放課後は、続く
新学期。後輩が加わった放送室で、それでも二人きりの放課後がある。一年前と同じ夕日が、窓から差し込んでいた。
四月の第二週。新学期が始まって数日。
校舎は静かだった。部活動をしている生徒はまばらで、廊下を歩く足音が妙に響く。二階の西の端。特別教室が並ぶ一角。放課後は人通りがほとんどない。一年前と同じ。
放送室のドアに手をかけた。引き戸をずらす。
夕日が目に飛び込んできた。
西向きの窓から差し込む橙色の光が、ミキサー卓の上をゆっくりと這っている。埃の粒子がその中を漂い、時間が止まったように見えた。
一年前と、同じ光景だ。
でも、椅子が違う。
四脚。テーブルを挟んで二脚ずつ。元からあった古い二脚と、今年加わった新しい二脚。座面の色が少し違う。でもどれも同じように夕日を受けて、橙色に染まっている。
音羽澪が、一脚の椅子に座っていた。
黒い髪が肩の少し下まで伸びている。窓からの夕日を受けて、輪郭が淡い橙色に縁取られている。
一年前の五月。初めてこの部屋のドアを開けたとき、同じ光景を見た。椅子に座っている人影。振り返る黒髪。夕日に縁取られた横顔。
あのときは名前も知らなかった。
澪がこちらを振り返った。
「こんにちは、陸くん」
「……ああ」
声が少し詰まった。既視感のせいだ。同じ部屋、同じ窓、同じ夕日、同じ人。でも全部が違う。
向かいの椅子に座った。澪と目が合う。テーブルを挟んで、いつもの距離。
「春休みなのに来たのか」
「陸くんもでしょう」
「……まあ」
示し合わせたわけではない。でも二人とも来た。この部屋に。理由は聞かなくても分かる。
窓の外を見た。グラウンドには誰もいない。春休みの校舎は静かだ。遠くでかすかに鳥の声がする。それだけが、この部屋の外の音だった。
「一年前もこんな感じだったな」
「こんな感じ、とは」
「静かで、夕日が入ってきて、俺とお前しかいない」
「一年前は名前も呼んでもらえませんでしたけどね」
「……それはお互い様だろ」
澪が小さく笑った。
テーブルの上には何もない。台本も、お便りの束も、CDも。今日は放送じゃない。ただ来ただけだ。この部屋に座りに。
「初めてこの部屋を見つけたとき」
「はい」
「俺だけの場所だと思った」
「知ってます。最初にこの部屋に来たときの顔、すごく不服そうでしたから」
「不服って。覚えてるのか」
「覚えてます。ドアを開けて、私がいて、三秒くらい固まってました」
「……三秒か」
「三秒です。数えてました」
あの三秒。名前も知らない転校生が、俺の聖域に先に座っていた。完璧な孤独が壊れた瞬間。
でも代わりに、もっと大きなものが始まった。
「俺だけの場所が、俺たちの場所になった」
「はい」
「来年からは、みんなの場所になる」
「はい」
「……それでいいと思ってる」
澪がこちらを見た。夕日を受けた暗褐色の目。一年前と同じ色。でも、あの頃にはなかったものが目の奥にある。
「私も、そう思います」
「後輩が来て、そのまた後輩が来て。この部屋に椅子が増えていく」
「六脚になるかもしれませんね」
「八脚になったら部屋に入らないな」
「そのときは大きい部屋に移動ですね」
「……放送室じゃなくなるじゃないか」
「でも、放送室で始まったことは変わりません」
澪がそう言った。穏やかな声。放送室の声。でも今の澪は放送室の外でも同じ声を出せる。この声がこの部屋だけのものだった頃が、遠い。
窓の外の太陽が沈みかけていた。空が橙から紫に変わり始めている。部屋の光が弱くなっていく。壁掛け時計の秒針が、変わらず時間を刻んでいる。
「ここに来てよかったです」
澪が言った。
窓の方を見ていた。横顔に夕日の残光がかかっている。声は静かだった。でも、一年分の全部がこもっていた。
「放送部に入って、この部屋に来て、陸くんに会って。全部、よかったです」
「……ああ。俺も」
言葉が少ない。でもそれでいい。この部屋では、言葉が少なくても全部伝わる。最初からずっとそうだった。
テーブルの上に手を置いた。何も考えずに。
澪の手が、俺の手に触れた。指先が重なる。そのまま、手のひらを合わせた。指を絡めた。
温かい。一年前の五月、同じテーブルを挟んで文庫本を読んでいた二人。あの頃には想像もできなかった距離。
手を繋いだまま、窓の外を見た。
夕日が沈んでいく。空の色が橙から紅に、紅から紫に。グラウンドに校舎の影が長く伸びている。一年前の五月に見た光景と同じだ。同じ窓、同じ角度、同じ沈み方。
でも、あのときは一人だった。文庫本を閉じて、一人で窓の外を見ていた。明日もここに来よう、と思っただけだった。
今は違う。
本は閉じている。いや、今日はそもそも持ってきていない。手には文庫本の代わりに、澪の手がある。指と指の間に温度がある。脈拍が伝わってくる。静かで、穏やかで、確かな鼓動。
「陸くん」
「ん」
「来年も、よろしくお願いします」
「……改まって言うな。くすぐったい」
「改まって言いたいんです」
「……ああ。よろしく」
繋いだ手に力を込めた。ほんの少しだけ。澪も同じだけ返してきた。
放送室が暗くなっていく。夕日の最後の光が窓枠の端にかかっている。あと数分で完全に沈む。
暗くなっても、手の温度は分かる。椅子の軋む音も、秒針の音も、隣の呼吸も、全部聞こえる。防音壁が外の音を遮断して、この部屋だけの時間を作っている。
四脚の椅子。でも今日は二人だけ。来年になれば四人でここに座る。そのうち後輩が後輩を呼んで、もっと増えるかもしれない。
でも始まりは、いつもここだ。西向きの窓と、テーブルと、椅子と、マイク。放課後の放送室。
夕日の最後の光が消えた。部屋が薄暗くなる。壁掛け時計の秒針だけが、変わらず刻んでいる。
「……そろそろ帰るか」
「はい」
立ち上がった。手はまだ繋いだまま。椅子を元の位置に戻す。片手で。ぎこちないが、離す気はない。
放送室のドアの前で立ち止まった。振り返る。
四脚の椅子が並んでいる。暗い部屋の中で、窓からの最後の薄明かりを受けて、影だけが見えている。一年前、ここに二脚しかなかった。
ドアを閉めた。廊下に出る。
運動部の掛け声も、吹奏楽のチューニングもない。春休みの廊下は静かだ。二人の足音だけが響いている。
校門を出た。三月の夜の空気が冷たい。でも繋いだ手は温かい。
「東に行くか」
「はい」
二人で歩き出した。同じ方向に。十五分の遠回り。
放課後のふたりごとは――まだ、続く。
椅子は二脚から四脚になった。文庫本の代わりに手を繋いでいる。窓からの夕日だけは、あの日と変わらない。




