第7話 宰相府の廊下で
ダニエル様の声が、宰相府の廊下で聞こえた瞬間、私はペンを置いた。
新年の贈答の遅延から、二週間が経っていた。
その二週間のあいだに、宰相府でのお務めは、私の中で少しずつ形を持ち始めていた。朝の手順、要旨を書く速度、サミュエル様への提出のタイミング、エドワード様の執務室の扉を叩くまでの間合い。一つ一つの動作が、無理のない長さに収まり始めていた。最初の一月は、自分の手の動きを、自分で監督するような疲れがあった。二月目に入って、その監督が、少し楽になり始めていた。
その日の午後は、いつもより静かに始まった。
雪が王宮の屋根に薄く積もっていて、廊下の靴音が、いつもよりわずかに鈍く響いた。窓の外、王宮の塀の向こうで、街の市場の屋台が、雪を払い落としている音が遠くに聞こえた。私は東方諸国の覚書の写しを、もう三通、要旨に直したところだった。
それから、ペンを置いた。
正確に言うと、ペンを置いてから、廊下の声に気がついた、というほうが正しい。
最初に聞こえたのは、受付の方角からだった。受付官の声は、低く、礼儀正しかった。けれど、相手の声が、その声に重なってきた瞬間、私の指は止まった。指が止まったあとで、ペンを机に置いた。
聞き覚えのある声だった。
「シルヴィアに会いに来た。直接、話したい」
ダニエル様の声だった。
声の調子は、私の知る五年間の彼の声とは、少し違っていた。普段のような、軽い砕け方がなかった。けれど、宰相府の受付に立つには、言葉の運び方がやや唐突だった。彼は、外交陪席文官の前で見せる完全な敬語と、私に見せていた砕けた口調との、ちょうどあいだの調子で話していた。たぶん、ご本人の中でも、まだ調整がつききらないところがあったのだろう。
「申し訳ございません」
受付官の声が、返した。
「当府の規定上、私的なお申し入れは、事前のお手続きを、お願いしておりまして」
「シルヴィアは、私のかつての婚約者だ。直接、謝罪を伝えたい」
「お気持ちは、お察し申し上げます。けれども、規定は、私のような受付の者が、お一人の判断で、お受けできるものではございませんので」
受付官の声は、平らかだった。けれど、平らかさのなかに、人としての気の毒さが、少しだけ滲んでいた。完璧に冷たい、というよりは、職務上、こうお応えするしかない、という困り方のほうだった。
廊下の声は、それきり、しばらく止まった。
私の小部屋の扉は閉じたままだった。けれど、廊下の音は、宰相府の建物の構造上、第二席補佐執務室の扉のあたりまでは、よく届く。届く距離に、ダニエル様が立っておられた。
少しして、別の靴音が廊下に増えた。
落ち着いた、規則的な靴音だった。受付の方角から、こちらへ近づいてくる。エドワード様の靴音だった。エドワード様の靴音は、宰相府の建物のなかで、私の机の前まで届く距離をいつも一定の速度で歩く。その速度が、その日も変わらなかった。むしろ、いつもより少しだけ、落ち着いていた。
エドワード様の靴音は、私の小部屋の扉の前を通り過ぎた。
通り過ぎて、廊下のもう少し奥、私の執務室の扉と、書記官室甲の扉のあいだの中間あたりで、立ち止まられた。立ち止まる音は、靴の踵がきれいに揃った音だった。
「アシュフィールド殿」
エドワード様の声が、廊下に低く広がった。
「お待たせいたしました。第二席補佐のヴェルナーでございます」
「ヴェルナー第二席補佐殿」
ダニエル様は、その瞬間、口調をきれいに整えられた。
私はそれを扉の内側で聞いた。聞き分けた、というほうが、近い。ダニエル様は、エドワード様に対して、完全な敬語で応えた。受付官に対する時よりも一段、丁寧な調子。私に対して五年間お使いになってきた口調とは、はっきり違う声だった。それを、私は扉一枚を隔てて、初めて、横で聞いた。
