第6話 贈答が、間に合わない
新年の贈答が、間に合わなかったらしい。
アシュフィールド侯爵家にとって、十年ぶりのことだった。
宰相府公式書記官として、私が初めての一月を勤めおえた頃のことだった。年が改まり、王宮内も静かに正月の段取りに入り、宰相府でも、東方諸国向けの新年の覚書の整理に追われていた。私の机の上にも、いつもの倍ほどの書類が積まれていた。書きぶりの遅い手は、もう、私の中にはなかった。五年間の手の癖は、書く場所が変わっても変わらなかった。むしろ、自分の名で書類を書くようになってから、手の速さは、わずかに上がっていた。
その朝、サミュエル様が私の小部屋へ書類を運んでくるついでに、ひとつ、軽い口調で言葉を落とされた。
「ローズウェル殿、お聞きになりましたか」
「何でしょうか」
「アシュフィールド侯爵家が、新年の贈答で、王家筋への差出順を取り違えたそうですよ」
私はペン先を、ほんの少しだけ、机の上で止めた。
止めたあと、もう一度、書き始めた。書き始める速度は、止まる前と同じだった。指がそうした、というよりは、五年ぶんの癖が、止まるべきでないことを知っていた。
「と、おっしゃいますと」
「年の初めに王家筋へお届けする贈答は、お届けの順番が決まっております。陛下、王后陛下、王太子殿下、それから、王女殿下方の順。各殿下のあいだにも、ご年齢と継承順位による細かな先後がございます。これは王宮の慣例として、長く守られてまいりました」
「存じております」
「アシュフィールド家は、その順番で、王女殿下方のお届け先を、入れ替えてしまったらしいのです。第二王女殿下と、第三王女殿下と」
「第二王女殿下が、後になられた、ということでしょうか」
「ええ。お届けの日付の上では、丸一日、後にお届けになりました」
私はペン先を紙の上に戻し、書きかけの一行を書き終えた。書き終えてから、自分の指の冷たさを意識した。指は冷たかった。けれど、震えてはいなかった。震えるほど、私は驚いていなかったらしい。
「丸一日の差は」
「大きいか、小さいか、私にも分かりません。けれども、王宮側で、お届けの記録は残ります。第二王女殿下のお手元の記録にも、ご家令の記録にも、両方に残ります」
「そうですか」
サミュエル様は、それ以上は何もおっしゃらなかった。書類の束を私の机の脇に整えてから、軽く一礼して退室された。サミュエル様の退室の足音が、いつもより、ほんのわずかに静かだった。気を遣ってくださっている。それは、足音の細さで分かった。
私は書きかけの要旨へ戻った。
差出順を取り違える、というのは、贈答記録の段で起きる種類のことだった。五年間、贈答記録を整えてきた者として、私はその起こり方を、よく知っていた。
王家筋への新年の贈答は、書類の段で、お届け先のご身分の高い順に、上から並べる。差出人のサインを入れる前に、お届け先の順を一度確認する。確認のあと、書類の上から順に、贈答品とお届け状を組み合わせ、馬車を出す。馬車の手配の段では、馬車の数と、お届け先の所在地によって、最適な順路が組まれる。順路が組まれた段で、書類の順と馬車の出発時刻が一致しているかを、もう一度確認する。
確認は、合計で三度ある。
三度の確認のうち、最初の確認をするのが、贈答記録の主たる管理者の務めだった。
五年間、その務めをしてきたのは、私だった。
私が抜けたあと、その確認が、誰の手に渡ったのかは、知らない。家令の老女のもとに渡ったのか、新しく雇われた書記の手に渡ったのか、それともダニエル様ご自身の手に渡ったのか。私の知らないことだ。
ただ、確認の段が、どこかで一段、抜け落ちた、ということだけは、私にも察しがついた。
書類の段で順番が崩れたのか、馬車の段で順番が崩れたのか。どちらにしても、最初の確認の責任は、本来であれば、差配の名前を持つ嫡子にあった。
午前の途中で、サミュエル様の隣の部屋から、別の同僚の方の声が、薄い壁越しに少しだけ漏れてきた。
「使用人頭の老女が、漏らしたそうですよ。お嬢様がいらした頃は、間違いなど一度もありませんでした、と」
「漏らした、というのは、どこで」
「アシュフィールド邸のご家令の方に、当家の書記の方が伺った時に。書記の方がそのまま、宰相府の取次官に伝えたそうです」
「そうか」
「五年、と、その老女はおっしゃったそうです。五年、お嬢様がいらした頃は、間違いなど一度もありませんでした、と」
声はそれ以上は続かなかった。
私は要旨の続きを書いた。
