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侯爵家を支えていたのは誰か、社交界はとうに気づいていた  作者: 秋月 もみじ


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第4話 婚約解消、受理されました


両家の代理人が並んだ席で、私は最後に一度だけ深く礼をした。


書簡を書き上げてから、十日が経っていた。


その十日の間に、書簡はレオノーラ様の手に届き、レオノーラ様から両家の代理人へ正式に取り次がれ、ローズウェル家の側でも代理人が立ち、両家のあいだで日時の調整が行われた。最後の手続きの場として選ばれたのが、アシュフィールド侯爵邸の正式応接間だった。


応接間に通された時、私は思ったよりも落ち着いていた。


応接間の卓は、いつもの私的な応接間より一段大きいもので、両家の代理人がそれぞれ三人ずつ、計六人。レオノーラ様。父、ローズウェル伯爵。そして、私。ダニエル様の姿はそこにはなかった。本人が同席するかどうかは、両家の合意により、最終手続きの段では同席させない、ということになっていた。私はそれをありがたく受け取った。


「それでは、両家ご合意のもと、婚約解消のお手続きを進めさせていただきます」


ローズウェル家の代理人が、まず口を開いた。書類の束を整え、最上段の解消文書を、卓の中央に置いた。


文書はあらかじめ両家で文言の確認が済んでいた。ローズウェル家としては、解消そのものに異議はない、ということが第一条。婚約成立時の契約書の条項に基づき、責のある側が違約金を支払う、ということが第二条。それから、両家の今後の交流については、社交上の最低限の礼節を保つこと、ということが第三条。文言は、わずか三条で済んでいた。


ローズウェル家は、代々、王家祐筆を輩出してきた家風がある。婚姻、婚約、領地の取引、いかなる契約においても、条項を細部まで詰めるという習慣が、家の中に染みついていた。五年前に私の婚約契約を結んだ時、父はその家風に従って、責のある側に違約金、という条項を、迷わず入れていた。当時の私は、その条項のことを、よく分かっていなかった。今になって、父が黙ってその一文を入れてくれていたことを、私は知った。


「アシュフィールド家としても、解消そのものについてはご同意申し上げます」


侯爵家側の代理人が応えた。


「第二条の違約金条項につきましては、契約書の通り、当家がお支払い申し上げます」


「責の所在につきましては、いかがでございましょう」


ローズウェル家の代理人が、次に問うた。


問いの調子は、淡々としていた。けれど、その問いの先で何が答えられるかが、今日の手続きで一番大きな意味を持つ部分だった。婚約解消そのものは、両家の合意があれば成立する。けれど、責が両家のどちらにあるかは、別途、書面に明記されることがある。明記されると、その書面は王宮の登録に残る。社交界の婦人方の目にも、いずれ、間接的に届く。


「責は」


レオノーラ様が、ご自分でお答えになった。


代理人ではなく、当家の家督代行として、ご自身の口でおっしゃった。


「当家にあります」


応接間が、一瞬、静かになった。


ローズウェル家の代理人が、ペン先を一瞬止めた。それから、いつもより丁寧に、その一文を文書に書き写し始めた。「責は当家にあり」と、レオノーラ様のお言葉そのままを、楷書で。書く時に、紙の表面にインクがほんの少しだけ余分に染みた。書き手の指の力が、いつもより慎重になっていた印だった。


「お書きいただきました通り、当家、アシュフィールド侯爵家の責でございます」


レオノーラ様は、繰り返された。


「五年にわたり、ローズウェル家のご令嬢に過分のご負担をおかけしてまいりました。これは、当家の家政運営の不備でございます。改めて、ご令嬢に、また、ローズウェル伯爵閣下に、お詫び申し上げます」


レオノーラ様は深く頭を下げられた。


侯爵夫人が伯爵家へ向かって頭を下げる、というのは、本来であれば家格の上で起こりにくい所作だった。けれど、レオノーラ様は、それを当然の手順のように静かに行われた。父も、それを当然の手順のように静かに受けた。


「お受けいたします」


父はそれだけ言った。


私は、自分の膝の上の手を、軽く重ね直した。


応接間の柱時計が、半分ほどの大きさで時を刻んでいた。窓の外、王宮の塀の向こうで、誰かが大きな台車を曳いている音が、遠く聞こえた。儀式の中の音とは別の音が、ちゃんと外側で続いていた。


代理人たちは、卓上の文書の文言の最終確認に入った。「責は当家にあり」の一文は、今日の手続きにおいては、ただの一行だった。けれどその一行は、書面が王宮の登録に上がった瞬間に、両家の社交上の格を、わずかにずらすことになる。ずらされたぶんは、すぐには動かない。けれど、招待状の宛名、席次表の位置、贈答の差出順、そういう小さな書類の上に、半年か一年のうちに、必ず、現れてくる。


