第2話 観劇の桟敷席
桟敷席の中央には、私の知らない令嬢が座っていた。いや、知っている人だ。ただ、そこに座るはずではなかった人だ。
王立劇場の春の観劇会。第二王女殿下の陪席があると、案内状に記された催しだった。一週間前、慈善茶会の翌週のことだった。
私はダニエル様と劇場の前で落ち合うことになっていた。彼の馬車が一足先に着いていて、私が降りた時には、彼はすでに正面の階段の途中に立っていた。
「シルヴィア、来てくれたんだね」
そう言って、彼は私の腕を取ろうとして、ためらった。手の動きが空中で止まり、それから引っ込んだ。私のほうから先に彼の腕に手を添えるのを、待っているらしかった。私はそれをした。婚約してから五年、いつもしていることだった。
「ノエルはもう中に入っているんだ」
階段を上りながら、ダニエル様はそう言った。
「初めての観劇だから、緊張しないように、前もって席に入れてもらった。先に座っているほうが落ち着くだろうと思って」
私は分かりますと答えた。声はうまく出た。先週よりは少し早く返事ができた。練習のせいかもしれない。
劇場の正面玄関を抜けると、緋色の絨毯が中央階段を覆っていた。私たちは案内係に案内されて、桟敷席への階段を上がった。婚約者用の中央桟敷は、舞台に向かって左の二階。私はこれまでに何十回もその席に座ってきた。座席の革の沈み具合まで、椅子の左右で違うことを知っている。
中央桟敷の入口で、案内係が書類を二度見直した。
その仕草を、私は先週も見たような気がした。
「ローズウェル伯爵令嬢」
案内係はそう言いかけて、書類のもう一枚をめくった。
「恐れ入りますが、中央桟敷のお席は、本日はハーグレイヴ男爵令嬢様がお座りでございます。ローズウェル伯爵令嬢のお席は、下の貴族席のほうへご用意いたしました」
ダニエル様が、その横で、わずかに身を硬くした。
私はその硬さに気づいたが、見なかったふりをした。
「分かりました」
「ご案内いたします」
案内係は深く頭を下げて、私を別の階段へ導こうとした。
「シルヴィア」
ダニエル様が呼んだ。
「すまない。ノエルが、どうしても、と」
「結構ですよ」
私はそう言って、彼の腕からそっと指を離した。離す動作だけは、たぶん、私のほうが慣れていた。
「楽しまれてくださいね」
案内係について、私は階段を下りた。三段下りた。それから一階の貴族席へ通された。一階の貴族席といっても、最前ではない。中段の中央寄り、舞台はよく見えるが、桟敷の婚約者席からは三段下ということになる。私は腰を下ろし、肩掛けを軽く整えた。
両隣はそれぞれ、夫人の方々だった。
すぐ右の席に座っておられたのは、エイヴリー子爵夫人。年配の方で、薄い金髪を低く結っておられる。私と目が合うと、夫人は小さく頷いた。それから、扇を膝の上に置き、両手をその上で軽く重ねた。何も言わなかった。何も言わない、ということが、何かを言っていた。
幕が上がる前のわずかな時間、私は中央桟敷を見上げないようにしていた。見上げないようにしている、ということを、私の指は知っていた。指は膝の上で、扇の縁を一度だけなぞった。
それでも、隣の夫人の扇が、私の頬の高さでわずかに動いた瞬間に、私は反射的にそちらへ目を向けた。
夫人は扇を口元に上げて、低く言った。
「ローズウェル伯爵令嬢」
「はい」
「下に通されるのは、これで何度目になりますの」
その問いを、私は先週も聞いていた。違う方の口から、同じ言葉だった。社交界の婦人たちは、それぞれ別の場所で、別の扇の影で、私のために数えていたらしい。
私は答えなかった。答えないことが、たぶん、礼儀だった。
エイヴリー夫人は扇を閉じ、それきり何も言わなかった。ただ、幕が上がるまでの間、ご自分の手袋を一度だけ、ゆっくりと外された。手袋を外す仕草が、その方の気の進まなさを表していることを、私は子供の頃から知っている。母も、不愉快な茶会の最中に、よくそうしていた。
幕が上がった。
舞台が始まると、私は劇に集中した。集中しようとした。劇は、商家の娘と没落貴族の青年の恋を描いたもので、五十年ほど前に書かれた古典。台詞の言い回しが古いぶん、感情が誇張なく整理されていて、女優の声がよく通った。
中央の桟敷から、笑い声が漏れた。
ノエル様の声だった。
劇の冒頭は、笑う場面ではなかった。ヒロインの父親が娘の縁談を断られたばかりの場面で、笑うところは一行もない。けれどノエル様は、隣のダニエル様の何かに、楽しそうに笑っていた。たぶん、ダニエル様が何か面白いことを耳打ちなさったのだろう。観劇に慣れない方を退屈させないように、彼は気を回したに違いない。