書きながら、自分の左の手のひらを、机の縁にそっと押し当てた。指先ではなく、手のひらの中央を。机の縁の冷たさが、手のひらの皮膚に、ゆっくり広がった。冷たさは、不快ではなかった。むしろ、私の指の温度を、ほんの少しだけ下げてくれた。
午前のうちに、要旨を二通、書き上げた。
二通目を書き上げたところで、扉が小さくノックされた。
「どうぞ」
「ローズウェル殿」
扉を開けて入ってきたのは、サミュエル様ではなかった。エドワード様だった。手に、書類を一束、持っておられた。
「お忙しいところ、失礼します」
「いえ、どうぞ」
エドワード様は、私の机の脇に立ち、書類を机の上に置かれた。書類は、東方諸国の覚書ではなく、北方諸国の覚書の写しだった。サミュエル様の職域からは、少し外れた書類だった。
「ご覧いただきたい書類がございます」
「私が、でしょうか」
「ええ。北方諸国の覚書のうち、外交方面と、贈答方面の両方にまたがる書類で、東方の手だけでは判じかねるものが、年明けに二、三、出てまいりました。私は、贈答方面の感覚をお持ちの方に、ご助言をいただきたいと思っております」
「贈答方面の感覚」
「あなたが、五年お持ちになっていた感覚です」
私はペンを置いた。
ペンを置いた音が、机の上で、ほんのわずかに鳴った。
エドワード様は書類を私の机に並べた。広げて、上から三通目の覚書を、指で軽く示された。
「この覚書には、当方からの贈答品の格について、北方の家令の側から問い合わせがございました。当方が前年と同じ格でお返しすることは、可能でしょうか」
私は覚書の文面を、ゆっくり読んだ。
北方諸国の家令の方の書きぶりは、丁寧だったが、行間にやや焦りがあった。前年の贈答品の格を踏まえつつ、今年は別の格でも構わない、というご示唆を、暗に出している文面だった。北方は前年、こちらが選んだ品の格に、わずかに不釣り合いを感じておられたらしい。
「前年と同じ格でお返しになるよりは、一段、軽い格で揃えられたほうが、よろしいかと存じます」
「と、おっしゃる根拠は」
「先方の家令が、暗にそうご示唆になっておられます。前年の品が、先方にとってはやや重すぎたのではないかと、文面の三段目から、お見受けします」
「ご明察です」
エドワード様は、書類を持ち上げ、覚書の三段目に、ご自分の指でほんの少しだけ印をつけられた。それから、もう一通の覚書も、同じように私のほうに向けて広げられた。
「こちらは、いかがでしょうか」
私はその覚書も、丁寧に読んだ。
二通目の覚書も、贈答方面の調整の覚書だった。読みながら、私は、自分の手が動きやすいことに気づいた。五年間、似た形の書類を見てきた手だった。書類の前で、私の手は、ずっと、こうして動いていた。
「こちらは、当方からの贈答ではなく、当方への贈答の格を、先方が打診しておられます。先方の家格を考えると、こちらが受け取る品は、前年より一段重くしていただいて、差し支えないかと存じます」
「ありがとうございます」
エドワード様は、二通の覚書を、ご自身の手元に戻された。戻しながら、机のそばで、しばらく立ったままでおられた。立っていることに、目的があるのか、ないのか、私には判じかねた。
「ローズウェル殿」
「はい」
「お聞きしてもよろしいですか」
「どうぞ」
「侯爵家の贈答記録のお話は、お耳に届いておられますか」
私はエドワード様の目を、まっすぐに見た。エドワード様は、私の目を、避けずに見返された。お聞きになりたいことを、避けずにお尋ねになる方だった。
「届いております」
「お辛い、お話でございましょうか」
「いいえ」
私は、自分でも少し意外なほど、すぐにそう答えた。
「辛い、というよりは、ようやく、と感じております」
「ようやく」
「ようやく、私のいた場所が、どんな形をしていたのか、外側からも、見ていただけるようになった、と」
エドワード様は、しばらく、何も応えられなかった。
応えない時間が、応えになっていた。それから、エドワード様は机の脇から一歩下がり、軽く一礼された。
「お務めの邪魔をいたしました」
「いいえ」
「もう一つだけ、よろしいですか」
「はい」
「お茶を、お飲みでいらっしゃいますか」
私は机の上を見た。
机の隅に、朝に出された茶器が一客、置いてあった。茶は半分ほど残っていた。湯気はもう完全に失われ、表面に薄く膜が張りかけていた。書類に集中していたあいだに、私は茶のことを、すっかり忘れていた。
「失礼いたしました。お務めに夢中で、いただくのを忘れておりました」
「私がいただきます」
エドワード様は、そう短くおっしゃった。