私はその仕組みを、五年間、誰よりも近くで見てきた。


書類の一行が、社交界の中でどんな速度で広がっていくかを、私は知っている。


文書の文言が確定し、代理人たちが署名を始めた。両家の代理人三人ずつ、合計六人。それから、レオノーラ様。父。最後に、私。


私は卓に身を寄せ、ペンを取った。


ペン先は新しいものに替えられていた。インクの匂いがわずかに鼻についた。私は自分の名前を、五年間、書類の差出人ではなく、書類の受取人として書いてきた。婚約者として、侯爵家から来る書類に署名する役回りだった。今日の書類は、その流れの中で、最後の一通になる。


「ローズウェル伯爵令嬢 シルヴィア」


私はゆっくりと書いた。


書き終えて、ペンを置いた。


代理人がその文書を受け取り、王宮提出用の控えと、両家保管用の控えに、それぞれ写しを取り始めた。写しを取るあいだ、応接間の空気は、緩むでもなく、張るでもなく、ただ静かだった。


「シルヴィアさん」


写しの作業の途中で、レオノーラ様が、私の側へ少しだけ身を寄せておっしゃった。


「ひとつ、お預けしたい品がございます」


「何でしょうか」


「ご婚約の指輪を、お返しいただけますでしょうか」


私はその時にはじめて、自分の左手に視線を落とした。左手の薬指には、五年間、ずっと、同じ指輪が嵌まっていた。アシュフィールド侯爵家の家宝として代々、長子の婚約者へ貸与される指輪。所有権は侯爵家にあり、婚約解消の際には返却することが、契約書にも明記されている。


私は左手の手袋を、まず外した。手袋の指先に、指輪のかすかな型がついていた。五年ぶんの、馴染みの型。


指輪を、ゆっくり外した。


外す時、皮膚が一瞬だけ吸い付くような感覚があった。馴染みすぎた指輪を外す時の、独特の感覚。私はそれを、手のひらの上に乗せ、しばらく見つめた。冷たくはなかった。私の体温が、まだ残っていた。


「お受けいたします」


レオノーラ様が、片手で受け取られた。


レオノーラ様は、その指輪を、まず一度だけ、ご自分の手の中でそっと包まれた。それから、ご自身がお持ちになっていた小さなベルベットの箱に、静かに収められた。箱を閉じる時、わずかに、レオノーラ様の睫毛が伏せられた。


「五年間、お預かりいただき、ありがとうございました」


そう、レオノーラ様はおっしゃった。


私は何も応えなかった。


応えるべき言葉が、その時の私には見つからなかった。


写しの作業が終わり、代理人たちが両家にそれぞれの控えを渡した。父が控えを受け取り、ローズウェル家の側の鞄に丁寧に収めた。応接間の卓の上は、もう何も残っていなかった。書類も、指輪も、それぞれの保管者の元へ渡っていた。


「本日は、ありがとうございました」


ローズウェル家の代理人が、両家を代表して締めの挨拶をした。


私は最後に一度だけ、深く礼をした。


侯爵邸の玄関で、レオノーラ様は私と父をお見送りくださった。お見送りの場では、もう、私的なお言葉はなかった。レオノーラ様は侯爵夫人として、ローズウェル伯爵と伯爵令嬢へ、礼節通りのお見送りをなさった。それが、私にとって、必要な距離だった。


馬車に乗り込む時、玄関のすぐ脇の柱の影から、家令の老女が、深く頭を下げているのが見えた。アシュフィールド家に長く勤めておられる方だった。年配で、家政の細部に厳しい方。私の知る限り、その方が私的に頭を下げる相手は、レオノーラ様と、亡き先代侯爵夫人だけだったはずだ。


その方が、今日、私に頭を下げておられた。


私はそれを見ても、見なかった顔をして、馬車に乗り込んだ。家令の方の頭を下げる長さが、お見送りの作法より一拍長かったことだけ、馬車の窓のほうへ目をやりながら、覚えておいた。


馬車が動き出した。


父は、私の隣に座っておられた。馬車の中では、父は黙っておられた。父は、もとから言葉数の多い方ではない。けれど、今日の沈黙は、いつもの寡黙とは、少しだけ質が違っていた。父は私のほうを見ずに、車窓の外を見つめておられた。窓の外を、王宮の塀の影が流れていく。


