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侯爵家を支えていたのは誰か、社交界はとうに気づいていた  作者: 秋月 もみじ


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第9話 戻らない選択


ダニエル様が、予告どおり、我が家の門をくぐっていらした。


春の茶会の翌日の午後だった。


その日、私は宰相府を午後から休ませていただいていた。お務めの調整は、前日のうちにサミュエル様にお願い済みで、エドワード様にも、面談のご報告だけは申し上げていた。エドワード様は、面談の中身について、何もお尋ねにならなかった。お聞きにならない、ということが、その方なりの距離の取り方だった。


午後の少し前から、私は応接間の支度を、自分の目で一通り確認した。


家令には、いつもの来客と同じ手順でお迎えするように、と頼んだ。ダニエル様だけを特別扱いする支度も、逆に粗略に扱う支度も、しなかった。それが、今日いちばん必要な距離だった。


ローズウェル邸の応接間は、侯爵邸のものより一段、狭い造りだった。卓は中ほどに一つ、椅子はそれを挟んで向かい合う形で二脚。壁際にもう二脚、控えの椅子がある。窓は一つ。窓の外には、父が母のために植え替えた桜の木が、ほぼ満開だった。


時刻通りに、馬車の音が玄関に着いた。


「ダニエル様、お見えでございます」


家令が、私のいた小書斎の扉の外から、低く告げた。


「応接間にお通しして」


「畏まりました」


家令が退いた。私は鏡の前に立ち、襟元のかすかな乱れを直した。襟元の留め金は、その日の朝、ミラに二度、確かめてもらっていた。乱れは、なかった。それでも、私はもう一度、左右の対称を見直した。見直してから、扇を手に取り、応接間へ向かった。


応接間の扉を開けると、ダニエル様は窓のほうを向いて立っておられた。


桜のほうを、見ておられた。


私が入ったのに気づいて、ダニエル様は振り返られた。


その振り返り方は、私の知る彼の振り返り方より、わずかに、ゆっくりだった。普段の彼であれば、扉の音に対して、もう少し早く身体を返す方だった。近衛のお務めの癖が、そうさせていた。けれども、その日のダニエル様は、振り返るまでに、たぶん、一拍ぶん、長くかかった。


「シルヴィア」


「ダニエル様」


「来てくださって、ありがとう」


私は応接間の真ん中の卓の手前まで歩き、礼を返した。それから、自分の側の椅子に腰を下ろした。ダニエル様も、向かいの椅子に座られた。座られる時、姿勢が、いつもより少しだけ、まっすぐだった。


「お父様には、急なご訪問のお手数をおかけしてしまった」


「父は、何も気にしておりません」


「ありがとう」


応接間の扉のすぐ外で、父が静かに立っているのが、扉の隙間越しに、わずかに見えた。父は、扉の外で、ただ立っているだけだった。介入はしない。けれど、いつでも開ける用意で、立っていた。介入しないという用意のための立ち方を、父はその日、玄関の家令の表情から、すでに決めていたらしかった。


「シルヴィア」


ダニエル様は、卓の上に、ご自分の両手を、軽く置かれた。


「五年、君に、何をしていただいてきたのか、私は何も見ていなかった」


私は、何も応えなかった。


応える順番ではない、と思った。


「家政も、贈答も、夜会の段取りも、外交の書簡も、母上に代わるご社交も、すべて、君の手で回っていた。それを、私は、当然のことだと思っていた。当然と思ったまま、五年、君に対して、君なら分かってくれる、と繰り返してきた」


ダニエル様の声は、書面で書こうとして書ききれなかった文字を、口で言い直しているような声だった。話の運びが、書面と同じく、前後し、文の長さが揃わなかった。けれど、その不揃いさが、書面と同じく、嘘の少ない不揃いさだった。


