報酬を受け取らないと仰るのですか……!」
「いや、違う、そうじゃなくて」
「やれやれ、困っている者を助けるのは当然のこと。金など要らん」
(金が一番要る男の台詞じゃないな)
村人たちがざわめく。
「金も、食べ物も、一切……」
「聖人だ……」
「聖人様だ……!」
誰かが、その場に跪いた。一人、また一人と膝をつき、気づけば村人の半分が手を合わせている。
(拝むな。賽銭をくれ)
もう半分の村人は、跪かずに、顔を見合わせていた。
「でも、何も受け取らないって、逆に怪しくないか?」
「うちの婆さんが言ってた。『ただより高いものはない』って」
「聖人様が、あとで何か請求してきたらどうする」
「請求しない」
「やれやれ、請求などせん。安心しろ」
「請求しない、と仰った……」
「ならば、むしろ安全か……?」
崇める派と、警戒する派が、勝手に言い合いを始めた。当事者は、置いてけぼりだ。
ミナが、横で肩を震わせていた。笑っているのか怒っているのか、判別がつかない。たぶん両方だ。
「カイさん」
「やれやれ、何だ」
「お腹、鳴ってますよ」
ぐう。
村人たちが静まり返った隙間に、腹の音がやけに大きく響いた。
「やれやれ、気のせいだ。俺は断食中でな」
(今、設定が生えた)
「だ、断食中……!」
「修行の最中に、我々を救ってくださったのか……!」
「そういえば、顔色が少し青い……」
「飢えを押して戦ったのか……!」
「でも、断食って、最近流行りの健康法じゃなかったか?」
「あれは、水を飲みながらやるやつだろう。聖人様のは、本格派だ」
「本格派……」
(栄養失調です)
ミナが、口元を押さえた。
「ぷっ……」
「……ミナ」
「す、すみません、ちょっと待ってください……」
「やれやれ、笑うがいい」
(笑ってくれ。誰か笑ってくれないと、俺が壊れる)
報酬は一枚も受け取れないまま、俺は村を後にした。
街に戻る頃には、噂のほうが先に着いていた。
「ホロ村の魔獣を倒した冒険者が、報酬を一枚も受け取らなかったらしい」
「断食修行中だとか」
「水晶を壊した男だろう? ゴブリンの山を消した」
「本物の聖人だ……」
街の入口には、すでに人だかりができていた。
その中から、見覚えのある太った男が、そろばんを片手に飛び出してきた。
「カイ殿! お待ちしておりました! このたびの断食修行にちなんで、『聖人様ご用達・無欲パン』を開発いたしました!」
「やれやれ、何だそれは」
「焼きたてのパンに『無欲』の焼き印を押したものでございます。一個、銀貨一枚。売上の一割を、聖人様に」
(パンを売るな。俺は、パンが食べたいんだ)
パン屋の主人が、焼きたてのパンを差し出してくる。八百屋の奥さんが、果物の籠を押しつけてくる。
涙をこらえて、手を伸ばした。
「やれやれ、施しは受けん。自分の食い扶持は自分で稼ぐ」
(稼げてないから、こうなってるんだが)
「施しすら受けないとは……!」
「なんと高潔な……!」
「さすがは断食の聖人……!」
パンが遠ざかっていった。果物が遠ざかっていった。
視界が、じわりと滲んだ。
その夜。
宿の部屋で、俺は床に突っ伏していた。
(腹が……減った……)
銅貨三枚で買えるのは、朝のスープ一杯だけだ。それも、もう使った。
ノックの音がした。
「カイさん、いますか」
「…………やれやれ、何の用だ」
ドアを開けると、ミナが紙袋を抱えて立っていた。返事も待たずに部屋に入り、ベッドの上に袋を置く。まだ温かいパンと、干し肉と、小さな果物が出てきた。
「……ミナ」
「勘違いしないでください。ギルドの経費で落とします。『聖人様の栄養管理費』という名目で」
「やれやれ、そんな名目があったか」
「昨日作りました」
「…………」
「今朝、規則集の三ページ目に追加しました。ちなみに、昼に『聖人様の昼寝は妨げない』という条項も増やしました」
(制度が、冊子になっている)
(ミナの手で、ギルドの規則が、俺の生活に最適化されていく)
ミナは、にっと笑った。
「食べますか」
「やれやれ、施しは受けん」
(受ける。土下座して受ける)
「はいはい。じゃあ、施しじゃなくて、ミナからの差し入れです」
パンが、目の前に差し出された。湯気が立っている。
「……やれやれ、仕方ない」
手が勝手に伸びて、パンを受け取った。一口かじる。
美味い。
死ぬほど美味い。異世界に来て初めて食べる、まともな食事だった。涙が出そうになるのを、必死にこらえる。
「……やれやれ、悪くない」
(最高だ。生きててよかった。一回死んでるけど)
ミナが、じっと俺の顔を見ている。
「カイさん、食べてますね」
「やれやれ、断食は明日からだ」
「あはは! やっぱりお腹空いてたんじゃないですか」
「いや、そうではないが」
「はいはい」
ミナは笑いながら、俺の隣に腰を下ろした。窓の外では、街の灯りが静かに瞬いている。
「カイさん」
「やれやれ、何だ」
「昨日の夜、猪の前で、立てなかったですよね」
「…………」
「あのとき、本当に、もうダメかと思いました」
ミナの声が、少しだけ低くなった。
「口では何を言っててもいいです。でも、体が限界のときは、ちゃんと、私に頼ってください」
「やれやれ、頼る必要はない」
「……そうですか」
ミナは、小さく笑った。
「じゃあ、勝手に頼らせてもらいます。私が、カイさんに」
(……それは、逆じゃないか)
(でも、何も言い返せない)
「口が無理なら、私が代わりに受け取ります。カイさんが断っても、私が『はい、いただきます』って言いますから」
「やれやれ、勝手にしろ」
(ありがとう。パン、美味い。マジで美味い)
その翌日。
街の掲示板に、新しい噂が張り出されていた。
『報酬を受け取らない聖人冒険者・カイ。断食修行中のため、食事は受け付けず』
俺は、それを見て、静かに膝をついた。
(昨日、パン食ったよな。目撃者、隣にいるよな)
横で、ミナが掲示板を見上げて言った。
「カイさん、昨日のパン、美味しかったですか」
「やれやれ、覚えていないな」
(一生忘れない。墓まで持っていく)
「はいはい」
ミナは笑いを噛み殺しながら、ゆっくり歩き出した。
ふと、掲示板の別の紙に目が留まった。
『ギルド合同・ワイバーン討伐 三日後出発 参加者募集』
その下に、一人の名前が、すでに大きく書き込まれている。
――Sランク冒険者、バルド。
背後で、紙を握りつぶす音がした。
振り返ると、掲示板の端に、真紅の鎧の大男が立っていた。
「……聖人様、ねえ」
大男は、俺の噂が書かれた紙を、ぐしゃりと握りしめたまま、こちらを見ていた。
(……あ、これは、来る)
(相棒って呼ばれたの、実は今朝から五回くらい反芻してる)
そう思ったところで、記憶が一瞬、途切れた。




