片桐からの手紙
下駄箱に入っていた白い封筒。差出人の名前を見た瞬間、指が震えた。
二月の木曜日。放課後の廊下を歩いていると、橘夏希が後ろから追いかけてきた。
「陸、これ。下駄箱に入ってた」
白い封筒を差し出された。表に「真白陸 様」と書いてある。几帳面な字。角が丸く潰れていて、鞄の中でしばらく揉まれた跡がある。
「……何で夏希が持ってるんだ」
「隣の下駄箱だもん。はみ出してたから落ちる前に回収しといた。感謝しなさいよ」
「……ありがとう」
「で、誰から?」
裏を見た。差出人の名前が書いてある。
息が止まった。
片桐。
「……知り合い?」
夏希の声が遠くなった。封筒を握る指先に力が入る。紙が微かにたわんだ。
「……中学の、友達」
「友達」
「ああ」
夏希が俺の顔をじっと見て、それから何も言わずに頷いた。
「分かった。じゃ、先行くね」
背中を向けて歩いていく夏希を見送った。踏み込まない距離感。いつもながら助かる。
封筒を鞄にしまった。開けるのは、まだだ。今は手が震えすぎている。
廊下の窓から差し込む二月の光が白い。冬の太陽は低くて、影が長い。自分の影が廊下の先まで伸びているのをぼんやり見つめた。
片桐。
中学二年の秋以来、一度も連絡を取っていない。転校した後の住所も、電話番号も知らない。知ろうとしなかった。知ったところで何を言えばいいのか分からなかったし、向こうだって俺からの連絡なんて望んでいないと思っていた。
あいつが最後に俺に向けた顔を覚えている。廊下の端、荷物をまとめた段ボール箱を抱えて。目が合ったのは一瞬だった。何か言いかけて、結局何も言わずに背中を向けた。
「余計なことをするな」
あの言葉が、今も喉の奥に刺さっている。三年間、抜けないまま。放送でその話をした日も、結局あの言葉の重さは変わらなかった。
放送室のドアを開けた。音羽澪がすでに席についていて、台本を確認している。俺の足音に顔を上げた。
「お疲れさまです、陸くん」
「……ああ、お疲れ」
声が固い。自分でも分かった。澪も分かっただろう。でも何も聞かずに、視線を台本に戻した。
放送の準備をした。選曲リストを確認して、お便りを並べて、マイクの位置を合わせる。いつもの手順。手が勝手に動く。頭の中には封筒のことしかない。
今日の放送を済ませた。曲を二つ流して、お便りを三通読んで、フリートークをして。いつも通りのはずだった。でも声に力が入らない。フリートークの途中で言葉が途切れた。一瞬の沈黙。澪がさりげなく話題を繋いでくれたおかげで、なんとか形にはなった。
マイクを切る。赤いランプが消える。
「……陸くん」
「ん」
「今日、声が違いました」
「……分かるか」
「半年以上、隣で聴いてます」
澪がこちらを見ている。問い詰めるのではなく、待っている目だ。話すなら聴く、話さないなら待つ。そういう目。
鞄から封筒を取り出した。テーブルの上に置く。
「……中学のとき、放送で話しただろ。いじめられてた友達のこと」
「はい。覚えてます」
「そいつから手紙が来た」
澪の目がわずかに見開かれた。すぐに戻る。
「……読みましたか」
「まだ」
「読まないんですか」
「……怖い」
声に出すと、余計に胸の底が冷えた。怖い。片桐が何を書いているのか。また「余計なこと」と書かれていたら。もう一度あの言葉を浴びたら、今度こそ立ち直れない気がする。
澪が立ち上がった。椅子を引いて、俺の隣に座り直した。肩が触れる距離。
「一緒に読みますか」
「……いいのか」
「陸くんが話してくれたから、私の話でもあります」
違う。澪の話ではない。でも、そう言ってくれることが今はありがたかった。
封筒を開けた。指が震えている。便箋を一枚引き出す。折り目が丁寧で、几帳面な片桐らしいと思った。
文字を追う。
「陸へ」
書き出しが目に入った瞬間、心臓が跳ねた。
「急に手紙を送ってごめん。連絡先が分からなくて、学校に送った」
文字が几帳面だった。中学のときと同じ。角の丸い、穏やかな字。
「転校先の高校では友達ができた。サッカー部に入って、レギュラーにはなれないけど試合には出ている。元気にやっている」
元気にやっている。その四文字で、目頭が熱くなった。
「陸に伝えたいことがある。ずっと伝えたかった。でも怖くて、連絡できなかった」
次の行に目を移そうとして、視界がぼやけた。
手が震えている。便箋が細かく揺れている。
隣から、温かいものが触れた。
澪の手だった。俺の左手に、そっと手を重ねている。握るのではなく、ただ乗せている。放送で過去を語ったときと同じだ。あのときも、澪はこうしてくれた。
体温が伝わってくる。指先の震えが、少しだけ収まった。
便箋の続きはまだある。「伝えたいこと」の先に何が書いてあるのか。目を動かせば読めるのに、視線が次の行に移らない。
心臓が痛い。怖いのと、嬉しいのと、苦しいのが全部混ざっている。片桐が元気にやっていること。友達ができたこと。それだけで十分なのに、「伝えたいこと」の先に何があるのかが怖くて、指が動かない。
「……続き、明日読む」
「はい」
「今日は、ここまでにしていいか」
「はい。大丈夫です」
便箋を封筒に戻した。折り目を揃えて、丁寧に。片桐が丁寧に折ったのと同じように。
窓の外が赤く染まっている。二月の夕日は低くて、放送室の奥まで光が届く。ミキサー卓の上に橙色の帯が伸びている。
澪の手がまだ俺の手の上にあった。
「……ありがとう」
「何もしてないです」
「いる。それだけでいい」
澪が何も言わなかった。ただ、手の温度が少しだけ強くなった。
「続き」がある。読むのが怖い。でも、隣に手の温度がある。明日、読む。




