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侯爵家を支えていたのは誰か、社交界はとうに気づいていた  作者: 秋月 もみじ


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第5話 宰相府の机


宰相府の門をくぐったのは、私にとって生涯で初めてのことだった。


エドワード様の書状を受け取った夜から、五週間が経っていた。


その五週間のあいだに、私はまず宰相府へ正式な面談の申し入れの返書を送り、その後、父とともに王宮内の宰相府控室に二度参内した。一度目は宰相府第二席補佐エドワード様との面談。二度目は宰相閣下ご本人との面談だった。それから、ローズウェル家の身分照会が行われ、王宮側で必要な書類の確認が終わるまでに、さらに二週間ほどかかった。


有爵令嬢が宰相府の文官として登用される例は、当代までに三例あった。十年以上前のことが二例。それから、つい七年前にもう一例。三例とも、外交方面の書記としての登用で、特例ではなく、前例のある制度として記録されている。私はその三例の名前を、書類の写しのなかでひととおり確認した。ご令嬢たちの名前は、私が社交界で耳にしてきた名前のうち、誰のものでもなかった。任官のあと、皆さま、社交界の表舞台から少しずつ離れていかれた方々だったのだろう。


そういう道を歩んだ方が、私の前に三人だけおられた、ということを、私は最初の参内の朝に知った。


「お嬢様」


任官の朝、ミラが私の襟元の留め金を直しながら言った。


「お似合いになっておられます」


「ありがとう」


「あの、お嬢様」


「なに」


「右の襟が、ほんの少し」


私は鏡を見直した。鏡の中で、右の襟が、左より一ミリほど内側に折れていた。ミラがそっと指でそれを直した。直し終えると、ミラは一歩下がり、もう一度、私の全身を眺めた。


「行ってまいります」


「お気をつけて」


ミラの声には、わずかに緊張が混じっていた。私自身の声よりも、ミラの声のほうが、その朝は緊張していた。


馬車は王宮の門を抜け、宰相府のある内庭の方角へ進んだ。慈善茶会の時に通ったのと同じ門だった。けれど、馬車の進む先は違った。茶会の時には西の中庭へ向かう道を進んだ。宰相府は東の翼にある。馬車の窓の外を流れる風景は、見たことのある王宮の壁から、見たことのない王宮の壁へ、徐々に変わっていった。


宰相府の正門の前で、馬車は停まった。


私は馬車を降りて、正面の階段を上がった。階段の幅は、社交の場の階段より一段一段が少しだけ広く、緩やかだった。書類を抱えて昇り降りする人のための階段なのだ、と気づいた。


正門の中に入ると、受付の卓があった。


「ローズウェル伯爵令嬢シルヴィア様、本日付けで当府公式書記官のご任官、おめでとうございます」


受付官が、机の上の名簿を指で押さえながら言った。私の名前は、その名簿の最後の行に、新しいインクで書き加えられていた。受付官は名簿の隣に置いてあった木の箱から、銀色の腕章を取り出し、卓の上に置いた。


「本日からお務めの間、こちらの腕章をご着用ください。袖の上から、左の二の腕に。終業の際は、こちらの受付までお戻しください」


「畏まりました」


私は腕章を受け取り、左の二の腕に通した。腕章の縁の刺繍はまだ新しく、糸の匂いがわずかに残っていた。袖の上で指先を一度だけ撫でた。新しい糸の繊維が、指の腹に薄く触れた。


「ご案内いたします」


受付官が立ち上がり、私を建物の奥へ導いた。


廊下は、私の知る貴族邸の廊下より、ずっと長かった。両側には扉が等間隔に並び、扉の上には番号と職務名の札が掛かっている。第三書記室。外交記録室。条約管理室。私は札を一枚一枚目に留めながら、受付官の足音を追った。受付官の靴音は、社交の場で聞く靴音より、わずかに早かった。


「こちらでございます」


受付官が立ち止まった扉には、「第二席補佐執務室」とだけ書かれていた。エドワード様の執務室だ。


「ローズウェル殿のお部屋は、こちらの執務室と扉一枚で繋がっております、隣の小部屋になります」


「はい」


「お入りください」


受付官は私を執務室の手前ではなく、廊下のもう一つ奥の扉のほうへ案内した。「書記官室甲」と札のある扉だった。


扉を開けると、こぢんまりとした小部屋だった。窓は一つ。机が一台。椅子は二脚。机の上には、新しい紙の束と、インク壺、それから羽根ペンが二本、用意されていた。机の脇の壁際には、書類を並べておく棚が、私の背丈ほどの高さで据えられていた。


そして、机を背にした正面の壁には、もう一つ扉があった。


その扉は、エドワード様の執務室と直接繋がっている扉だった。


「第二席補佐の執務室と隣接しております。これは」


受付官は、そこで一度言葉を切った。


「補佐殿のご指示でございます」


「ご指示」


「ええ。第二席補佐は通常、執務室の机の配置にお口を出されることはございません。けれど、ローズウェル殿のお席につきましては、補佐殿が、ご自身で配置をお選びになりました」