私は舞台へ目を戻した。
エイヴリー夫人の扇が、もう一度、わずかに動いた。
幕間になった。
休憩室への通路は、貴婦人たちが入り混じり、扇の音と低い会話で混んでいた。私は飲み物を取りに、奥のテーブルへ向かおうとした。
向かう途中で、ふと、向かいの桟敷の入口のあたりに、若い男性が立っているのが目に入った。
文官の袖の色だった。
先週の中庭で、柱の影に立っていた、あの方だ。
その方は、向かいの桟敷から幕間の通路へ出てこられたところらしかった。書類の鞄を持っていないので、お顔がはじめてはっきり見えた。年は二十代の後半。整った顔立ちというよりは、落ち着いた顔立ちで、目元のあたりに静けさがあった。寡黙そうな人だ、と思った。
向かいの桟敷というのは、私の知る限り、外交関係の陪席にあてられている席だった。第二王女殿下が外交を主管なさる慣例があり、王女主催の催しには、宰相府から外交陪席の文官が一人派遣される。私は侯爵家の社交段取りを五年見てきたので、その慣例の存在だけは知っている。
その方が、こちらに気づいた。
私と目が合った。
ほんの一瞬だった。
その方は、わずかに頭を下げられた。深い礼ではなく、観劇会の幕間に偶然視線が合った相手にする、ごく短い会釈だった。失礼にならず、馴れ馴れしくもない、ちょうどよい距離の角度だった。
私もそれに応じて、扇を持つ手をわずかに下げた。
それだけだった。
その方は通路の向こうへ歩いていかれた。私は飲み物のテーブルへ向かい、白い果実水を一杯もらった。果実水のグラスは、なぜか少しだけ冷えすぎていた。指先がかすかにこわばる。
幕間が終わり、私は席に戻った。
エイヴリー夫人は、私が戻ってきたのを見ると、扇の影で短く囁いた。
「あなた、向こうの桟敷のあの方を、ご存じ」
「いえ」
「ふうん」
夫人はそれだけ言って、また舞台のほうへ顔を戻した。聞き出すつもりはないらしい。ただ、含みのある声音だったので、私は耳の奥にその声を残した。
第二幕の途中で、私は奇妙な気配を感じて、再び向かいの桟敷へ目をやった。
陪席文官の方は、もう席に戻っておられた。舞台ではなく、私のいる貴族席の方角を、わずかに見ておられた。それも一瞬だった。私が見たのに気づくと、その方の視線はすぐ舞台に戻った。
舞台ではヒロインが、決断の場面に差しかかっていた。
「私はあなたについて参ります」
そう言うべき台詞を、女優は言わなかった。言う代わりに、ヒロインは手紙を畳んで卓に戻し、立ち上がって部屋を出ていく。退場の場面だった。私はその退場の足音を聞いた。革靴がゆっくり板を踏む音。
私は舞台から目を離せなくなった。
なぜ離せないのか、自分でもよく分からなかった。
劇は終わった。
幕が下り、観客が拍手を送り、ご令嬢たちが立ち上がり、貴婦人たちが扇を畳んだ。私もそれに合わせて、肩掛けを整えた。
ダニエル様は中央桟敷の階段を下りてくるのが少し遅れた。ノエル様を先に下ろされたらしい。下りてこられた時には、案内係がもう私の馬車を呼んでくれていた。
「シルヴィア」
ダニエル様が言った。
「すまない、本当に」
「いいえ」
「君なら分かってくれると思っていた」
私は、その言葉に答えなかった。
答える代わりに、扇を畳んだ手の指で、ほんの少しだけ、骨の歪みを確かめた。先週から、骨は一本曲がったままだった。
「お足元、お気をつけて」
ミラが私の肩掛けを直しながら言った。私は彼女について、馬車のほうへ歩いた。歩きながら、上のほうから、私の後ろ姿を見ている視線をもう一度だけ感じた。けれど振り返らなかった。振り返って何になるか、私にはまだ分からなかった。
帰り着いたのは、夕暮れだった。
ローズウェル邸の玄関は、いつもどおり静かだった。父は書斎にこもっておられて、母は寝室で書き物の途中らしい。家令が、いつもの倍ほど丁寧に、私の外套を受け取った。家令の声の柔らかさが、いつもより柔らかい。気のせいではなさそうだった。
「お嬢様」
家令が言った。
「先ほど、お使いがまいりました」
「どちらから」
「アシュフィールド侯爵家からでございます」
私は外套をかけ終えた家令の手元へ視線を落とした。家令の手のひらに、一通の私信が載っていた。
封蝋を見て、私は息を呑んだ。
アシュフィールド侯爵家の紋章だった。けれど、その上に押されていたのは、当主の印ではなかった。
レオノーラ様の私印が押されていた。
私はそれを受け取り、玄関広間の冷たさのなかで、もう一度、紋章を指でなぞった。
「少し話したいことがあります」
封筒の裏に、レオノーラ様ご自身の筆跡で、短いお言葉が書かれていた。




