第1話 慈善茶会の席次表
席次表の私の名は、婚約者から三人ぶんも離れた場所に書かれていた。
王宮中庭の慈善茶会。春の光がよく差し込む午後で、白い卓布が薄く透けて見えるくらい、空気が乾いていた。案内係が手にした名簿の頁を、私はもう一度、目で追った。
ダニエル様。
ハーグレイヴ男爵令嬢ノエル様。
それから、男爵夫人がお二人。
四人目に、私。
案内係は私の視線を察したらしく、書類を二度見直した。それから、笑みを少しだけ作り直して言った。
「ローズウェル伯爵令嬢、こちらへどうぞ」
私は微笑んで頷いた。何も言わなかった。中庭の薔薇は今年も丁寧に剪定されていて、花弁の縁が朝露で透けている。それを見ながら、卓へ歩いた。
「お姉様」
弾むような声がした。
振り向くと、ノエル様がダニエル様の腕にそっと触れていた。淡い水色の絹のドレス。胸元に細い銀の鎖が一筋、光っている。先月の誕生日に、ダニエル様が贈った首飾りだった。私は宝飾店の請求書に押印した者として、その箱の中身を、ノエル様より先に知っていた。
「ごめんなさい、お姉様、私、緊張してしまって。あちらのお席にお座りいただいてもよろしいですか」
譲ってください、とは言わなかった。お願いの形だった。けれど、案内係はすでに名簿を書き換える手つきで止まっていた。決定は、もう私の答えを待っていない種類のものだった。
「ノエルは緊張しやすいんだ」
ダニエル様が言った。
「君なら分かってくれるだろう」
私は分かりますと答えた。そう答える時の自分の声に、今日ばかりは少しの遅れがあったかもしれない。けれど、四人目の席まで案内されて座るまで、その遅れは、たぶん誰の耳にも届かなかった。
席に着いてみると、茶はもう注がれていた。
冷めかけている。
婚約者の隣席にいれば、茶器は給仕長が直接運ぶ。四人目の席は、配膳の二巡目だった。注がれてから誰かが運んでくるまでに、湯気は確かに失われる。失われた湯気のぶんだけ、私の席は卓の中央から遠かった。
ノエル様の笑い声が、軽く中庭を渡っていった。
ダニエル様が笑い返している。
私は卓上の銀のスプーンの位置を、ほんの少しだけ整えた。スプーンを整えるのは、私の昔からの癖だ。母が、行儀ではない、と何度か注意したことがある。今日は注意してくれる母もいないので、私は心ゆくまで、スプーンの柄を卓の縁と平行に直した。
「ローズウェル伯爵令嬢」
向かいの席から、声がかかった。
セルウィン伯爵夫人だった。私より二十ほど年上の方で、慈善事業の主催の一人でもある。穏やかな目をしておられる。
「今日のお茶は、いかがですか」
「とても香りが豊かで、いただいております」
「そう」
夫人は微笑んだ。それから、扇を片手に静かに開いて、口元をやや隠した。私は耳だけ、わずかに前へ傾けた。
「あなたが下に通されるのは、これで何度目になりますの」
その言葉は、私のためだけに発音されていた。隣の貴婦人にも、向こうのテーブルにも、聞こえないようにできていた。それでいて、責めているわけでも、同情しているわけでもなかった。ただ、数えていたのだ。社交界の誰かが、私のために、ずっと数えていたのだ。
私は答えなかった。答える代わりに、扇を膝の上で軽く握り直した。骨が一本、わずかに曲がっている。いつ曲げたのか、思い出せない。
「茶会は楽しいものでなければなりません」
夫人はそれだけ言って、扇を閉じた。
私はもう一度、頷いた。
ダニエル様の隣のノエル様は、新しい焼き菓子の皿を勧められていた。ダニエル様が自分の銀のフォークで、ひとかけらを彼女の皿に取り分けてやっている。
それを見ても、私は何も言わなかった。
ただ、今朝、出かける前に、玄関でダニエル様が私の手袋を直してくれたことを思い出した。手袋の指先がほんの少しだけたわんでいて、彼はそれを当然のように整えてくれた。彼が手袋を直してくれるのは、私と二人きりの瞬間に限る、という規則を、私はずっと前から知っている。知らないふりをして、出がけに整えてもらうのが、五年間の私の小さな喜びだった。
上席のほうで、わずかに人の流れが動いた。
王家筋にあたる方が、上席の中央に着かれたところらしい。具体的にどなたかは、私の席からはお顔がよく見えない。扇の動きだけは、はっきり見えた。卓上の席次表の控えに視線が落ち、扇がいったん止まり、それからもう一度、ゆっくりと開かれた。
その開き方が、ほんの少しだけ、慣例より遅かった。
私の見間違いだったかもしれない。
けれど、案内係の頬の筋肉は、その遅れに合わせてもう一度だけこわばっていた。たぶん、私の見間違いではなかった。
茶会は予定どおり進んでいった。
ご令嬢たちの寄付目録の確認。慈善院の代表からのご挨拶。皆さまのお話に、私は四人目の席から、頷くべきところで頷いた。寄付目録の写しが回ってきた時には、字の濃淡から、その記録を書いた書記の手の癖まで読めた。書類の写しを見続けてきた五年が、こういう細部にだけ残るのだと、ぼんやり思った。
退席の合図が出る少し前のことだった。
私はふと、肩のあたりに、こちらを見る視線を感じた。
席を立つ振りをして、自然に首を巡らせた。けれど、視線の主は分からなかった。中庭の柱が二本、私の席の斜め後ろに立っていて、その柱の影に、男性が一人、書類の入った薄い革鞄を抱えて立っていた。若い、と思った。それ以外は影でよく見えない。
文官の方らしい袖の色だった。お顔も、お名前も、私の知らない方だった。
その方は私の視線に気づくと、わずかに俯いて、書類の角を確かめる仕草をされた。私が席を立った時、ちょうど雲が動いて、その柱のあたりに陽が差した。眩しさが私の頬を直撃するはずだった。けれど、しなかった。柱の影が、その瞬間、わずかに動いていた。
その方が一歩、横にずれたのだ。
私の頬に陽が当たらないように。
茶会は終わった。
ダニエル様はノエル様を先に馬車までお見送りになった。私は別の馬車で帰る。それは婚約してから三度目のことで、もう新しい屈辱ではなかった。
「お嬢様」
侍女のミラが、私の肩に薄い肩掛けをそっと回しながら、低く言った。
「お足元、お気をつけて」
「ええ」
馬車の扉に手をかけたとき、ミラがもう一度、声を細くした。
「お嬢様」
「なに」
「先ほどの、柱の影にお立ちだった方ですけれど」
私は振り返らなかった。馬車の段に足をかけたまま、続きを待った。
「あの方はずっと、お嬢様のほうをご覧になっていましたよ」
馬車の中はまだ春の冷たさを残していた。私は座面に腰を下ろし、扇を膝の上に戻した。骨の一本だけ、わずかに曲がっている。指先で撫でても、まっすぐにはならなかった。
ミラが馬車の扉を閉めた。
私は、もう一度、その扇の骨を撫でた。