「母上から、贈答記録の頁の中身が、すべて君の字で埋まっていた、と伺った。家令から、新年の贈答の差出順を取り違えた経緯を聞いた。あの差配は、本来、私の手で行うはずのものだった。私は、それを、形式的に名前だけ書いていた。中身を本当にしていたのは、五年間、君だった」


「ダニエル様」


「最後まで、お聞きいただきたい」


私は頷いた。


「君を、軽んじていたつもりは、なかった。けれど、軽んじていないつもりであることと、軽んじていないことは、別のものだと、母上から教えていただいた。あの言葉を、私は、まだ、自分の中で、消化しきれていない。けれど、消化しきれていないまま、ここに来た。消化してから来るのでは、たぶん、もう、永久に間に合わないと思ったので」


ダニエル様は、そこで一度、息をついた。


「謝罪を申し上げに、参った。書面で、お読みになっていただいたかもしれない。けれど、書面では、私の文字の癖で、書ききれなかった言葉があった。それを、口で、直接、お伝えしたかった」


「お務めくださった、でございますか」


私はそう、確かめた。


ダニエル様の目が、わずかに見開かれた。


「お読みになったのか」


「拝読いたしました」


「冒頭の、貴ご令嬢に、と書いた前の言葉が、書ききれなかった」


「お務めくださった、でございますね」


「そうだ」


「私は、お務めとして、お仕えしてきたのではございません」


私の言葉に、ダニエル様は、はじめて、お口を結ばれた。


「私は、ダニエル様の婚約者として、当家を支えるつもりで、五年、お仕えしてまいりました。家政が回っていたのも、贈答記録が整っていたのも、外交書簡の書きぶりが調っていたのも、お務めだからではなく、私が、ダニエル様の婚約者であったからでございます。お務めくださった、というご表現は、私の五年を、別のものに置き換えてしまいます」


「すまない」


「お謝りいただくことではございません。ただ、お務めくださった、と書ききれなかった、ということが、ダニエル様ご自身のなかでも、ご整理がついていなかったのだ、と思います。それで、ご整理がつかないまま、お書きにならなかったのだろう、と」


「君は」


ダニエル様は、そこで、しばらく言葉を止められた。


「君は、私が思っていた人より、ずっと、賢い人だったのだな」


「そういうご感想を、頂戴する場面では、ないと存じます」


「すまない」


ダニエル様は、もう一度、頭を下げられた。


下げ方が、五年前の婚約のご挨拶の時よりも、深かった。深い、というよりは、自分の身体の重さを、頭の下げ方の中に、はっきり乗せた頭の下げ方だった。それは、社交の場の頭の下げ方ではなく、個人の頭の下げ方だった。


「ダニエル様」


「はい」


「謝罪は、お受けいたしました」


「ありがとう」


「けれども、戻ることは、ございません」


私は扇を膝の上で、ゆっくり閉じた。


「怒っているのではないのです」


ゆっくり、私は続けた。


「五年、私は、分かろうとしておりました。お務めではなく、婚約者として、分かろうとしておりました。ご病弱なお父様のことも、お家の事情も、ノエル様のお立場のことも、できるだけ分かろうと、私はしてきたつもりでございます。それを、五年やりました」


ダニエル様は、何もおっしゃらなかった。


「五年、私は、分かろうとして、分かれませんでした。分かれなかった、というよりは、分かろうとし続けることが、私の中で、できなくなりました。ですから、もう、分かりませんでした、もう、と申し上げているのです。これは、ダニエル様への、怒りではなく、私自身の限界のことを、お伝えしているだけでございます」


「シルヴィア」


「もう一度、五年やり直す力は、私の中に、ございません。やり直すべき場所だった、とも、もう、思っておりません。やり直しではなく、別の場所で、別の人と、別のやり方で、別の五年を、私は始めるつもりでございます」