受付官の表情には、わずかに、面白がっているような気配があった。けれど、その面白がりは、軽口の種類のものではなかった。むしろ、自分の上司の珍しい振る舞いを、控えめに尊敬している、という気配だった。


「補佐殿は」


「珍しいですか」


「珍しい、というよりは」


受付官は言葉を選んだ。


「めったにないことでございます」


私は何も応えなかった。


応えるべき言葉が見つからなかった、というのが正直なところだった。


受付官は一礼して退室した。扉が閉まり、私は一人で部屋に残された。窓の外には、王宮の東翼の低い屋根が並んでいる。屋根の向こうに、薄い春の雲がいくつか浮かんでいた。


机の前に立った。


机の上の紙の束を、私はゆっくり手に取った。新しい紙はまだ少し冷たい。指の腹で表面を撫でた。書記官の最初の紙だった。私は椅子を引き、座った。座面の革は新しすぎず、誰かが事前に何度か座って、馴染ませてくれていたらしい。きっと前任の方の椅子ではなく、新しく用意された椅子で、誰かが代わりに座って慣らしておいてくれたのだ。それが誰だったのかは、聞かないほうがよかった。


午前のうちに、私は同僚にあたる書記官の方三名に、ご挨拶を済ませた。三名とも男性で、年は私より少し上から、十ほど上まで。三名はそれぞれ、外交方面の書記の中でも、東方諸国担当、北方諸国担当、海岸諸国担当、と職域が分かれていた。私の職域は、しばらくのあいだ、東方諸国担当の補佐としての勤めから始まる、ということだった。東方諸国担当の方は、私と同年代に見える、穏やかな顔立ちの方だった。お名前はサミュエル様、とおっしゃった。


「ローズウェル殿」


サミュエル様は、私の小部屋に書類の束を運んでこられた時、私の机の脇に書類を置きながら、ふと小さく笑われた。


「お机の配置のこと、お聞きになりましたか」


「先ほど、受付官の方から伺いました」


「これは、私の知る限りでは、二度目の珍事でございますね」


「珍事」


「あの方がお机の配置にご指示をなさるのは。前回は、外交記録室の天窓の真下にご自身の机を置いてくれと、おっしゃった時で、あれは外交方面の書類の判読のための日射しの問題でしたから、業務上の理由でございました」


「今回は」


「今回は」


サミュエル様は、ご自分のお考えを言わずに、ただ微笑まれた。


「業務上の理由かどうかは、私たちには、判断がつきかねます」


それから、サミュエル様は私の机の上に書類を整え直し、要点を二、三、説明してくださった。書類は東方諸国からの覚書の写しが数通。私の最初の務めは、それぞれの覚書を読み、要旨を書き起こし、第二席補佐のもとへ提出する、というものだった。


私は午前の残りの時間を、その仕事に費やした。


要旨を書き起こすのは、五年間、侯爵家でしてきた仕事と、形がほとんど同じだった。書き手の癖を読み、内容の優先度を判断し、宛先と差出人の関係を加味して、最も必要な情報を上に置く。差出順、敬語のレベル、書面の格。それらを総合して、宛先が一読で必要なことを把握できる文章に整える。


私の指は、ほとんど迷わなかった。


迷わない、ということが、自分でも少しだけ意外だった。


午後のはじめに、私は要旨を一通、書き上げた。サミュエル様にお見せしたところ、サミュエル様はそれを一通り読まれて、頷かれた。


「お手数ですが、これは直接、補佐殿のお手元へお運びください」


「私が」


「ええ。新人のはじめての書類は、直接お運びするのが当府の慣例でございます」


私は要旨を持ち、自分の小部屋から廊下を一歩、隣の執務室の扉へ移った。執務室の扉をノックした。


「どうぞ」


中から、低い声がした。


聞いたことのある声だった。観劇会の幕間に、私と一瞬視線が合った、向かいの桟敷の方の声。それから、慈善茶会の柱の影に立っておられた、あの方の声。声を直接聞くのは、その時がはじめてだった。私が知っていたのは、ミラから伝え聞いた一言と、書状の宛名の筆跡だけだった。


扉を開けた。


執務室は、私の小部屋の三倍ほどの広さだった。窓は二つ。中央に大きな執務机。書棚が壁を埋めていた。


机の向こうから、その方は立ち上がられた。


「ローズウェル殿」


「お忙しいところ、失礼いたします。要旨を一通、お持ちいたしました」


「お預かりします」


私は要旨を机の上に置いた。エドワード様は、それを左手で取り上げ、立ったまま、ゆっくりと読み始められた。読むあいだ、その方の睫毛は伏せられていた。睫毛は、思ったよりも長くはなく、けれど、紙面に対してきれいに角度がついていた。読むことに、その方の体全部が向いている、という角度だった。


