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侯爵家を支えていたのは誰か、社交界はとうに気づいていた  作者: 秋月 もみじ


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第8話 春の社交季


春の社交季の最初の招待状は、私の名と、もうひとつの名前が並んで書かれていた。


廊下の対峙から、二月が経っていた。


その二月のあいだに、雪はゆっくり溶け、王宮の塀の影に薄く残っていた氷も、いつの間にか消えた。ローズウェル邸の庭の梅は咲き終わり、桜の蕾が、枝の先で硬く膨らんでいた。宰相府でのお務めは、もう、初日のような緊張のなかにはなかった。私の机の上に積まれる書類の量は、二月前と同じ量で、けれど、私がそれを読み解く時間は、半分ほどに縮まっていた。


書面は、エドワード様の手から、私の手元へ、約束のとおり、翌朝にお渡しいただいた。


ダニエル様の謝罪の書面だった。


書面の中身を、私はその場では開かなかった。エドワード様も、開けて見ろとは、おっしゃらなかった。私は書面を受け取り、自分の机の引き出しに、レオノーラ様の私信の隣に、丁寧に仕舞った。仕舞ってから、その日のお務めに戻った。書面を開いて読んだのは、一月ほど経った、ある夜のことだった。書面が引き出しに入っている、ということに慣れる時間が、それくらい必要だった。


書面の冒頭には、こうあった。


「ローズウェル伯爵令嬢 シルヴィア様」


その下は、しばらく、お務めくださった、と書こうとして消した跡が、紙の表面にうっすらと残っていた。書き直された文字は「貴ご令嬢に」だった。「お務めくださった」は、最後まで、書ききれなかったのだろう。


書面の中身は、思ったよりも短かった。


五年間の自分の言動について、自分が何をどう取り違えていたか、そのうちのどれが特に重い過ちだったか。それを、ダニエル様は、ご自身の言葉で、一つずつ、列挙されていた。列挙の仕方は、書類仕事に慣れない方の書き方だった。話が前後し、文の長さが揃わず、敬語の繊細な使い分けにも、いくつか乱れがあった。けれど、その乱れは、嘘の少ない乱れだった。整った謝罪文を専門家に頼まずに、ご自分で書こうとした方の乱れだった。


書面の末尾には、こうあった。


「貴ご令嬢のお返事をいただきたい、とは申しません。ただ、本書面を、お一度、お手元に置いていただけましたなら、それで十分でございます」


私はその一行を、しばらく見ていた。


書面を畳んで、引き出しに戻した。


返事を書くつもりは、その夜の私には、なかった。


それから一月、私はその書面のことを、机の引き出しの中に残したまま、過ごしてきた。引き出しの中に書面が一通あること、ということに、慣れていく時間だった。


その日の朝、書記官のお務めの始まる前に、邸宅へ届いた招待状を、ミラが書斎の机の上に置いておいてくれた。私はお務めの支度のついでに、机のほうへ目をやり、招待状の封蝋の色に、息が止まった。


王家の紋章だった。


王家筋からの直接のご招待は、ローズウェル家にとっては、滅多にないことだった。父の代になってから、たぶん、両手で数えるほどしかない。私は招待状を受け取り、慎重に封を開けた。便箋は一枚。文面は、儀礼通りの形をしていた。


「春の茶会のご招待。


第二王女殿下ご主催。


王宮西庭、四月二日午後。


宰相府第二席補佐 ヴェルナー伯爵令息 エドワード様、ならびにローズウェル伯爵令嬢 シルヴィア様、両名のご出席を賜りたく」


私はその文面を、二度読んだ。


二度目に読んだ時、最後の「両名のご出席を賜りたく」の一行を、もう一度、ゆっくり目で追った。


「両名」


両名、というのは、宰相府の連名ということではなかった。連名の招待状の形式は、王宮の規定で、いくつかある。今回の形は、「第二席補佐」と「公式書記官」の宰相府連名ではなく、「ヴェルナー伯爵令息」と「ローズウェル伯爵令嬢」という、家名と個人名の連名だった。


つまり、これは、公式の社交における、同伴の招待だった。


私はもう一度、便箋を畳んだ。


畳んだ便箋を、机の隅にそっと置いた。


その朝の馬車の中で、ミラが、いつもより少しだけ、緊張した声で言った。


「お嬢様、お衣装は、いかがなさいますか」


「四月二日でしょう」


「はい。あと、十日ございます」


「お母様にご相談してから、決めるわ」


「畏まりました」


ミラの声には、わずかに、はずむような気配が混じっていた。それを、私はあえて、聞き流した。


宰相府に着いて、私は午前のお務めに取りかかった。要旨をいくつか書き、サミュエル様に提出した。サミュエル様は、書類を受け取りながら、何でもない調子で、ふと言葉を落とされた。