ダニエル様の目が、卓の上の、桜の枝の影に落ちた。


窓のすぐそばの桜が、応接間の卓布の上に、薄い影を一枝ぶん落としていた。影はゆっくり動かなかった。風がほとんどなかった。けれど、応接間の中の空気は、卓布の影が落ちている方角に、ほんの少しだけ、動いていた。私とダニエル様の沈黙のあいだを通って、窓の方へ、空気は逃げていった。


「君を、無理に引き戻すつもりは、もう、ない」


ダニエル様は、ようやくおっしゃった。


「今日、ここに来たのは、引き戻すためではなかった。直接、謝罪をお伝えするためだった。それを、お聞き届けいただけた。だから、もう、十分だ」


「ありがとうございます」


「シルヴィア」


「はい」


「お幸せに」


「ダニエル様も、お元気で」


ダニエル様は、立ち上がられた。


立ち上がる時、椅子を引く音が、応接間の中で、軽く響いた。それから、ダニエル様は、もう一度、深く頭を下げられた。私も立ち上がり、頭を下げた。


「失礼する」


「お見送りいたします」


「いや」


ダニエル様は、ご自分の手のひらを、ほんの少しだけ、私の方へお向けになって、控えめにそれを止められた。


「玄関までは、家令の方にお願いする。君は、ここに、座っていてくれ」


私はそれに従った。


ダニエル様が応接間を出ていかれる時、扉の外の父の姿は、もう、見えなくなっていた。父は、ダニエル様の退室に合わせて、扉から離れていたのだと思う。応接間の扉が閉まり、廊下を二人ぶんの足音が遠ざかっていった。一人は家令、一人はダニエル様。家令の足音のほうが、いつもより、少しだけ、急いでいた。気を遣わせて申し訳ない、と思った。けれど、その気遣いは、家令自身も、その日、必要としていたのだと思う。


応接間に、私一人になった。


私は、卓の上の桜の枝の影を、しばらく見ていた。


それから、扇を膝の上に戻し、膝の上に置いた両手で、扇を軽く挟んだ。挟む手は、震えていなかった。震えていない、ということを、確かめるための挟み方だった。


外の廊下から、父の足音が、ゆっくり戻ってきた。


父は応接間の扉を、軽く開けた。


「シルヴィア」


「お父様」


「終わったか」


「はい」


父は、それ以上は、何も尋ねなかった。応接間に入ってきて、私の隣の椅子に静かに腰を下ろし、しばらく、私と一緒に、卓の上の桜の枝の影を見ていた。応接間の窓の外で、桜の花びらが、わずかに、卓布の上の影の中を、横切るのが見えた。卓布の上には落ちなかった。窓の縁を伝って、外の地面のほうへ、ゆっくり落ちていった。


父の手のひらが、私の肩の上にそっと置かれた。


重くもなく、軽すぎもしない、ちょうどよい温度の手のひらだった。私はその手のひらの下で、息をひとつ、ゆっくり吸った。吸ってから、ゆっくり吐いた。吐く時に、ようやく、自分が長く息を止めていたことを知った。


「お父様」


父の手のひらが、私の肩の上で、わずかに動いた。


「ありがとうございました」


父は、それ以上は、何も言わなかった。


それで、十分だった。


その夜、書斎に戻ってから、私は引き出しの中から、レオノーラ様の私信の束を、もう一度取り出した。封蝋の朱色が、引き出しの中で、いつのまにか、まとまった数になっていた。最初の便、二通目の便、贈答遅延の便、廊下の対峙の翌朝の便、それから、その他、いくつか。一通ずつ、もう一度、目で追った。最後の便だけ、まだ届いていなかった。たぶん、明日か、あさってには、来るだろう、と思った。


便箋を引き出しに戻し、私はもう一度、机の隅の、押し花用の紙を確かめた。


桜の花びらは、薄く乾き始めていた。


紙の上で、形を保ったまま、色だけがゆっくり褪せていく途中だった。


予想通り、レオノーラ様からの便箋は、翌日の昼前に届いた。


便箋は短かった。


「シルヴィアさん。


息子は、昨日、ローズウェル邸を辞してから、夜遅くまで、書斎の窓辺に立っておりました。何時間も、桜のほうを見つめておりました。お話の中身を、息子は、わたくしには伝えませんでした。けれど、書斎の窓辺の長さで、わたくしには、おおよそのことが分かりました。