「シルヴィア」


馬車が王宮の門を出る頃、父はようやく口を開かれた。


「お前は、よくやった」


「お父様」


「これからは、急ぐ必要はない。何もしなくてよい。書斎で本でも読んでいなさい。当家に養われていたぶんを取り戻すと思って」


父は、相変わらず窓の外を見ておられた。けれど、その横顔の輪郭が、私の知る父の横顔より、少しだけ柔らかかった。


「はい」


私は答えた。


家に着いたのは、夕方の前のことだった。


私はまっすぐ書斎へ入り、机の左手二番目の引き出しから、五年分の控えの帳面を取り出して、机の上に並べ直した。年ごとに五つの束。最初の束だけ、紙の縁が他より少し黒ずんでいる。何度も指で繰り返し触れたぶんの脂が、紙に染みこんでいた。


ミラが、新しい茶を運んでくれた。


「ミラ」


「はい」


「お父様に、申し上げてくれる。少し、書斎で本を読みます、と」


「畏まりました」


ミラは静かに退室した。


私は、机の上の帳面の山を、本を読むためではなく、しばらく、ただ眺めていた。


その夕方、玄関にもう一通の書状が届いたのを知らされたのは、書斎で日が落ちかけた頃のことだった。家令が、扉の外から、低く声をかけてきた。


「お嬢様、書状が届きました」


「どちらから」


「宰相府でございます」


私は、その答えを、ゆっくり受け取った。


「お持ちください」


家令が入ってきて、銀の盆に乗せた書状を私の机の隅に置いた。家令が退いたあと、私は書状を手に取った。封蝋には宰相府の紋章。差出人欄には、「宰相府第二席補佐 エドワード・ヴェルナー」とあった。


エドワード・ヴェルナー。


その名前を、私はその夜はじめて、書面の上で読んだ。


封を切ると、便箋は一枚だった。文面は短かった。


「ローズウェル伯爵令嬢、シルヴィア様。


突然のご無礼を、お赦しください。


このたび、当府におきまして、外交方面の書記の任にあたる文官の登用を進めております。つきましては、貴ご令嬢に、当府公式書記官の任のご検討を、お願い申し上げたく、本書をお送り申し上げます。


ご検討にあたって、貴家のご都合のよろしき日に、当府にてご面談の機会をいただけましたら幸いに存じます。


宰相府第二席補佐 エドワード・ヴェルナー」


便箋を読み終えて、私はもう一度、宛名の欄に目を戻した。


「ローズウェル伯爵令嬢、シルヴィア様」


私の名前が、私自身の名前として、書状の宛名の最初の行に書かれていた。「ご婚約者様」ではなく、「ローズウェル家のシルヴィアさん」でもなく、ローズウェル伯爵令嬢シルヴィア。社交界のどの席次にも、どの招待状にも、どの贈答記録にも書かれていなかった、私自身の名前だった。


封蝋の宰相府の紋章を、私は指でなぞった。


これは、私自身の名前で受け取った、生まれて初めての書状だった。


その日、別の場所で起きていたことを、私が知るのは、もう少し後のことになる。


同じ夕方、アシュフィールド侯爵邸の応接間に、ダニエル様が呼ばれていた。婚約解消の正式手続きが、その日の午前のうちに終わっていたことを、ダニエル様は事務的にはすでにご存じだった。けれど、その実際の意味が、何を含んでいるのかは、まだ十分に、ご理解になっていなかったらしい。


応接間に入ってきたダニエル様に、レオノーラ様は、まず椅子に座るようにおっしゃった。


ダニエル様は座られた。


レオノーラ様は、卓上に解消文書の控えを置き、第三条の文言までを、ご自身の指でゆっくり示された。


「責は当家にあり、と記されています」


「母上、それは」


「異論はございません。当家の責でございます」


ダニエル様は、しばらく文書のほうを見ておられた。それから、ゆっくり顔を上げて、いつもの口調でおっしゃった。


「シルヴィアは、本気だったのか。君なら分かってくれると思っていたんだが」


レオノーラ様は、それまでお茶の表面を見ておられた目を、お上げになった。


ダニエル様のほうを、まっすぐにご覧になった。


その視線の重さがどれほどのものだったかを、私が直接見たわけではない。けれど、後にレオノーラ様から届いた数通の私信のうち、ある一通に、こう書かれていた。


「あの夕方、息子は、わたくしの視線を受けて、はじめて、わたくしに『母上』と申しただけで、続きの言葉を失いました。五年あなたに何をしていただいてきたか、息子は、わたくしから改めてお話ししなければ、最後まで分からない人でございました。それを、母として、深くお詫び申し上げます」


私がそれを読むのは、もう少し先のことだった。


その夜の私は、書斎の机の隅に置かれた一通の書状を、もう一度だけ、両手で持ち直していた。


封蝋を指でなぞった感触が、まだ指先に残っていた。

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