「ローズウェル殿、招待状はお手元に届きましたか」


「届きました」


「そうですか」


「サミュエル様も、ご存知でいらしたのですか」


「ええ。第二王女殿下のご主催の茶会につきましては、当府にも事前にお伺いがございます。今回は、第二席補佐殿のお席のお隣に、もう一席ご用意いただく旨、殿下のご家令を通じて、当府にお知らせがございました」


「お隣のお席を」


「公式の同伴ということでございます。当府としては、書記官のお務めの上で、何ら問題はございません」


サミュエル様は、それだけ言って、書類を整え直された。整え直しの手つきが、いつもよりやや丁寧だった。それを、私はあえて、見過ごした。


午後、エドワード様の執務室から、書類の引き取りに呼ばれた。


執務室に入って、書類を受け取り、いつもどおりお務めの確認をした。確認のあと、エドワード様は、書類を私に渡された手のまま、しばし間を置かれた。


「ローズウェル殿」


「はい」


「春の茶会の件、お話を、伺ってもよろしいですか」


「招待状を、頂戴いたしました」


「同伴の形での招待でございます」


「存じております」


「ご無理を、強いるおつもりは、ございません」


エドワード様の声には、ご自分の側の都合を押しつける気配が一つもなかった。


「殿下のほうから、お席をご用意いただいたのは、私の希望ではなく、殿下のご判断によるものでございます。けれども、私の側にも、ご一緒したいという希望は、ございました。両方が重なりましたので、招待の形になっております」


「ご一緒したい」


「はい」


「公式の場で、でしょうか」


「公式の場で、まず、ご一緒したいと存じました」


「ご一緒したい」のあとの「まず」の意味を、エドワード様は、その日、それ以上はおっしゃらなかった。けれど、その一語だけで、十分に届いた。


「お受けいたします」


「ありがとうございます」


「ヴェルナー様」


「はい」


「私のほうから、お一つ、お願いがございます」


「どうぞ」


「茶会の場で、私のことを、書記官としてご紹介ください。婚約者の方、ですとか、お知り合いの方、ですとか、そういうご紹介ではなく、宰相府公式書記官のローズウェル伯爵令嬢、とだけ」


「畏まりました」


「ありがとうございます」


エドワード様は、軽く一礼された。一礼の角度は、いつもの執務室での会釈より、ほんの少しだけ深かった。


茶会の日が来た。


四月二日の午後は、春らしい、穏やかな日だった。王宮西庭の桜は、八分ほど咲いていた。風がほとんどなく、卓布の縁が揺れない。給仕の方々は静かに歩き、案内係の方々はにこやかに頷きを返し、招待客の方々は、桜の枝のあいだに見え隠れする卓のほうへ、ゆっくり進んでいった。


私はエドワード様と、王宮西庭の正面の門で合流した。


エドワード様は、宰相府の文官の正装ではなく、伯爵令息としての社交の装いだった。襟のあたりがいつもより少し高く、袖口に銀の刺繍が控えめに入っていた。装いを変えても、その方の所作は変わらなかった。私の腕に手を添えるのではなく、私が腕を添える先に、ご自分の腕を、自然にお置きになった。


「ローズウェル殿」


「ヴェルナー様」


「行きましょう」


「はい」


王宮西庭の入口の案内係は、私たちを見て、書類を一度、目で追った。それから、深く頭を下げた。書類を二度見直すような迷いは、その案内係には、なかった。私の名前が中央の席の名簿の上にあること、エドワード様のお席のすぐ隣にあること、それを、案内係は最初の一瞥で確認していた。


中央の卓は、円卓だった。


第二王女殿下の主賓席を中心に、左右に席が広がる形になっていた。私たちの席は、殿下のお席から数えて、左に三つ目と四つ目。三つ目がエドワード様、四つ目が私。私の隣には、私の知らないご令嬢のお席があった。


