余計じゃなかった
三年間、喉に巻きついていた言葉がある。今日、それがほどけた。
翌日の放課後。放送を終えて、放送室に二人だけになった。
鞄から封筒を出した。昨日の続き。音羽澪が隣に座っている。昨日と同じ距離。肩が触れる距離。
便箋を広げた。手は、まだ少し震えている。
昨日読んだところまで目を通す。転校先で元気にやっている。友達ができた。サッカー部に入った。
その先。
「あのとき、お前に言った言葉のことを書く」
呼吸が浅くなった。
「『余計なことをするな』。あれは、本当はそう思ってなかった」
文字がにじんだ。目を擦った。にじんだのは涙じゃなく、視界がぼやけただけだ。まだ泣いていない。
「怖かった。お前が声を上げた後、いじめが酷くなった。教師が来て、大事になって、クラス全員に知られて。俺は逃げ場がなくなった気がした。だから八つ当たりした。お前に怒りをぶつけた。本当は怒る相手が違うのに」
片桐の字が、途中から少し乱れていた。書きながら手が震えていたのかもしれない。
「ずっと謝りたかった。でもお前に連絡する勇気がなかった。あの一言でお前を傷つけたことは分かっていた。お前はきっと『自分のせいだ』と思っているだろう。それも分かっていた。分かっていて、何もできなかった」
便箋を持つ手の震えが止まらない。澪が隣で何も言わずにいる。呼吸の音だけが聞こえる。
「転校先で友達ができたとき、思った。もしお前が声を上げなかったら、大人は動かなかった。転校の話も出なかった。俺はあのクラスに残って、もっとひどいことになっていた」
次の一行を読んだ。
「お前が声を上げてくれたから、大人が動いた。転校できたのはお前のおかげだ」
目が熱い。
「余計なことじゃなかった」
文字が見えなくなった。
「お前がやったことは正しかった。結果が最悪に見えただけで、きっかけはお前が作ってくれた。俺が今ここで元気にやれているのは、お前のおかげだ」
涙が便箋の上に落ちた。一滴。にじんで、片桐の字を少しだけぼかした。
「ありがとう。そして、ごめん。三年間、言えなくてごめん」
手紙は、そこで終わっていた。
最後に住所と電話番号が書いてあった。連絡先。三年間、互いに知らなかったもの。
便箋を膝の上に置いた。置こうとしたが、指が離れなかった。紙を握りしめている。皺が寄る。丁寧に折られた便箋に皺が入っていく。
泣いていた。
声は出ていない。涙だけが勝手に流れている。喉の奥が締まって、息が浅い。鼻の奥が痛い。
放送室は防音だ。外の音が入ってこない。俺の声も外に漏れない。この部屋はそういう場所だ。最初からずっと。
隣から手が伸びてきた。
澪の手が、俺の手に重なった。
あのときと同じだ。俺が片桐の話をマイクの前でした後、澪が何も言わずに手を重ねてくれた。震える手の上に、そっと手を乗せてくれた。
同じ構図。同じ温度。でも意味が違う。
あのときは「聴いた。受け取った」だった。
今は「よかったね」だ。
澪の指が俺の指に触れている。握りしめた便箋の上から、そっと覆うように。強くは握らない。ただ、ここにいる、という温度で。
「……澪」
「はい」
「余計じゃ、なかった」
声が震えた。情けないくらい。十七歳の男が放送室で泣いている。
「余計じゃ、なかったんだ」
「……はい」
澪の声もかすれていた。
「陸くんがやったことは、余計なことじゃなかったんです」
「……ああ」
「ずっと、そう思ってました」
澪がこちらを見ていた。目が潤んでいた。泣いてはいないが、泣くのを堪えている顔だった。
「放送で話してくれたとき。陸くんがマイクの前で話してくれたとき。私、ずっと思ってました。陸くんは間違ってない。間違ってないのに、ずっと自分を責めてるんだって」
「……」
「でも、私が言っても届かないかもしれないと思ってました。当事者じゃないから。片桐さんの言葉じゃないと、解けない呪いだと」
呪い。そうだ。「余計なことをするな」は呪いだった。三年間、俺の喉に巻きついていた。声を上げると人を傷つける。だから黙っていた方がいい。そう思い続けていた。
でも。
「解けた」
声に出した。声に出さないと、消えてしまいそうだった。
「解けた。三年間の、呪いが」
澪の手に力がこもった。ほんの少しだけ。俺の手を、便箋ごと包むように。
窓から夕日が差し込んでいた。二月の低い太陽が、放送室の壁を橙色に染めている。便箋の上に光の帯が落ちて、片桐の字を照らしていた。
涙がまだ止まらない。でも、胸の底にあった冷たいものが、少しずつ溶けていくのが分かった。三年間、凍っていた何かが。
「……返事、書く」
「はい」
「何を書けばいいか、分からないけど」
「分からなくていいと思います。陸くんの言葉で書けば」
「……俺の言葉、か」
「はい。陸くんは、ちゃんと届く言葉を持ってます。私が一番知ってます」
澪がそう言って、小さく笑った。泣きかけの顔で笑うから、表情がぐちゃぐちゃだった。でもその顔が、今日一番安心する顔だった。
手を繋いだまま、しばらく動かなかった。夕日が沈んでいく。放送室が少しずつ暗くなる。壁掛け時計の秒針だけが、変わらず時間を刻んでいる。
便箋の皺を伸ばした。伸ばしきれない皺が残ったが、それでいい。読んだ証拠だ。
封筒に戻す。今度は丁寧に。
「……帰るか」
「はい」
立ち上がった。鞄に封筒をしまう。
放送室を出る前に、振り返った。夕日の残光が窓枠に引っかかっている。椅子が二脚。テーブルの上にミキサー卓。いつもの放送室。
ここで声を上げることを、もう怖いとは思わない。
便箋に皺が残った。涙の跡も残った。でも「ありがとう」の四文字は、にじんでも読めた。




