第3話 五年分の帳面
侯爵夫人と二人で向かい合うのは、私が婚約してから二度目だった。
一度目は五年前、婚約の挨拶のために初めて侯爵邸を訪ねた日のことだった。あの日、レオノーラ様は私の手を取って、これからは家族のように、とおっしゃった。私はその時、十七だった。手の温度のことだけ、今でもよく覚えている。
二度目が、この日だった。
観劇会の三日後の昼下がり、私はアシュフィールド侯爵邸の応接間に通されていた。レオノーラ様の私信に「少し話したいことがあります」とだけ書かれていたので、私はそれに従い、ローズウェル家の馬車を侯爵邸の正面に着けてもらった。
応接間の卓上には、茶器が二客、用意されていた。給仕の女性がそれを置いて退き、扉が閉まったあと、室内は私とレオノーラ様の二人だけになった。
「お越しいただき、ありがとうございます」
レオノーラ様はそうおっしゃって、自分の前の茶器を見つめておられた。茶はまだ淹れたてで、湯気が静かに上がっている。けれど、レオノーラ様はすぐにはお飲みにならなかった。私もお茶へは手を伸ばさなかった。
「シルヴィアさん」
レオノーラ様が、改めてお呼びになった。
「あなたに、お詫び申し上げたいことがあります」
私は背筋を伸ばし、両手を膝の上で重ねた。何を言われるのか、半ばは予想がついていた。けれど、レオノーラ様の口から実際に出てきた言葉は、私の予想より、ずっと正面からのものだった。
「夫が三年前から、長く臥せっております」
レオノーラ様の声は、いつもの侯爵夫人の声ではなかった。
「公の場ではこの件をあまり申し上げてまいりませんでしたが、当主としての務めの大半は、もう、息子に任せざるをえなくなっておりました」
レオノーラ様はそこで一度、茶器の取っ手に指を添えられた。取っ手の冷たさを確かめるような触れ方だった。
「わたくしも、看病に多くの時間を割いてまいりました。家政の細部、特に新年の贈答の差配は、嫡子の社交訓練として息子に任せる、というのが当家の家風でございます。それで、わたくしは、最終の確認しか見ておりませんでした」
私はその意味を、一拍遅れて理解した。
「あなたが頁の中身を一人で埋めてくださっていたとは、考えが及びませんでした」
レオノーラ様は、ご自分の前の茶器に視線を落としたまま、おっしゃった。
「最終確認の頁にいつもきちんとした字が並んでおりましたので、わたくしは、息子が然るべき差配をしているのだと思っておりました。差配のもとに、家令が、書記が、ご婚約者であるあなたが、それぞれ役割を分けて支えてくださっているのだと、勝手に思い込んでおりました」
「レオノーラ様」
「最後まで、お聞きいただけますか」
私は頷いた。
「贈答記録の頁を、わたくしはこの三年、表紙と最終欄しか見ておりませんでした」
レオノーラ様は、そこで言葉を選ぶように、しばらく口を結ばれた。
「表紙には差配者として息子の名前が記され、最終欄にも息子の確認の印が押されておりました。けれど、頁を一枚めくれば、中身の字はすべて、あなたのものでした。それを、わたくしは、見ておりませんでした」
レオノーラ様は、そこではじめて顔を上げて、私の目をご覧になった。
「これは、申し上げにくいことでございますが、夫の看病を口実にするつもりは、ございません。気づかなかったのは、わたくしの落ち度です」
私は何か言うべきだった。けれど、すぐには言葉にならなかった。私の喉のところに溜まっていたのは、抗議でも怒りでもなくて、もっと別の、静かなものだった。長く張りつめていたものが、ようやく緩んだ時の音、と言えるかもしれなかった。
「レオノーラ様」
私はやっと言った。
「怒っているのではありません」
そう言って、自分のお茶の表面を見た。湯気が、ほんの少しだけ薄くなっていた。
「疲れたのです」
レオノーラ様は、すぐにはお応えにならなかった。
ご自分の茶器の取っ手に、もう一度、指を添えられた。茶器を持ち上げるわけでもなく、置き直すわけでもなく、ただ取っ手の温度を確かめるような触れ方だった。
「五年、長くお務めいただきました」
ようやく、レオノーラ様はおっしゃった。
「あなたが我が家でなさってきたことを、わたくしは、これからきちんと知らねばなりません。知った上で、あなたに何を申し上げるかを、決めねばなりません。けれど、今日の段階で、お伝えできることが一つだけございます」
私はお応えを待った。
「あなたの判断を、わたくしは尊重します。どのようなご判断であっても」
その言葉を、私はゆっくりと受け止めた。
部屋の壁の時計が、低く一度鳴った。給仕の少女が静かに扉を開け、新しい茶器を運んできた。私の前のお茶は、もう冷めていた。少女は二客の茶器を手早く下げ、新しい二客を置いた。扉を閉める時、扉の音をいつもより細くしようとしている気配があった。気を遣われている。それを察するのに、紅茶を一口飲む時間ほどがかかった。
「お持ち帰りいただきたいものがございます」
新しい茶が湯気を上げ始めた頃、レオノーラ様がおっしゃった。
「贈答記録の本帳は、当家の備品ですので、当家に残ります。けれど、あなたがご自身でお書きになった控えの帳面が、おありでしょう」
私は驚かなかった。レオノーラ様がそれをご存じだということに、というよりも、私が控えを持っていることが、今この時に話題に上ることに、驚かなかった。
「ございます」