席に着くと、私の右隣のご令嬢が、軽く頷いてくださった。お年は、私と同年代に見えた。


「ローズウェル伯爵令嬢でいらっしゃいますね」


「はい。本日はよろしくお願い申し上げます」


「コートランド伯爵令嬢でございます。ヴェルナー第二席補佐殿のお仕事のお話は、宰相府の取次の文官の方から、よくお聞きしております」


「お務め先で、ご縁を頂戴しております」


ご令嬢はそれだけおっしゃって、上品な微笑みを送ってくださった。それ以上は、お聞きにならなかった。私とエドワード様の関係について、社交の場で詮索なさるおつもりは、なかったらしい。それが、たぶん、コートランド伯爵令嬢の品の良さだった。


茶会が始まる前、卓のあちらこちらで、扇の動きが、ちらほらと交わされた。


私の左、エドワード様の向こう側にお座りの貴婦人と、その向こうのご夫人とが、扇の影で、低く言葉を交わしておられた。私の耳には、半分ほどしか届かなかったけれど、断片は、はっきりしていた。


「アシュフィールド家のご招待状、今季は、ずいぶん少のうございますね」


「ええ」


「ハーグレイヴ嬢のお名前も、主だった茶会には、見当たりませんもの」


「あの方が降りられたのですもの」


「お降りになった、というよりは、お引き取りいただいた、というほうが、正確かもしれませんよ」


「まあ、奥様、お口にお気をつけになって」


そこまで聞いて、私は扇を膝の上で軽く整え直した。


整え直す時に、骨が一本曲がっていた扇は、もう、新しいものに替わっていた。捨てるつもりはなかったし、わざわざ取り出して見比べる気もなかった。あの扇は、家のどこかで、そのままの形で残っているだけだった。


茶会は穏やかに進んだ。


寄付目録の確認の場でも、お話の場でも、私とエドワード様は隣に座っていた。話題が外交方面に触れた時には、エドワード様が私に視線をくださった。私は短く、必要なことだけ申し上げた。話題が私的な領域に近づきそうになった時には、エドワード様がいつもの落ち着いた口調で、自然に別の話題へ流された。


その流し方は、上手すぎなかった。


上手すぎないところが、たぶん、エドワード様の流し方の特徴だった。気の利いた切り返しを毎回お考えになる方ではなかった。けれど、相手が話題に困らないだけの間合いを、お持ちの方だった。


茶会の終盤、第二王女殿下が、卓の中央からゆっくりとお立ちになった。


茶会のお礼を、招待客全員にお伝えになるためのお立ちだった。寄付の御礼、ご臨席への御礼、桜のご鑑賞への御礼。儀礼通りのお言葉を、殿下は短くまとめてくださった。最後に、殿下は、ご自分の左手のほうへ、軽く視線を移された。


殿下の視線は、エドワード様と、私の方に向けられた。


「ヴェルナー殿、ローズウェル伯爵令嬢」


殿下が、私たちを呼ばれた。


「お二人とも、本日はようこそお越しくださいました」


「お招きにあずかり、誠にありがとうございます」


エドワード様がご返事申し上げた。


殿下は、エドワード様にも頷きを返してくださってから、私の方へ、もう一度、目をお向けになった。


「ローズウェル伯爵令嬢」


「はい」


「先の冬の観劇会の日、わたくしは、桟敷の三段下にあなたがいらしたのを、覚えています」


殿下のお声は、卓のすべての方々に聞こえる声ではなかった。けれど、私と、私の左右のお二人と、向かいの席のお一人に、ちょうど届く声だった。届く範囲を、殿下はご自分の声量で、正確に選んでいらした。


私は、お返事の言葉を、一拍だけ、お待たせした。


それから、深く一礼を申し上げて、こう答えた。


「畏れ多いお言葉、痛み入ります」


「本日、わたくしのお席の左に、あなたがいらっしゃることを、嬉しく思っております」


殿下は、それだけおっしゃって、もとのお席に、ゆっくりと戻られた。


戻られたあと、扇を片手で軽く広げ、お茶を一口、お召し上がりになった。お茶を召し上がる動作は、いつもの殿下のお動作と、何も変わらなかった。けれど、卓の左右の貴婦人たちは、その瞬間、扇の影で、お互いに小さく頷きを交わしていらした。