「あなたの分は、新しくお持ちさせます」
「いえ、お気遣いには及びません」
「気遣いではありません。冷めた茶をお飲みになると、お腹が冷えますので」
その答えに、私はうまく、返事ができなかった。
エドワード様は退室された。扉が閉まったあと、しばらくして、給仕の方が新しい茶器を運んできた。給仕の方は、私の机の上の冷めた茶器を黙って下げ、新しい茶を、湯気が立ったまま、机の隅に置いた。
「補佐殿のご指示でございます」
給仕の方は、それだけ言って、退室された。
私は新しい茶器のほうへ、しばらく目をやった。
湯気は、私の机の上で、まだ静かに立ち上っていた。
午後のお務めの途中で、ローズウェル家のミラから、邸宅に届いた書状を持って参内するという伝言が、宰相府の受付経由で届いた。受付官は、当府で書状を受け取り、私の小部屋へお持ちすることもできますがいかがしましょうか、と尋ねてきた。私はお願いしますと答えた。書状は一刻もしないうちに、私の机の上に運ばれてきた。
封蝋を見て、私はもう一度、そっと指でなぞった。
アシュフィールド侯爵家の紋章。レオノーラ様の私印。
封を切ると、便箋は一枚だった。文面は、いつもより少しだけ長かった。
「シルヴィアさん。
新年のご贈答の折に、当家が王宮へ不都合をおかけしました件、お耳に届いているかと存じます。お察し申し上げる通り、王家筋へのお届けの差出順を、当家にて取り違えました。
このたびの不手際の責は、家督代行であるわたくしにございます。すでに王宮へは正式にお詫び申し上げ、第二王女殿下にも、当家家令を通じて改めてお詫び申し上げました。
息子には、母である私から、改めて五年あなたが何をしてきたかをお話ししました。今、彼は黙っております。お話ししたあと、何時間も、書斎の窓辺に立っておりました。
これ以上、当家の事情をあなたにお伝えするのは、いたずらにあなたのお務めの妨げになるかと存じますので、控えます。
宰相府でのお務めが、あなたにとって、ようやく息のつける場所となっておりますように。
レオノーラ・アシュフィールド」
便箋の終わりまで読み終えて、私は便箋を、机の上に静かに戻した。
戻してから、もう一度、湯気の立つ茶器のほうへ目をやった。
「今、彼は黙っております」
その一行を、私は声に出さずに、頭の中で、二度繰り返した。
ダニエル様は、私の知る限り、書斎の窓辺に立つ習慣のない方だった。書斎にいる時には、たいてい、机の前に座っておられた。立たれるのは、近衛のお務めの時か、あるいは、剣の稽古の時だった。書斎の窓辺に何時間も立ち続けたという話は、その方の二十四年の人生で、たぶん、その日が初めてだった。
私はそれを想像した。
想像しても、嬉しいとは思わなかった。
ただ、想像してから、自分の中の、長く詰まっていた何かが、ほんの少しだけ、緩んだ気配があった。緩んだ気配を、私は手のひらで押さえるようにして、便箋を畳んだ。畳んでから、便箋を、机の引き出しに、丁寧に仕舞った。
新しい茶を、私は半分ほどいただいた。
湯加減は、ちょうどよかった。お腹は冷えなかった。
午後の遅い時刻に、要旨を、もう一通、書き上げた。
書き上げた要旨をサミュエル様に届け、自分の小部屋に戻る途中で、廊下の窓から、外の中庭が見えた。中庭の梅の木に、ほんの少しだけ、花がついていた。一月の梅は、まだ早い。けれど、確かに、白い花がいくつか、枝の先に咲いていた。
その日の終業時刻まで、私は要旨をもう二通、書いた。
帰りの馬車の中で、ミラが、私の肩掛けを直しながら、ふと小さく言った。
「お嬢様、今日は、お茶を温かいまま召し上がられたのですね」
「どうして分かるの」
「お顔色が、朝より、少しだけ、ふっくらしていらっしゃいます」
私はそれに答えなかった。
答える代わりに、馬車の窓のほうへ目をやり、王宮の塀の影が、馬車と一緒に後ろへ流れていくのを見送った。塀の影の向こうで、もう、雲の縁に夕方の色がついていた。
家に着いたのは、夕方の少し前のことだった。
書斎に入って、私は引き出しから、レオノーラ様の便箋をもう一度取り出した。便箋を広げ直して、最後の一行だけ、もう一度読んだ。
「宰相府でのお務めが、あなたにとって、ようやく息のつける場所となっておりますように」
私はその一行を、しばらく見ていた。
それから、便箋を畳み、もとの引き出しへ戻した。引き出しを閉める時、引き出しの内側の、五年分の控えの帳面の束が、わずかに音を立てた。紙と紙の擦れる、乾いた音だった。
その音は、もう、私を傷つけなかった。