「お持ち帰りなさい。あれは、あなたのお書きになったものです。あなたのお手元にあるべきものです」
「侯爵家の業務に関わる記録ですが、よろしいのでしょうか」
「業務に関わる事実は、本帳の側に残ります。控えは、あなたの五年の労働の記録です。当家がお預かりするべき性質のものではありません」
私はもう一度頷いた。
控えの帳面は、もとから私の私物だった。婚約直後、まだ私が侯爵家の差配に慣れていなかった頃、母から「自分のためにも控えをお取りなさい」と助言されて、月ごとに自分の手で書き写してきたものだった。婚約者の務めだったので、業務記録という意識はなかった。ただ、自分の覚えとして、書いてきた。それを五年続けると、五十ヶ月を超える月数になり、私の書斎の机の引き出しを一つ占有する分量になっていた。
「あの控えは」
私はそこで、少しだけ言葉に詰まった。
「あの控えは、私が書いておりますあいだ、ずっと、家令の方からも、家政の方からも、咎められたことが、ございませんでした」
「そうでしょうね」
レオノーラ様はうっすらと微笑まれた。
「あなたが書いていらしたことは、皆、知っておりました。知って、当然のように受け取っておりました。それを当然と扱ったことが、まさに、当家の甘えでございました」
私は何も返さなかった。
返さないことが、たぶん、その日の私のせめてもの抗議だった。
新しい茶を、私は半分ほどいただいた。湯加減はちょうどよかった。レオノーラ様もご自分の茶器をようやくお持ちになり、一口だけ召し上がった。それから茶器を戻して、もう一度、私を真っすぐにご覧になった。
「息子のことを、わたくしから申し上げる立場ではないかもしれません。けれど、これだけは申し上げさせてください。息子は、あなたを軽んじているつもりはございません。けれども、軽んじていないつもりであることと、軽んじていないことは、別のものでございます」
私は頷いた。
「あなたが、当家に対してどのような判断をなさるおつもりであっても、わたくしはあなたの側に立ちます。あなたが当家を出るとおっしゃるなら、出ていけるように、わたくしは段取りをいたします。逆に、当家にとどまるとおっしゃるなら、息子の振る舞いを、わたくしの責任で改めさせます。あなたの判断を、わたくしは尊重いたします」
「ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。
下げながら、自分が「ありがとうございます」と言える日が、五年ぶりに、侯爵家の中で訪れたことを、心の隅で受け止めた。
侯爵邸を辞したのは、もう夕方に近い時刻だった。
馬車の中で、私は控えの帳面のことを考えていた。あれを、これから自分の家の書斎に並べたら、私はどんな顔をするのだろう、と思った。誇らしい顔ができるのか、それとも、もうこれ以上見たくないと思うのか。たぶん、両方だろう。
ローズウェル邸に戻ると、私はすぐに書斎へ入った。
侍女のミラがついてきて、明かりを足してくれた。
「ミラ」
「はい」
「机の左手の、二番目の引き出しを開けてくれる」
ミラは黙ってその引き出しを開けた。中に並んでいる帳面の束を見て、私のほうではなく、帳面のほうに、わずかに目を伏せた。
「これを、机の上に出して。月ごとに、年順に並べて」
ミラはそれを、急がず、けれど無駄なく並べていった。机の上は、すぐにいっぱいになった。月ごとに二冊か三冊。年ごとに見ると、十二ヶ月の束が五つあった。
私はそれを一冊だけ手に取り、頁を開いた。
五年前の最初の頁だった。
最初の頁の字は、今の私の字より、少しだけ大きかった。十七歳だった。線の止め方が、まだ少し力んでいる。けれど、形は、もうほとんど今と同じだった。母に教わった通りの止め方。
私は頁を閉じた。
ミラに目で合図して、新しい紙を一枚、用意してもらった。インクと、私が婚約の時に持参して以来、いつも使っている羽根ペンも。
紙の表面を、指で軽くなでた。書き出しの位置を、目で確認した。それから、ペンを取り上げ、最初の一行を書いた。
「アシュフィールド侯爵夫人 レオノーラ様」
文字を書いた瞬間、自分が今、何を書こうとしているのかを、自分自身がはっきりと理解した。
宛名のあとに、私はもう一行、書いた。
「ご婚約解消のお願いの儀につきまして」
ミラが、机の脇で、息を一度、静かに吸った。
私は手を止めなかった。
そのまま、文面を続けた。
その夜のうちに、別の場所で起きていたことを、私が知るのは、もう少しあとのことだった。同じ時刻、王宮宰相府の執務室では、第二席補佐の文官が、机に積まれた書簡のうちから、一通を取り出していた。アシュフィールド侯爵家から宰相府へ届けられた、外交方面の覚書の写しだった。
その文官は同僚に書簡を手渡しながら、低く言った。
「アシュフィールド家の書簡だけ、書き手が違うな」
「と、おっしゃいますと」
「五年前から、書きぶりが変わったままだ。あれは嫡子の仕事ではない。誰が書いているのか、心当たりはあるか」
同僚は、首をかしげた。
「侯爵家のことですから、ご家令のどなたかでしょうか」
「いや」
文官は短く言って、書簡をもう一度、自分の手元へ戻した。
「家令の筆ではない。あの整い方は、家令ではない」
書簡の差出人欄には、当然、侯爵嫡子の名前があった。けれど、書簡の中身を支えているのが嫡子の手ではないことを、その文官は、もう五年前から知っていた。




