二年目の春
入部届が二枚。この部屋の椅子が、二脚では足りなくなる日が来た。
三月の第二週。放送を終えて、桐谷先生が放送室に来た。
「新入部員の件、正式に決まったわよ」
手元の書類をテーブルの上に置いた。入部届が二枚。
「一年生が二人。四月から放送部に入部します」
音羽澪が入部届を覗き込んだ。名前が二つ書いてある。
「見学に来てた子たちですね」
「そう。一月に見学して、二月にも来て、三学期の間ずっと迷ってたみたいだけど、最終的に決めてくれたわ」
二人。放送部に、後輩が二人。
一年前、この部屋には俺と澪しかいなかった。部員ゼロの廃部寸前の部活に、二人が入って、なんとか存続した。それが今度は四人になる。
「先輩になるのね、二人とも」
桐谷先生が口元を緩めた。いつもの穏やかな笑みだが、目の奥に感慨のようなものが見えた。三年間活動休止だった放送部を見守り続けた人の目だ。
「……実感が湧かないな」
「湧くわよ、四月になれば。嫌でも」
先生が書類をまとめて立ち上がった。ドアの前で振り返る。
「椅子、二脚足りないわね。用意しておく」
そう言って出ていった。
椅子。
この部屋には椅子が二脚しかない。テーブルを挟んで向かい合う二つの席。一年間、俺と澪だけが座っていた椅子。
それが四脚になる。
「……陸くん」
「ん」
「椅子、増えますね」
「ああ」
「最初、二つだけでしたよね。この部屋に来たとき」
「一脚に音羽が座ってて、もう一脚に俺が座った。それだけの部屋だった」
「音羽、って。今さらですね」
「……澪」
「はい」
澪が笑った。名前の呼び方を訂正されるのも、もう何度目か分からない。
テーブルの上に入部届のコピーが残っている。先生が置いていったらしい。二人の名前と、志望動機の欄。
一人目。「放課後のふたりごとを聴いて、自分も声で何かを伝えたいと思いました」
二人目。「放送部の公開放送を見て、あんなふうに話せる人になりたいと思いました」
胸の奥が熱くなった。
「あんなふうに話せる人になりたい」。その言葉が指す先は、間違いなく澪だ。学園祭で声が詰まって、それでも声を出した澪。あの姿を見て、この子は放送部に入りたいと思った。
「……澪」
「はい」
「この子たち、お前を見て入部を決めたんだな」
「私だけじゃないです。陸くんもです」
「俺は別に大したことしてない」
「大したことしてます。隣にいてくれました。それが全部です」
「……お前がそれ言うと反論できないんだよな」
「反論しなくていいです」
窓の外を見た。三月の空は高い。冬の低い太陽が少しずつ角度を上げて、春に向かっている。グラウンドでは部活動の声が聞こえる。
一年前の五月。この窓から見た景色を覚えている。夕日が差し込んで、埃の粒子が漂っていた。俺だけの場所だと思った。
翌日、そこに澪がいた。
「先輩になるの、不安じゃないですか」
「不安というか……何を教えればいいのか分からない」
「放送の仕方は教えられますよね」
「やり方は教えられる。でも俺たちのやり方が正解だったかは分からない」
「正解じゃなくても、続いたから」
「……そうだな。続いた」
一年間。月に一回の条件だった放送が、週に数回になった。リスナーが増えた。お便りが届くようになった。番組名がついた。取材をした。ゲストを呼んだ。公開放送をやった。校外でも声を出した。
その全部が、この二脚の椅子から始まった。
桐谷先生が最初に言った言葉を思い出す。「月に一回でいいから、校内放送を実施してちょうだい」。あのハードルの低さがなかったら、ここまで来られなかった。先生は分かっていたのかもしれない。小さく始めれば、あとは勝手に大きくなることを。
「澪」
「はい」
「四月になったら、この部屋が変わる」
「変わりますね」
「二人だけの場所じゃなくなる」
「……さみしいですか」
少し考えた。さみしい、とは違う。でも何かが終わるような感覚はある。
「さみしいというか……大事にしたい。二人だけだった時間を」
澪が頷いた。
「私も大事にしたいです。でも、増えることは怖くないです」
「怖くない?」
「はい。だって、この部屋に人が増えたのは、最初は私でした。陸くんの一人の場所に、私が入ってきた」
「……ああ」
「そのとき、嫌でしたか」
「……いや」
「じゃあ、大丈夫です」
澪が立ち上がった。椅子を二脚、並べ直した。テーブルの両側にきちんと向かい合うように。一年間、毎日そうしてきた配置。
「あと二脚増えたら、どう並べましょう」
「……四人で向かい合うのか。テーブルの両側に二脚ずつか」
「それか、横に並べるか」
「横だと顔が見えないだろ」
「放送中は横でもいいかもしれません。マイクに向かって全員が前を向く形」
「……お前、もう先輩の顔してるな」
「してません」
「してる」
澪の耳が少し赤くなった。照れたときの反応。何百回見ても見飽きない。
ふと、瀬戸颯太の顔が浮かんだ。あいつに報告したら「先輩じゃん」と笑うだろう。橘夏希なら「で、ちゃんと教えられるの?」と突っ込んでくるに違いない。周りの人間にも支えられて、ここまで来た。
窓の外の空が赤く染まり始めていた。三月の夕日は五月より少し高い位置から差し込む。同じ窓、同じ光。でも角度が違う。季節が変わった証拠だ。
「来年も、ここで放送するんだな」
「はい。来年も」
「四人で」
「四人で」
椅子が二脚。あと少しで四脚になる。この部屋が、もう少しだけ賑やかになる。
それを嬉しいと思える自分が、一年前には想像できなかった。
二脚の椅子が四脚になる。場所は同じ。窓からの光も同じ。でも、春が来るたびに何かが増えていく。




