音羽澪のソロ
マイクの前に、椅子が一脚だけ。今日は、音羽澪が一人で放送する。
一月下旬。木曜日。放送日。
放送室で準備をしているとき、音羽澪が言った。
「今日、一人でやってみたいです」
手が止まった。お便りを並べ替えていた手が、空中で固まった。
「……一人?」
「はい。マイクの前に私一人。陸くんはミキサーで」
澪の声は落ち着いていた。思いつきではない。考えてから言っている。
「理由を聞いていいか」
「はい」
澪が椅子に座り直した。背筋が伸びている。
「一年前、陸くんが隣にいてくれたから、私は声を出せるようになりました。公開放送でも、陸くんが隣にいたからマイクの前に立てた」
「ああ」
「でも、ずっと隣にいてもらうだけじゃ駄目だと思うんです。自分一人でも声を出せるって、確かめたい」
合唱コンクール。中学のとき、ステージで声が出なかった。百人の前で歌えなかった。あの日から、澪は一人で声を出すことが怖くなった。
高校に入って放送室に来た。隣に俺がいた。二人で声を出した。公開放送で百人の前に立った。声が出た。
でもそれは、隣に俺がいたからだ。
「一人でやってみて、声が出なかったら」
「出なかったら、それはそれでいいです。でも、やってみたい」
澪の目が真っ直ぐだった。怖がっていないわけではない。膝の上の手が微かに握られている。でも、目は逃げていない。
「……分かった。ミキサーに回る」
「ありがとうございます」
構成を組み直した。今日のテーマは「好きな声」。お便りは三通。全て澪が読む。俺はミキサー卓で音量を調整し、曲を流すタイミングを操作する。
マイクの前に椅子を一脚。澪だけの席。
俺はミキサー卓の後ろに座った。普段はマイクの横だ。澪と並んで座る位置だ。今日は違う。澪の背中が見える位置。
「準備いいか」
「……はい」
深呼吸。澪の肩が上がって、下がった。
マイクのスイッチを入れた。赤いランプ。
「放課後のふたりごと、今日は特別編です。音羽澪がお届けします」
澪の声だけが放送室に響いた。俺の声はない。
「今日のテーマは『好きな声』です。皆さんからいただいたお便りを、私一人で読ませていただきます。真白くんは今日、裏方です」
自然だった。声が震えていない。テンポも安定している。
一通目のお便りを読む。ラジオネーム「ミッドナイトウルフ」。常連だ。
「『好きな声は、母親の声です。寝る前に「おやすみ」って言ってくれるとき、なんか安心する』」
澪がお便りを読んだ後、感想を添える。いつもは俺が先にコメントして、澪が補足する形だった。今日は澪が最初にコメントする。
「おやすみ、って言葉は短いのに、言う人によって全然違いますよね。安心する声で言われると、本当に眠れる気がします」
声が広がっている。俺が隣にいるときの澪は、声の半分を俺に向けている。マイクに向ける声と、俺に確認する声と、半々。今日はマイクに全ての声が向いている。百パーセント、リスナーに向けた声。
二通目。
「『好きな声は、飼い犬が甘えるときの声です。くぅん、って鳴くやつ』」
「分かります。あの、甘えた声って反則ですよね。何でも許してしまいたくなる」
澪が少し笑った。一人で喋りながら、一人で笑う。相槌を打つ相手がいない。でも、会話が成立している。リスナーのお便りと、澪の声。二つの声がマイクを通して交わっている。
曲を流す。俺がミキサー卓のフェーダーを操作する。普段は自分で曲紹介をしてから流すが、今日は澪が曲紹介をした。
「ここで一曲。今日は、私が好きなピアノの曲を」
ドビュッシーの月の光。澪自身の録音。先週流したものをもう一度。
曲が流れている間、澪がマイクから少し離れて俺を見た。振り返って。
目が合った。
俺は親指を立てた。声は出さない。ミキサー側だから。でも伝わったはずだ。
澪が頷いて、前を向いた。