読み終えるまでに、私が一呼吸する分の時間がかかった。


「拝見しました」


「いかがでございましょうか」


「これは、東方諸国の覚書のうち、二月前のものですね」


「はい」


「あなたが、五年お書きになってきた書きぶりと、同じ呼吸で書かれている」


私はその言葉に、すぐには応えられなかった。


応えられないまま、机のほうへ目を落とした。机の隅に、薄い革の手帖が一冊、伏せて置かれていた。革の表紙の角が少しだけ擦れている。長く使われている手帖らしかった。私はそれを直視しないようにして、視線を別の場所へ動かした。


「ローズウェル殿」


エドワード様は、要旨を机の上に静かに戻された。


「お聞きしてもよろしいですか」


「はい」


「あなたが、アシュフィールド家のお仕事をなさるようになったのは、いつからですか」


「五年前の春からでございます」


「ご婚約の直後から、ということですね」


「はい」


「そうですか」


エドワード様は、それだけおっしゃった。それから、ご自分の指でこめかみのあたりを軽く押さえ、しばらくお考えになっておられた。


「あなたが場を作っていらしたことを、私は知っていました」


その言葉を、私は受け止めた。


「アシュフィールド家から当府へ届く書簡が、五年前の春から、書きぶりが変わりました。当時、私はまだ若手の文官で、書簡を直接捌く役回りでした。その時から、書き手は同一人物の継続だと、業務上、推察しておりました。書き手のご身分まで、当時の私には分かりませんでした」


「ご身分」


「お名前を、当時、私は存じ上げませんでした。書きぶりだけは、五年、ずっと存じ上げておりました」


私は何も応えなかった。


応えるべき言葉が、その時の私には見つからなかった。


エドワード様は、もう一度、要旨を取り上げて、ご自分の机の上の、書類のいちばん手前に置かれた。机の上には、ほかにも書類の山があった。けれど、私の要旨は、その山のいちばん上に、別格のように置かれた。


「これは確認のため、私のほうで保管させていただきます」


「ご面倒をおかけします」


「いえ」


エドワード様は、はじめてわずかに微笑まれた。その微笑みは、社交の場の微笑みとは違って、少し下手だった。下手なところが、なぜか、私には信じやすかった。


「ローズウェル殿、本日のお務めは、もう半分ほど進んでおります。気がついた点、お困りの点があれば、いつでもこちらの扉から、おっしゃってください」


「畏まりました」


「お疲れさまでございました」


私は一礼して、執務室を退室した。


小部屋に戻り、自分の椅子に座った。座ってから、しばらく、自分の机の上を見ていた。書きかけの紙。インク壺。羽根ペン。腕章の縁の刺繍が、袖の上で、まだ新しい糸の匂いをわずかに放っていた。


「あなたが場を作っていらしたことを、私は知っていました」


その言葉だけ、何度か、頭の中で繰り返した。


繰り返しても、声の角度は、ほとんど変わらなかった。繰り返すたびに、私はその言葉を、最初に聞いた時と同じ重さで、受け取ることになった。


その日の終業時刻まで、私は要旨をもう三通、書き上げた。書きながら、何度か、隣の執務室の扉のほうを見た。扉は閉じたままだった。けれど扉の向こうから、書類をめくる音が、規則的に聞こえてきた。それを聞きながら、私は自分の指を、ペンの軸に巻きつけ直した。


帰宅したのは、夕暮れの少し前だった。


家令が玄関で私を迎え、腕章を仕舞うための小箱を、書斎まで運んでくれた。


書斎に入って、私は腕章を箱に納めた。納める前に、もう一度、左の二の腕の高さで、その腕章の縁を指で撫でた。刺繍の糸の匂いが、朝より少しだけ薄くなっていた。一日のあいだに、私の袖の上で馴染んだのだ。


机の上には、その日の朝のうちに置いておいた書簡が一通あった。


ローズウェル家からアシュフィールド家への、私的な書簡だった。差出人は私。宛先はレオノーラ様。婚約解消後の、初めての私的なお便り。


便箋には短くこう書いた。


「レオノーラ様。


このたび、宰相府公式書記官に任じられました。本日より、東方諸国の書記の任にあたります。お知らせ申し上げますとともに、これまでの長きにわたるご厚情に、改めまして御礼を申し上げます。


シルヴィア」


封をする前に、もう一度、便箋を読み返した。


それから、封蝋を温め、押した。


便箋を持って書斎を出る時、廊下の途中で、ふと思い出して足を止めた。アシュフィールド家では、その日の夕方に、家令の老女が、新年の贈答の準備に取りかかっているはずだった。新年の贈答の差配は、本来であれば嫡子の役目。けれど、嫡子は近衛副官のお務めで、夕方は王宮にいることが多い。差配の名前と実際の作業のあいだに、五年ぶんの隔たりがあった。


その隔たりが、いつか、ほどけて見える日が来る。


たぶん、そう遠くないうちに。


私は便箋を家令に渡し、明日の朝にアシュフィールド家へ届けてもらうよう頼んだ。家令は静かに頷き、書簡を受け取って退いた。


書斎に戻り、私は机の上の腕章の箱を、もう一度だけ、指で軽く押さえた。

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