第2話 弁償請求と、受付嬢ミナの絶句
静寂は、ギルドの奥から響いた悲鳴で破られた。
「ぎゃああああああ! ない! 水晶がない! 天井もない!」
カウンターの奥から、栗色の髪をひとつに結んだ受付嬢が飛び出してきた。両手に書類の束を抱え、ずり落ちかけた眼鏡も直さずに、瓦礫だらけの床を見回している。
「ミナ、落ち着くんじゃ。ケガ人はおらん」
「落ち着けるわけないでしょう! ここの天井、先月直したばかりなんですよ!?」
ミナと呼ばれた受付嬢は、床に散らばる水晶のかけらを拾い上げ、そこで動きを止めた。
「……待ってください。これ、魔力測定用の『王家認定水晶』ですよね。ギルド長が国から預かってる、あの」
「うむ。国宝級の代物じゃ」
老人が、悟りを開いたような顔で答えた。
国宝。
その二文字で、足から力が抜けた。腰はとっくに抜けかけていたが、今度は本当に膝が折れそうになる。俺は慌てて、カウンターの縁に手をついた。
(弁償、いくらだ。一生かかっても返せないやつじゃないのか)
ミナがゆっくりと顔を上げる。眼鏡の奥の目が、まっすぐ俺を捉えた。
「あなたが、やったんですか」
「やれやれ、安物だろう。この程度で壊れるとはな」
(なんでだよ!! 土下座する準備はできてたんだよ!)
ざわっ、とギルドが揺れた。
「こ、国宝を安物扱い……」
「測定不能どころか、水晶のほうが耐えられなかったんだ……」
「いや待て、国宝が壊れる前に自分から逃げたんじゃないか? 『この人には測れません』って」
「水晶の意思……!?」
誰かが勝手に水晶に人格を与え始めた。
少し離れた席では、太った商人風の男が、そろばんのような道具を取り出している。
「あの若者……名前は何と言う? 『国宝を砕いた男』の名を冠した武具なら、飛ぶように売れるぞ……」
さらに隅のほうでは、小柄な冒険者が膝を抱えて震えていた。
「俺、あの人の隣に座ってた……。あと三十センチずれてたら、俺も……」
反応がバラバラだ。誰一人、本当のところに近づいていない。
ミナは、無言のままかけらを握りしめていた。そして、小さく息を吸う。
「……あの」
「やれやれ、まだ何かあるのか」
「爆発する直前、あなた、顔真っ赤でしたよね」
「………………」
「歯を食いしばって、腕がぶるぶる震えて、膝もがくがくして、足の指で床を掴んでましたよね。あれ、全然『軽く』じゃなかったですよね」
見られていた。
誰にも届かないと思っていた俺の全力を、この子は、最初から最後まで見ていたのだ。
(そうだよ。全力だったんだよ。頼む、もっと言ってくれ。みんなに聞こえるように)
ミナが、まっすぐに言い放った。
「いや、踏ん張ってたじゃん」
ありがとう。あなたが女神に見える。さっきの女神より、ずっと。
俺は感動を込めて、口を開いた。
「いや、本気など出していないが」
(なんでだよ!!)
「……っ!」
ミナが、ぐっと言葉に詰まった。
その瞬間、周囲がどよめいた。
「あれで本気じゃないのか……!」
「国宝が壊れるほどで、まだ余力があるのか……!」
「ミナさん、近くで見てたのに、全然違うことを言ってるぞ」
「あの受付嬢、聖人に取り入ろうとして、あえて本気だったことにしようとしてるんじゃ……」
「いや、きっと身内だから、謙遜に付き合ってやってるんだよ」
(ちがう!! 取り入ってない! ミナだけが正しいんだ! 否定してる俺が嘘ついてるんだよ!)