私の隣のコートランド伯爵令嬢が、お茶のカップを置きながら、低くおっしゃった。


「ローズウェル殿。あなた、殿下にずっと、ご覧になっておられたのですね」


「殿下に、でございますか」


「殿下のほうが、あなたをずっとご覧になっておられた、というほうが正確かもしれませんね」


ご令嬢は、それだけおっしゃって、もうそれ以上はお話しにならなかった。


茶会が終わる頃、桜の花びらが一枚、私の卓布の縁に落ちた。


エドワード様は、それを指で取って、卓の外へ置こうとされた。けれど、途中で、その手を止められた。花びらを、もう一度、卓布の上の、私の手のすぐそばに、そっとお戻しになった。私はその花びらに、しばらく目を落とした。それから、扇でそれを軽く挟み、扇のあいだに留めた。


「お持ち帰りに」


「はい」


「お渡しすべきでした、最初から」


「ご無礼があったわけではございませんよ」


エドワード様は、軽く微笑まれた。


その微笑みは、執務室で見せられた、下手な微笑みと、同じだった。


茶会のあと、私とエドワード様は王宮西庭の正面門まで、ご一緒に歩いた。


門の手前で、エドワード様は、私のほうに、軽く一礼された。


「本日、お疲れさまでございました」


「ヴェルナー様こそ」


「明日のお務め、お待ちしております」


「はい」


「お足元、お気をつけて」


私は門の外の馬車のほうへ、ゆっくりと歩いた。


歩きながら、扇のあいだに留めた桜の花びらの厚みを、指で軽く確かめた。


家に帰り着いたのは、夕暮れの少し前のことだった。


書斎へ入って、私はまず、扇のあいだから花びらを取り出した。書斎の机の上に、薄い紙を一枚広げ、花びらをその上にそっと置いた。乾かしてから、押し花にしておくつもりだった。


そこへ、家令が、扉の外から、低く声をかけてきた。


「お嬢様」


「なに」


「お父様から、お言伝でございます」


「お父様から」


「お父様の書斎に、お時間のあるときに、お顔をお出しください、と」


「すぐ参るわ」


私は花びらの紙を、書斎の机の隅に丁寧に置いてから、父の書斎へ向かった。


父の書斎は、廊下の突き当たりにあった。扉を軽くノックして、開けると、父は、いつもの執務机の前に座っておられた。机の上には、書類が一通、置かれていた。封蝋の色は、見覚えのある朱色ではなかった。けれど、見覚えのある花押が、封の上に押されていた。


「シルヴィア」


「お父様」


「先ほど、アシュフィールド家から、お使いが見えた」


私はその瞬間、父の机の上の書類が、何を意味するのかを、察した。


「ダニエル様が、明日、予告なくこの家を訪ねたい、とおっしゃっておられる、とのことだ」


「明日でございますか」


「明日の午後だ。ご本人から、私宛てに、直筆の書状が届いている。お母上のお口添えがあるわけではない。ダニエル様ご自身のご判断で、当家への訪問をご希望になっておられる」


父は、書状を私の方に向けて、机の上に押し出された。


私は受け取らなかった。


受け取らないまま、しばらく、机の上の書状を見ていた。


「シルヴィア」


父はもう一度、私の名を呼ばれた。


「お会いになるかどうかは、お前が決めればよい。会いたくなければ、当家として、訪問をお断りする。それも、当家としては、何の不都合もない」


私はもう一度、書状を見た。


書状の封の上の花押は、ダニエル様ご本人の花押だった。お母上のものでもなく、お父上のものでもなく、ダニエル様ご自身の花押。それが、はじめて、ローズウェル家宛てに押された便だった。


机の上の書状の少し向こうに、父の書斎の窓があった。


窓の外、ローズウェル邸の庭の桜の枝が、半分ほど咲き始めていた。王宮西庭の桜より、ほんの少しだけ、開きが早い品種だった。父が母のために、何年か前に植え替えた木だった。


私は窓のほうへ、しばらく目を向けた。


それから、父のほうへ視線を戻して、ゆっくり言った。


「お会いします。一度だけ」


「分かった」


「明日、午後、応接間でお迎えする手筈で、お返事をお出しください」


「分かった」


父は、それ以上は、何もお尋ねにならなかった。


私は一礼して、父の書斎を退いた。退いてから、自分の書斎へ戻り、机の隅に置いていた桜の花びらの紙を、もう一度、覗き込んだ。花びらは、まだ柔らかかった。明日の午後までに、これを押し花にしておこう、と思った。


押し花にしておくのは、そのほうが、たぶん、私の手の中で、長く形を残すからだった。


お会いします。一度だけ。そう答えた自分の声の落ち着きを、私は、しばらく、心の中で確かめていた。

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