「先ほどの件、私のほうで承りました」
エドワード様は続けられた。
「当府の文官への私的な面会は、規定により、お受けいたしかねます。これは、文官の身分に関わる規定でございますので、私のほうで例外を作ることもできません。ご了承ください」
「ヴェルナー殿、こちらにも、その、事情がございます。私は」
ダニエル様は、そこで一度、言葉に詰まられた。
完全な敬語を保とうとして、彼の中で、続きの一言を選びかねたのだ、と分かった。整った敬語のなかに、整いきらない一拍が混じった。それが、その日のダニエル様の、いちばん人らしい声だった。
「お話の途中で恐縮ですが」
エドワード様は、声を少しも荒げず、けれども、相手の言葉を引き取られた。
「先に、お聞きいただきたい点がございます」
「どうぞ」
「ローズウェル殿は、当府の公式書記官でいらっしゃいます。任官の正式書類は、王宮にすでに登録されております。当府の文官は、勤務時間中、原則として私的な面会をお受けいたしません。これは、当府の文官の名誉を守る規定でもございます」
「名誉、と申されますと」
「文官は、勤務時間中、当府の代表として書類と向き合っております。私的な要件は、勤務時間外に、私邸へ申し入れていただくのが筋でございます。私邸への申し入れにつきましては、お相手のご意向次第でございますので、私のほうで何かを申し上げる立場には、ございません」
エドワード様の声には、変な強さは一つもなかった。
ただ、必要な順序で、必要なことだけが、丁寧に積まれていた。
ダニエル様は、しばらく、お応えにならなかった。
その沈黙の長さで、私はダニエル様が、いつもの彼ではない、と知った。普段の彼であれば、こういう場面では、もう少し早く何かを言われる方だった。「君なら分かってくれる」というような、相手の側に同意を引き出そうとするお言葉が、彼の習慣だった。けれど、その日、廊下の沈黙の中で、彼はその習慣を、使わなかった。
「ヴェルナー殿」
ようやく、ダニエル様の声が戻ってきた。
「私の用件は、ローズウェル殿に、私の謝罪を、直接お伝えしたい、というものでございます。当府の規定に背くおつもりは、ございません。私的な面会が叶わぬのであれば、私の謝罪を、書面の形で、ローズウェル殿のお手元へお届けする道は、ございませんでしょうか」
「書面でございますか」
「はい」
「ご謝罪のご書面を、当府でお預かりして、書記官の私的なお便りとして、ご本人の手元へお渡しする、ということでしたら、可能でございます」
「お願いいたします」
「お持ちいただけますか」
「今、持ってまいりませんでした。本日中に書き上げ、明日の朝、当府の受付までお届けいたします」
「畏まりました。受付では、私宛にお預けください。私から、ローズウェル殿に、確かにお渡しいたします」
「ヴェルナー殿に、お預けする、ということでございますか」
「私から、ご本人へ、確かにお渡しすると、お約束いたします」
ダニエル様は、もう一度、沈黙された。
その沈黙の意味を、私は判じかねた。エドワード様の手を経由して書面が届くということが、ダニエル様にとってどう感じられたのか、たぶん、ご本人にも、すぐには整理がついていなかったのだろう。それでも、ダニエル様は、最後に、丁寧に応じられた。
「ヴェルナー殿。本日のご対応、ありがとうございました」
「お役に立てましたなら、何よりでございます」
「失礼いたします」
ダニエル様の靴音が、廊下を戻っていく音が聞こえた。
受付の方角へ向かって、ゆっくり、けれど一定の速度で。途中で、立ち止まる気配はなかった。受付官に一礼してから、宰相府の正門のほうへ歩いていかれたらしかった。
