第1話 謙虚の呪い、水晶玉が爆散
過労死だった。
三連続の徹夜明けに、駅の階段で足を滑らせた――ところまでは覚えている。気づけば俺は、真っ白な空間で見知らぬ美女と向かい合っていた。
「はじめまして。女神です。あなた、働きすぎで死にました」
そうだろうな。
「お詫びに、異世界で人生をやり直させてあげます。チート能力もつけちゃう。魔力は桁違い、体力も桁違い。どう?」
「マジか! 最高じゃないですか! 俺、今度こそ全力で――」
女神はにっこり笑って、指をぱちんと鳴らした。
「ただし、条件があります。名づけて『謙虚の呪い』」
「……は?」
「あなたの口から出る言葉は、全部『やれやれ』になります。そのあとに、本当に言いたかったことが、ちょっと控えめな強がりになって漏れます。ちなみにこの呪いのことを誰かに話したら、死にます」
「ちょっと待て! 条件が重すぎ――」
「やれやれ、勘弁してくれ。軽い冗談だと思ったんだがな」
……え?
今、俺、なんて言った?
(なんでだよ!! 「ちょっと待て」って言ったんだよ! なんで「やれやれ」から始まるんだよ! しかも「軽い冗談だと思った」って何だ! 全然思ってないぞ!)
女神は満足そうにうなずいた。
「うん、ちゃんとかかってるわね。じゃあ、いってらっしゃい。あ、地の文は自由だから、心の中でならいくらでもツッコんでいいわよ」
(ふざけんな!!)
足元が抜け、俺は光の中へ落ちていった。
気がつくと、俺は石畳の大通りに立っていた。
中世ヨーロッパ風の街並み。行き交う人々の耳は尖っていたり、尻尾が生えていたりする。間違いない、異世界だ。
正直、少しだけテンションが上がった。
俺の名前はカイ。前世の名前は、もう思い出せなくていい。ここから先は、熱血で行く。ブラック企業で擦り切れた分、この世界では全力で生きると決めたのだ。
とりあえず金がない。職もない。となれば、行き先は一つだ。
「冒険者ギルド……ここだな」
重たい扉を押し開けると、酒と汗と革の匂いが一気に押し寄せた。大柄な冒険者たちが昼間から杯を傾け、壁一面の依頼書が風に揺れている。
カウンターに向かうと、白髪の試験官らしき老人が、あくびをしながら顔を上げた。
「新人かね。登録なら、まず魔力測定からじゃな」
「はい! よろしくお願いします!」
……と言ったつもりだった。
「やれやれ、手早く済ませてくれ。暇ではないのでな」
(なんでだよ!! 暇だよ! 無職だよ! 金もないよ!)
老人の眉がぴくりと動いた。周囲の冒険者たちも、ちらりとこちらを見る。
「ほう……自信があるようじゃな」
違う。違うんだ。これは呪いなんだ。そう説明したい。説明したいが、説明したら死ぬ。
(くそっ、とにかく今は結果を出すしかない。呪いのことはあとで考える。チートがあれば、きっと評価してもらえる)
老人が、カウンターの奥から丸い水晶玉を運んできた。人の頭ほどの大きさで、内側に淡い青い光が揺れている。
「これに両手をかざして、魔力を流し込むんじゃ。光の強さで魔力量がわかる。ふつうの新人なら、ほのかに光る程度じゃな」
「…………」
俺は、水晶玉を見つめた。
(見せてやる。女神からもらった、チートの力を)
水晶玉を、両手でがっしりと掴んだ。
「む……? かざすだけでいいんじゃが」
老人の声は聞こえない。俺はもう、集中モードに入っていた。
体の奥から、何かが湧き上がってくる。熱い。とにかく熱い。血管という血管を、溶けた鉄が駆け巡っていくようだ。
(来い……来い来い来い……!)
歯を食いしばる。顔が真っ赤になるのがわかる。額に汗が噴き出し、腕がぶるぶる震え出す。膝が笑う。足の指で石畳を掴んで、必死に踏ん張る。
(うおおおおおおお!!)
水晶玉が、青から白へ、白から眩い金色へと変わっていく。
ギルドの空気が、ぴしりと音を立てて張りつめた。
「お、おい……」「なんだ、あの光……」「待て、おかしい、水晶が――」
ひびが走った。
水晶の表面に一本、また一本。老人の顔から血の気が引いていく。
「ま、待て! 止めろ! それ以上は――」
(止め方が、わかんねえんだよ!!)
次の瞬間。
ドォォォォォォォォォォン!!
耳鳴りがしていた。
世界から音が消え、白い粉塵だけがもうもうと立ち込めている。しばらくして、天井の梁がぎしりと鳴り、頭上からぱらぱらと瓦礫が降ってきた。
見上げると、ギルドの天井がなかった。
きれいに丸く、青空が見えている。
(……やった。やってしまった)
そして、俺の足は、がくがくと震えていた。
正直に言う。腰が抜けかけている。全力を出し切った反動で、立っているのがやっとだ。口の中はからからで、心臓は爆発しそうなほど暴れている。
(頼む、誰か何か言ってくれ。すごいとか、ありがとうとか、せめて「大丈夫か」とか)
粉塵がゆっくり晴れていく。
老人は、床に尻餅をついたまま、ぽかんと口を開けていた。酒を飲んでいた冒険者たちも、杯を持った姿勢のまま固まっている。誰も、ひと言も発しない。
(……よし、とにかく、まず弁解だ。事故なんだって言おう。「すみません、加減がわからなくて」って)
俺は、できるだけ申し訳なさそうな顔を作って、口を開いた。
「ヤレヤレ、軽く力を入れただけなのだがな」
しん……。
ギルドが、完全に静まり返った。
老人の口が、わなわなと震えている。冒険者の一人が、持っていた杯をことりと落とした。割れる音だけが、やけに大きく響く。
誰も、何も言わない。
青空の下、全員が、俺を見ている。
(……いや)
(全力だったんだよ!!)
(腰、抜けかけてるんだよ!! 今、立ってるのが奇跡なんだよ!!)
俺の魂の叫びは、誰にも届かないまま、ぽっかり空いた天井から青空へ吸い込まれていった。




