先輩としての声
椅子が四脚になった日。放送室に、新しい声が加わる。
四月の第一週。新学期。放送室に椅子が四脚になった。
桐谷先生が約束通り用意してくれた二脚は、元からあるものとメーカーが違う。座面の色が少し明るい。並べると、古参と新入りの区別がすぐに分かった。
新入部員が二人、放送室のドアの前に立っていた。
「失礼します」
一年生の女子と男子。見学のときに顔は見ていたが、こうして正式に部室で顔を合わせるのは初めてだ。
「座って。好きな椅子でいい」
二人がおずおずと新しい方の椅子に腰を下ろした。テーブルを挟んで、俺と音羽澪の向かいに座る形になる。
「改めて。二年の真白陸です」
「音羽澪です。よろしくお願いします」
二人が自己紹介を返した。声が小さい。緊張しているのが分かる。
「最初に聞いていい? 放送の経験はある?」
二人とも首を横に振った。
「じゃあ一から教える。まずは機材の使い方から」
ミキサー卓の前に移動した。澪が横に立つ。
「これがミキサー。音量の調整と、マイクの切り替えをする」
澪がフェーダーを指さした。
「このスライダーで音量を上げ下げします。赤いランプが点いたら放送中。消えたらオフ。シンプルです」
澪の説明が明瞭だった。一年前、このミキサーの前で指が震えていた人間と同じ人間には見えない。声に迷いがない。言葉の選び方が丁寧で、でも簡潔で、後輩が頷きやすいテンポで話している。
マイクの使い方を教える番が来た。澪がマイクの前に座って、見本を見せる。
「マイクとの距離は拳一個分。近すぎると息がノイズになります。遠すぎると声が拾えません」
拳を握ってマイクとの距離を測る。その動作が自然で、何百回もやってきた人の動きだった。
「声は、大きくなくていいです。マイクが拾ってくれるから。むしろ、自然な声で話す方がリスナーには聴きやすい」
後輩の女子が手を挙げた。
「あの、音羽先輩は最初からそんなに話せたんですか」
澪が一瞬だけ止まった。それから、小さく首を振った。
「全然。最初は『はい』しか言えませんでした」
「え」
「本当です。真白くん……陸くんが全部話して、私は相槌を打つだけでした。何ヶ月もそうでした」
後輩二人が信じられないという顔をしている。今の澪を見れば、無理もない。
「じゃあ、どうやって話せるようになったんですか」
「慣れました。この部屋で、マイクの前で、隣に人がいて。少しずつ」
それは澪の謙遜だ。慣れただけじゃない。恐怖と向き合って、逃げずに声を出し続けた結果だ。でも俺が口を挟む場面ではない。澪が自分の言葉で伝えている。
後輩の男子が俺の方を向いた。
「真白先輩は、最初から話すのは得意だったんですか」
「得意じゃない。放送を始めたのも、別に話したかったからじゃない」
「じゃあ何で始めたんですか」
「……この部屋を残すため。廃部になるのが嫌だっただけだ」
正確に言えば、居場所を失うのが嫌だった。でも今はそれだけじゃない。
「最初は音楽だけでいい」
「え?」
「放送の内容。いきなりトークしなくてもいい。曲を選んで、流して、曲名を読む。それだけでいい。話す内容は後からついてくる」
自分たちの最初を思い出していた。五月。初めての放送。音楽を流して、番組名もなくて、曲の合間にぎこちなく言葉を挟んだだけの十五分。あれが全ての始まりだった。
後輩二人が顔を見合わせた。それから、男子の方が口を開いた。
「……先輩たちみたいになれますかね」
澪がこちらを見た。俺も澪を見た。
「俺たちは手本にならない」
「え」
「俺たちのやり方は俺たちに合ってただけだ。お前たちはお前たちのやり方でやれ。曲の選び方も、話し方も、番組の作り方も。全部自分たちで決めていい」
後輩が少し不安そうな顔をした。
「でも」
「でも、困ったら聞け。それは答える」
澪が頷いた。
「私たちも、困ったときに助けてもらいました。桐谷先生に、友達に、リスナーに。だから今度は、私たちが助ける番です」
後輩の女子の目が少し潤んだ。男子の方は、唇を引き結んで頷いていた。
「じゃあ、実際にやってみるか」
マイクの前に後輩を座らせた。放送ではなく、練習。スイッチは入れない。赤いランプは消えたまま。
「好きな曲を一つ選んで、曲名を読んでみろ」
後輩の男子がCDラックの前で迷っている。女子の方は澪の横に座って、選曲リストを見せてもらっている。
放送室が、四人の気配で満ちている。
一年前。この部屋には紙をめくる音が二つだけだった。今はキーボードを叩く音、CDケースを開ける音、小声の相談、澪の説明。四人分の空気が六畳の部屋を埋めている。
狭い。でも、窮屈じゃない。
後輩の男子がマイクの前に座った。深呼吸をして、口を開く。
「えっと……次の曲は……」
声が震えている。マイクとの距離が遠い。拳一個分より、倍くらい離れている。
澪がそっと手を伸ばして、マイクの位置を調整した。後輩の口元に近づける。
「大丈夫。もう一回」
澪の声が柔らかかった。あの声だ。放送室の声。俺にだけ聴かせていた声が、今は後輩にも向けられている。
後輩がもう一度口を開いた。
「次の曲は、『春の足音』です」
さっきより声が出ていた。まだ固いが、ちゃんとマイクに届く声だった。
「いい声だ」
俺がそう言うと、後輩の顔がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます」
澪が横で小さく笑っていた。
その笑顔を見て思った。声が詰まっていた頃の面影はない。でもあの頃の澪がいたから、今の澪がいる。後輩の震える声に「大丈夫」と言えるのは、自分が震えていたことを知っているからだ。
窓の外に四月の風が吹いていた。春の光が窓から差し込んで、四脚の椅子を照らしている。
「先輩たちみたいになれますか」。なれなくていい。お前たちは、お前たちになればいい。