廊下の靴音が、完全に遠ざかったあと、エドワード様の靴音が、もう一度動いた。
私の小部屋の扉のほうへは、向かわなかった。
エドワード様は、ご自身の執務室の扉を、静かに開けて入っていかれた。扉が閉まる音は、控えめだった。
私はペンを取り直し、要旨の続きを書こうとした。
書こうとして、もう一度、ペン先を止めた。
止めたあと、私はしばらく、何もしなかった。
机の上の書類のあいだに、朝、サミュエル様が運んできてくださった、北方諸国の覚書の写しが一通、挟まっていた。北方の覚書のことは、その日のお務めの後半に取りかかる予定だった。私はその覚書を、何も書かれていないようなふりをして、しばらく眺めた。
眺めるあいだ、自分の左の手のひらが、机の縁の同じ場所に、軽く触れていた。
机の縁は、ひんやりとしていた。
新年の贈答の話を聞いた時と、同じ場所だった。
机の縁の同じ場所をなぞる癖がついていることに、私は、その日、自分で気づいた。
ダニエル様は、私に対して、五年間、「君なら分かってくれるだろう」と言い続けてこられた方だった。婚約解消の最後の場面でも、その口癖を、お母上の前で繰り返した、とレオノーラ様の私信に書かれていた。けれど、今日、廊下で、ダニエル様は、その言葉を、一度も使わなかった。
ご謝罪を、書面で、というのは、ダニエル様にとっては、ご自分のお考えの中でいちばん不器用な選択だった。彼は、書面を書くのが、得意な方ではなかった。書斎の机の前に座る時間が、騎士のお務めや剣の稽古に比べて、彼の人生には少なかった。それでも、書面、という形を、彼はその場で選んだ。直接お話しすることが叶わない、と告げられた瞬間に、別の道を探そうとされた。
それは、彼の中で、起きたことだった。
何が起きたのかは、廊下の声からだけでは、まだ全部は分からない。
分からないままで、いいのだと思う。
午後の後半、エドワード様の執務室の扉は、ずっと閉まったままだった。けれど、扉の向こうから、書類をめくる音が、いつもの規則正しさで聞こえてきた。エドワード様は、私のところへは来られなかった。来られないことが、その日のエドワード様の配慮だった。
私は要旨を、午後のあいだに、もう二通、書いた。
書き上げた要旨をサミュエル様の机に届けに行った帰りに、廊下の窓から、もう一度、中庭を見た。中庭の梅の木の花は、二週間前より、少し増えていた。けれど、まだ一面に咲き揃ってはいなかった。一輪、また一輪、と、慎重に咲いていく種類の花だった。
その日、終業時刻に近づいた頃、エドワード様の執務室の扉が、ようやく開いた。
エドワード様は、ご自分のほうから廊下に出てこられ、私の小部屋の扉を、ノックされた。
「どうぞ」
「ローズウェル殿」
エドワード様は、扉を少しだけ開けて、入室はなさらなかった。立ったまま、扉の枠に手を添えておられた。
「本日、ご無礼を、お赦しください」
「ご無礼など、何一つございません」
「廊下のお声が、お耳に届いていたかと存じます」
「届いておりました」
「お務めの邪魔をいたしました」
「いいえ」
「お一つだけ、お伺いしてもよろしいですか」
「どうぞ」
「明日の朝、お預かりすることになる書面につきまして、いかがいたしましょうか。ご本人にお手渡しするか、お机にお届けするか、あるいは、お受け取りを保留するか。あなたのご意向に、私は従います」
私はその問いを、しばらく、考えた。
考える時間を、エドワード様は、急かさずに待っておられた。立ったまま、扉の枠の上の埃を、指で軽く払ったりはなさらなかった。ただ、私の答えを、扉の外でお待ちになっていた。
「お預かりください」
私はそう言った。
「明日、お時間のあるときに、私の手元へ、ご本人にお渡しになるのと同じ形で、お渡しください」
「畏まりました」