息子は、もう、あなたに何も求めません。


あなたの幸せだけを、わたくしは願います。


このお便りを、最後にいたします。これ以上、当家がローズウェル家にお便りを差し上げることは、社交上の儀礼を除いて、ございません。あなたが、ご自分のお名前のもとに、お幸せにお進みになりますことを、わたくし一人、静かにお祈り申し上げております。


レオノーラ・アシュフィールド」


便箋を読み終えて、私はそれを、ゆっくり畳んだ。


畳んだ便箋を、引き出しの中の私信の束のいちばん上に、丁寧に置いた。引き出しを閉める時、紙の擦れる音は、もう、私の中で、何の音とも繋がらなかった。


その日、宰相府へ戻った私の机の上に、小さな包みが一つ、置いてあった。


包みは、文字通り、小さかった。手のひらの上に乗る程度の、薄紙にくるまれた、何かの菓子の包みだった。茶色い薄紙の表面に、文字は何も書かれていなかった。


「これは」


私は、机の脇に立ち寄ったサミュエル様に、軽く尋ねた。


サミュエル様は、机の上の包みを覗き込み、それから、おかしそうに小さく笑われた。


「補佐殿の差し入れですよ」


「補佐殿の」


「ええ。今朝、ご自分でお持ちになって、ご自分でお置きになっておられました」


「何の理由で、でございましょう」


「さあ」


サミュエル様は首を傾げた。


「補佐殿は、こういう時に、ご理由を、お話しになる方ではございませんから」


サミュエル様は、それきり、書類の整理に戻られた。


私は包みを、机の脇に、しばらくそのまま置いておいた。


午前のお務めの途中で、ふと、隣の執務室の扉のほうへ目をやった。扉は、いつものとおり、閉じていた。けれど、扉の向こうから、書類をめくる音が、規則的に聞こえていた。エドワード様の手の動きは、その朝も、変わらないままだった。


昼休憩の少し前、私は包みの薄紙を、開いてみた。


中身は、小さな焼き菓子が、二つだった。一つは、薄い茶色で、上に薄く粉砂糖がかかっている。もう一つは、少しだけ濃い茶色で、表面に細かい切れ目が一筋入っている。両方とも、私が宰相府の控えのお茶のそばに置いてある、書記官のあいだで人気の菓子屋のものだった。私は、自分がその菓子屋の名を覚えていることに、少し驚いた。覚えるほど食べたつもりは、なかったはずだった。けれど、書記官のお茶の時間に、いつもサミュエル様が二、三枚、皿に並べておられたのを、私は意識せずに見ていたらしい。


エドワード様が、それを、覚えていらした。


午後のお務めの途中で、私は、菓子の一つを、お茶と一緒にいただいた。


もう一つは、ハンカチに包んで、机の引き出しに、しばらく仕舞っておくことにした。


仕舞ってから、私は机の上に、便箋を一枚、出した。


便箋の宛名のところに、「ヴェルナー第二席補佐殿」と書いた。


書いてから、書き直した。


「エドワード様」と書き直した。


書き直してから、本文は、まだ、書けないでいた。本文の代わりに、便箋の余白に、桜の花びらの形を、ペンの先で、ほんの軽く、なぞった。なぞっただけで、便箋は、机の引き出しに、また仕舞った。書く時期は、まだ、もう少し先だ、と思った。書ききれない言葉のせいで、永久に間に合わなくなる、ということを、私は、もう、知っていた。


その夜、書斎の窓辺で、私は桜のほうを、しばらく眺めていた。


ローズウェル邸の桜の木は、ほぼ満開だった。明日には、満開を過ぎる頃合いだった。

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