曲が終わる。
三通目。最後のお便り。
「『好きな声は、放課後のふたりごとの二人の声です。聴いていると、放課後が特別な時間になります』」
澪が一瞬、黙った。
一秒。二秒。
放送事故にはならない長さの沈黙。でも俺には分かった。澪がこらえている。嬉しくて、胸がいっぱいで、声が詰まりそうになっている。
「……ありがとうございます」
声が少しだけ掠れた。でも、途切れなかった。
「二人の声が好きだって言ってもらえるのが、一番嬉しいです。今日は私一人ですけど、隣に真白くんがいます。見えない場所で、ちゃんと支えてくれています」
それは台本にない言葉だった。構成には入れていない。澪が、マイクの前で自分の言葉を紡いだ。
「これからも、放課後のふたりごとをよろしくお願いします」
エンディング。澪が一人で締める。
「それでは、また来週。放課後のふたりごとでした」
マイクのスイッチを切った。赤いランプが消えた。
十五分間。一人でやりきった。
澪がゆっくりと椅子の背もたれにもたれた。目を閉じて、長い息を吐いた。
俺はミキサー卓から立ち上がって、澪の横に行った。いつもの席。隣。
「完璧だった」
最初に出た言葉がそれだった。
澪が目を開けた。
「……完璧じゃなくてもよかったんですけど」
「それも含めて完璧だった」
「……意味が分かりません」
「三通目で声が詰まりかけたのも含めて、ってことだ。あそこで止まらずに続けたのが良かった」
澪が俺を見た。目の端が赤い。泣いてはいない。でも、あと一押しで泣く目だ。
「夏のジムノペディが途中で止まったとき、俺は『あそこが一番良かった』って言った。覚えてるか」
「……覚えてます」
「今日の放送も同じだ。声が詰まりかけたところが、一番良かった。完璧に喋り通すよりも、揺れながら続ける方が、音羽澪の声だ」
澪の唇が震えた。噛みしめている。こらえている。
「……泣いていいか、って聞いたら泣きますよ」
「泣けよ。防音壁の中だ」
澪が笑った。泣きながら。前にも見た光景。公開放送の後。告白の後。そして今日。
嬉しいと泣く人だ。
合唱コンクールで声が出なかった。百人の前で、一人で、声を出せなかった。
今日、一人で声を出した。十五分間。マイクの前で。隣に俺はいなかった。ミキサーの後ろにいた。距離にして二メートル。たった二メートルだが、隣の席とは全く違う。
それでも、声は出た。止まらなかった。震えかけたけど、続いた。
合唱コンクールの対極にある十五分間。一人で声を出せたということ。
「澪」
「……はい」
「次は二十分いけるな」
「欲張りですね」
「パーソナリティは貪欲くらいでちょうどいい」
澪が涙を拭いた。袖で、乱暴に。拭った後の顔は笑っていた。
「……陸くん」
「ん」
「ありがとうございます。隣にいてくれて」
「今日は隣にいなかったけどな」
「いました。声は聞こえなかったけど、気配がずっとありました。二メートル後ろに」
振り返ったら、いる。その安心感。
いつか、俺が一メートル後ろでも、五メートル後ろでも、教室の端にいても、澪は声を出せるようになるだろう。そしていつか、俺がいなくても。
でもそれは今日の話じゃない。今日は、一人で十五分間やりきったことを喜ぶ日だ。
「帰るか」
「はい」
片付けをして、放送室を出た。校門を出て、東に曲がった。いつもの帰り道。
隣を歩く澪の鼻が赤い。泣いた後だ。寒さのせいもある。
「……陸くん」
「ん」
「来週は、一緒にマイクの前に戻ります」
「当たり前だ。ふたりごとだからな」
「はい。放課後のふたりごとです」
一人でもできた。でも二人がいい。
それが分かっただけで、今日の放送には意味があった。
一人で声を出せた。十五分間。震えかけても、止まらなかった。でも来週は、隣に戻る。一人でもできる。二人なら、もっといい。