「ヴェルナー様」
「はい」
「本日、ありがとうございました」
エドワード様は、軽く一礼された。
「お役に立てましたなら、何よりでございます」
それから、扉をそっと閉めて、廊下の向こうへ戻っていかれた。
その日の帰りの馬車の中で、ミラは、いつもより静かだった。
馬車が王宮の正門を抜けて、街の通りに出る頃、ミラはようやく、ぽつりと言った。
「お嬢様」
「なに」
「今日は、もう、お声を出さなくていいですか」
「いいわよ」
「ありがとうございます」
それきり、ミラは家まで何も言わなかった。馬車の窓の外で、雪解けの泥が、車輪の側面を時折跳ね上げる音だけが、低く響いていた。
家に着いて、書斎へ入った時、机の上に、レオノーラ様からの私信が、もう一通、届いていた。家令が、私の留守のあいだに、書斎の机の上に、丁寧に置いておいてくれていた。
封蝋を切ると、便箋は短かった。
「シルヴィアさん。
息子の振る舞いを、深くお詫び申し上げます。
宰相府にて、当府の規定に従いきれぬ言動をいたしました由、当家の家令から伺いました。ご本人は、書斎にて、本日のうちに書面の謝罪を書き上げる、と申しております。明朝、当家から宰相府の受付へ、息子の名で、書面を一通お届けする手筈になっております。
息子の謝罪が、あなたのお手元に、お役に立つ形でお届けできることを願います。お役に立たぬとお感じになりましたなら、受け取らずに、当家へ返却いただいて結構でございます。
レオノーラ・アシュフィールド」
私は便箋を読み終えて、机の引き出しに、丁寧に仕舞った。
引き出しの中には、もう、レオノーラ様からの私信が、何通か並び始めていた。封蝋の色は、どの便も、同じ侯爵家の朱色だった。けれど、一通一通の手触りが、書かれた時期によって、わずかに違っていた。最初の便、二通目の便、それから、贈答遅延の便。どの便も、レオノーラ様ご自身が、お一人で書いておられた便だった。
私はもう一度、便箋を取り出して、最後の一行を、もう一度だけ読んだ。
「お役に立たぬとお感じになりましたなら、受け取らずに、当家へ返却いただいて結構でございます」
レオノーラ様は、ご自分の息子の書面ですら、私に拒む権利があると、書いてくださっていた。それが、お母上として、楽な選択ではないことは、私にも分かった。けれど、その一文を書く方だからこそ、私は、レオノーラ様の側に立っていられた。
便箋を引き出しに戻し、私は書斎の窓辺へ歩いた。
窓の外、ローズウェル邸の庭の梅の木にも、白い花が、いくつか咲いていた。一月も終わりに近づいていた。
その夜、別の場所で起きていたことを、私が知るのは、もう少しあとのことになる。
同じ夜、アシュフィールド侯爵邸の嫡子の書斎で、ダニエル様は、机の前に座って、書面を書いておられた。書面の冒頭の文字を、何度か書き直された。書斎の扉の外には、家令の老女が、湯気の立つ茶を運んでこられた。ダニエル様は、茶器を受け取り、机の隅に置いて、書面の続きに戻った。茶は、ダニエル様が一口も飲まないうちに、ゆっくり冷めていった。書斎の窓の外で、雪が、もう一度、薄く降り始めていた。
私がその夜のことを知るのは、後にレオノーラ様から届く一通の便箋による。便箋の中には、こう書かれていた。
「息子は、夜半まで、書斎の机の前で書面を書き直しておりました。書面の冒頭に、五年お務めくださったあなたへの、と書こうとしては消し、書き直しては消す、ということを繰り返したそうでございます。ようやく書き上げた書面の冒頭には、ローズウェル伯爵令嬢 シルヴィア様、とだけ、書かれておりました。お務めくださった、という言葉を、息子は最後まで、書ききれませんでした」
私がその一行を読むのは、もう少しあとのことだった。