ミナの肩が、ぷるぷると震え出した。
「ちょ、ちょっと待ってください! 私はそういう意味で言ったんじゃ――」
「やれやれ、気にするな。慣れている」
「慣れてません! 私が慣れてません!」
ミナの叫びは、冒険者たちの感嘆にかき消されていく。
その騒ぎの中で、老人がこほんと咳払いをして、重々しく口を開いた。
「新人よ。名は」
「カイだ」
言えた。普通に言えた。「やれやれ」なしで。
どうやら名前くらいの短い言葉なら、呪いは見逃してくれるらしい。ただ、これまでの被害は取り戻せない。
「カイ殿。水晶の件じゃが……」
来た。弁償の話だ。
俺は覚悟を決めた。皿洗いでも荷物運びでも、何年かかっても返す。
老人は、深く頷いて、こう言った。
「ギルドは、これを『英雄への投資』とする」
「…………え?」
「国宝の損失は、ギルド長に報告のうえ、国に掛け合う。お主ほどの逸材を迎える代償としては、安いものじゃ」
「おおお……!」
「さすがギルド! 太っ腹だ!」
「カイ様、バンザイ!」
冒険者たちが、一斉に拍手を始めた。
助かった。弁償、なし。やった。
喜びのあまり、俺は拳を握りしめて叫んだ。
「やれやれ、当然の措置だな」
(感謝しろ!! 今は感謝するところだ!!)
「当然って……」
「国宝の弁償を免除されて、当然と言い切った……」
「いや、あれは単に、金銭に興味がないのでは」
太った商人が、そろばんを素早く弾いた。
「興味がない……つまり、いくらでも使ってくれる客……」
違う。興味しかない。
そこで、俺はふと気づいた。
弁償が免除になっただけで、財布の中身は何も変わっていない。持ち金は、ゼロだ。転生したばかりで、異世界の通貨すら持っていない。
ぐう、と腹が鳴った。
全力を出し切って、体力は空っぽだ。朝から何も食べていない。
「では、登録手続きを。ミナ、頼むぞ」
「……はい」
ミナが、小さく返事をした。
さっきまで怒っていた彼女の顔は、いつの間にか静かな表情に変わっていた。カウンターに戻り、新しい登録書類をてきぱきと並べていく。
「こちらにお名前と、得意な戦闘スタイルをご記入ください」
「やれやれ、書くまでもないが、仕方ない」
書かせてくれ。普通に書かせてくれ。
ペンを握ると、指先がまだ小刻みに震えていた。字が、ミミズのようにのたくる。「カイ」の二文字が、傾いて、滲んだ。
ミナは何も言わなかった。ただ、ちらりと、俺の右手を見ている。
「……あの、カイさん」
「やれやれ、何だ」
「お腹、空いてますか」
「やれやれ、空いてなどいない。俺は小食でな」
(空いてるよ!! 今にも倒れそうなんだよ!!)
ぐう。
腹が、タイミングよく鳴った。
ミナは、じっと俺の顔を見て、それから、ふっと小さく息をついた。
「……ですよね」
彼女は、誰にも聞こえないくらいの声で、そう呟いた。
登録書類を受け取り、ミナは判を押す。
「はい、登録完了です。これで、カイさんは正式な冒険者です」
「やれやれ、手間をかけたな」
「いえ」
ミナは、少し迷うように目を伏せてから、ぽつりと言った。
「……あの人、全力だった」
それは、周囲の誰にも聞こえなかった。
でも、確かに俺の耳には届いた。
ギルドの外では、青空が眩しかった。
腹は減っているし、金はないし、呪いは解けない。それでも、この世界に来て初めて、ほんの少しだけ、胸のあたりが温かかった。
そこへ、カウンターの向こうから、ミナの声が追いかけてきた。
「カイさん。明日の朝、ギルドに来てください。……初依頼、一緒に選びますから」
「やれやれ、好きにしろ」
(ありがとう)
扉を出る直前、背中に視線を感じて振り返ると、太った商人が、そろばんを片手にこちらへ深々と頭を下げていた。
嫌な予感しかしない。




