校外公開録音
学校の外。知らない人の前。マイクの向こうに、初めての顔が並んでいる。
二月最後の日曜日。地域の文化祭イベント。
会場は駅前の市民ホールの一角で、ステージというほど大げさなものではない。長テーブルにマイクが二本。簡易スピーカー。観客席は折りたたみ椅子が三十脚ほど並べてある。
桐谷先生が話を持ってきたのは二週間前だった。
「地域の学校紹介イベントで、放送部の活動を披露してほしいって依頼が来てるの」
「校外ですか」
「そう。学校の外。知らない人の前。やってみる?」
音羽澪の方を見た。澪はまっすぐ前を見ていた。
「やります」
迷いがなかった。一年前なら考えられない返事だ。
そして今日。俺と澪は長テーブルの前に座っている。マイクの位置を確認する。学校のミキサー卓とは違う機材だが、基本は同じだ。
「緊張するか」
「少しだけ」
「少しだけ、か」
「学園祭の体育館に比べたら」
「……それはそうだな」
全校生徒の前で声が詰まった日。あれを乗り越えた人間にとって、三十人の知らない顔は怖くないらしい。
開始時間の五分前。折りたたみ椅子が七割ほど埋まっていた。近隣の住民、保護者らしき大人、小学生の子ども。知らない顔ばかりだ。学校の中では「放課後のふたりごと」を知らない人間の方が少なくなったが、ここでは誰も俺たちを知らない。
ゼロからだ。最初の放送の頃と同じ。
澪がマイクの角度を微調整している。慣れた手つき。一年間、放送室で積み重ねてきた動作が染みついている。
「じゃあ、始めるか」
「はい」
マイクのスイッチを入れた。
「こんにちは。青葉ヶ丘高校放送部の真白陸です」
「音羽澪です」
「僕たちは普段、学校の昼休みに『放課後のふたりごと』というラジオ番組をやっています。今日はその出張版ということで、少しだけお付き合いください」
客席から拍手。まばらだが温かい。
一曲流した。学校で使っているCDプレーヤーの代わりにノートパソコンから音を出す。選曲は澪が選んだ。明るいインストゥルメンタル。知らない場所でも聴きやすい曲。
曲が終わる。フリートーク。
「さて、放課後のふたりごとって名前なんですけど、実は昼休みにやってるんですよね」
「名前詐欺ですね」
「名前詐欺って言うな。由来があるんだ」
「由来というか、放課後に二人で話してたのが始まりだったので」
「そう。最初は放送なんてやるつもりなくて、ただ放送室で本を読んでただけだった」
「私もです。静かな場所が欲しかっただけでした」
「それが気づいたら毎日マイクの前に座ってる」
「不思議ですよね」
客席から笑いが漏れた。自然なやり取り。台本はない。放送室でいつもやっていることを、そのまま外に持ってきただけだ。
お便りコーナーの代わりに、事前に集めた質問カードを読んだ。地域の人が書いてくれたもの。
「えーと、『二人はどういう関係ですか?』」
澪が一瞬だけ口を閉じた。それから、マイクに向かって答えた。
「パーソナリティです」
「そうだな。パーソナリティ同士」
客席の前列に座っていた中年の女性が、隣の人に何か耳打ちした。口の動きが読めた。「本当のカップルみたい」。
澪もそれに気づいたらしい。耳が赤くなっている。でも声は止まらなかった。
「あと、付き合ってます」
客席がざわついた。笑い声と、小さな拍手。
「……言うのか、ここで」
「聞かれたので」
「質問カードに書いてあっただけだろ」
「答えない理由がありません」
澪が平然と言った。平然と言っているが耳は真っ赤だ。でも声は震えていない。一年前、「はい」の一言すら絞り出すのがやっとだった人間と同じ人間だとは思えない。
観客が温かかった。知らない人たちが、俺たちの話を聴いて、笑って、頷いている。学校の中だけで聴こえていた声が、外の世界にも届いている。
もう一枚質問カードを引いた。
「『どうして放送部に入ったんですか?』」
俺と澪が同時に口を開きかけて、止まった。譲り合いの沈黙。客席から笑いが起きた。
「……澪から」
「私は、静かな場所が欲しかったんです。人と話すのが苦手で。教室が辛くて。でも放送室に来たら、同じように静かな場所を探してる人がいて」
「俺も同じだ。一人になりたくて入った部活で、一人じゃなくなった」
「それが嫌じゃなかったんですよね」
「……ああ。嫌じゃなかった」
客席の空気が少し変わった。笑いではなく、静かに聴いている気配。知らない人たちが、俺たちの話に耳を傾けている。
三十分のイベントが終わった。最後の曲を流して、マイクを切る。
拍手が起きた。三十人分。多くはない。でも、知らない人の拍手は重い。俺たちのことを何も知らない人が、三十分だけ声を聴いて、拍手をくれた。
イベントの司会者が「素敵な放送でした」と締めてくれた。観客が帰り際に「来年もやってほしい」と声をかけてくれた人がいた。澪が「ありがとうございます」と答えていた。声が自然だった。一年前の、言葉の語尾が消えかけていた頃とは別人のように。
片付けをしながら、瀬戸颯太からメッセージが来た。
「イベントのページに上がってた写真見た。二人とも楽しそう」
写真。主催者が撮ったらしい。長テーブルの前で向かい合うように座っている俺と澪。マイクに向かって話している横顔。
返信を打った。「楽しかった」。それだけで十分だった。
会場を出ると、二月の冷たい空気が頬を刺した。日が傾いている。冬の夕暮れは早い。
「……澪」
「はい」
「よかったな。外でも、声が出せた」
「陸くんがいたからです」
「それは違う。お前の力だ」
「……半分ずつです」
澪が小さく笑った。マフラーに口元を埋めて、白い息を吐いた。
帰り道を二人で歩いた。駅前の通りは人が多い。学校の外。知らない人たちの間を、二人で歩いている。
放送室の中でしか声を出せなかった頃が、遠い昔のように感じた。
三十人の拍手。知らない人が、声を聴いて笑ってくれた。放送室の外でも、声は届く。




