三学期の声
三学期。放送室のドアを開けたら、二週間分の沈黙が待っていた。その沈黙を、また二人で埋め始める。
一月九日。三学期の始業式。
冬休みが明けた。教室に入ると、クラスメイトの声が一斉に耳に入ってくる。年末年始の話、初詣の話、年賀状の話。二週間ぶりの教室は騒がしい。
席に着いた。右隣は空いている。音羽澪はまだ来ていない。
一分後、澪が教室に入ってきた。マフラーを外しながら。目が合った。
「……おはようございます」
口の形だけ。声にはしない。教室だから。でもいつもより唇の動きが大きい。伝えようとしている。
頷き返した。
冬休みの間、毎日声を聞いていた。通話で、メッセージで。でも教室で、隣の席で「おはよう」を交わすのは二週間ぶりだ。声がなくても、姿が見えるだけで安堵する。
始業式が終わって、通常授業が再開して、放課後になった。
放送室のドアを開けた。
いつもの匂いがした。防音材とコーヒーの残り香と、微かな埃の匂い。二週間放置された部屋の空気。窓を開けて換気した。一月の冷気が流れ込む。
「久しぶりですね、この部屋」
澪が入ってきた。部屋を見回している。壁。窓。ミキサー卓。壁掛け時計。二脚の椅子。何も変わっていない。
「散らかってないか確認するか」
「はい。……大丈夫そうです」
椅子に座った。いつもの配置。隣同士。肘が触れない距離。
「……帰ってきた感じがするな」
「はい。放送室が一番落ち着きます」
三学期最初の放送準備を始めた。冬休みの間に溜まったお便りを整理する。ポストに入りきらず、職員室に回されていた分もあった。桐谷先生が紙袋にまとめて放送室の前に置いてくれていた。
お便りの量が増えている。クリスマス回の反響と、交際発表の反響が混ざっている。祝福の言葉。感想。新年の抱負を書いてくるリスナーもいる。
「『来年度も放課後のふたりごとを続けてほしい』……来年度、か」
「続けますよね」
「当たり前だ」
「よかった」
澪が微笑んだ。安堵の微笑み。
三学期最初の放送を終えた。テーマは「新年の目標」。無難だが、堅実なテーマだ。リスナーの反応も良い。
放送後。読書タイム。ページをめくる音が二つ。
放送室のドアがノックされた。
「はい」
ドアを開けると、見知らぬ顔が二つ並んでいた。女子生徒。制服のリボンの色が違う。一年生だ。
「あの……放送部の見学って、できますか」
俺と澪が顔を見合わせた。
「見学?」
「はい。来年度、放送部に入りたくて。今のうちに見学させてもらえたらって」
入部希望者。放課後のふたりごとが始まって以来、初めてのことだった。
「……どうぞ。入ってくれ」
二人の一年生が、おそるおそる放送室に足を踏み入れた。六畳の部屋。ミキサー卓を見て、壁の防音材を見て、窓の外を見て、目を輝かせている。
「ここで放送してるんですか」
「ああ。この卓でミキシングして、このマイクで話す」
「思ったより、狭いですね」
「六畳だからな」
澪が立ち上がって、二人の横に移動した。
「この卓が音量の調節をするところです。ここがマイクのスイッチ。ここが選曲用のパソコン」
澪が一つ一つ丁寧に説明している。指で示しながら、分かりやすい言葉を選んで。一年生が熱心に頷いている。
「音羽先輩、いつもラジオ聴いてます。声がすごく聴きやすくて」
「……ありがとうございます」
澪の耳が赤くなった。褒められ慣れていないのは今も変わらない。
「放送って、緊張しませんか」
「……最初は、すごく緊張しました。声が震えて、うまく話せなくて」
「そうなんですか。全然分からないです、今の放送を聴いてると」
「慣れるのに時間がかかりました。でも隣に、パートナーがいたから」
澪がちらりと俺を見た。一瞬だけ。すぐに一年生に視線を戻した。
「二人でやるラジオは、一人じゃないから安心できます。沈黙も、二人なら怖くないんです」
一年生が二人とも真剣に聞いている。メモを取っている子もいる。
「来年度、入部届を出してもいいですか」
「もちろん。歓迎する」
俺が答えた。橘夏希がいたら「えらい偉そうだね」と言われそうな口調だったかもしれない。
一年生が帰った後、放送室に二人きりが戻った。
澪が椅子に座り直して、深く息を吐いた。
「入部希望者が来るなんて」
「ああ。初めてだ」
「来年度、四人になるかもしれませんね」
「椅子を増やさないとな」
冗談のつもりで言った。
でも、言った後で胸の奥が少しだけ震えた。
一年前。四月。放送室のドアを開けたとき、この部屋には椅子が二脚しかなかった。俺が座るための椅子と、音羽澪が座っていた椅子。二脚で十分だった。二人しかいなかったから。
紙をめくる音が二つ。沈黙に厚みが生まれた。声を交わすようになった。放送を始めた。リスナーが増えた。瀬戸颯太が感想を言いに来た。夏希が応援した。桐谷先生が見守った。
そして今、一年生が「入りたい」と言って来た。
二脚だった椅子が、四脚になるかもしれない。
「……一年前は、想像もしなかったな」
「何をですか」
「全部だ。放送を始めたことも、リスナーが増えたことも、後輩が来たことも」
「私もです。一年前は、この部屋で一人で本を読んでいただけですから」
澪が壁掛け時計を見上げた。秒針が回っている。いつもと同じ速度で。
「でも変わりましたね。二人になって、声が増えて、外に届くようになって」
「ああ」
「来年度は、もっと声が増えるかもしれません」
「……そうだな」
嬉しいはずだ。嬉しい。放送部が成長している。音楽室の隅で埃を被っていた部活が、活動実態を持って、後輩が入りたいと思う場所になっている。
でも、この六畳の放送室で、二脚の椅子で向かい合っていた時間は、もう二度と来ない。
そのことが寂しい、と思った。夏に、瀬戸が来たときと同じ感覚だ。外の世界が流れ込んでくる。それは成長であり、いいことだ。
ただ。
「澪」
「はい」
「椅子が増えても、俺の隣はお前の席だ」
「……はい。知ってます」
澪が笑った。放送室の声。俺の隣の声。
三学期が始まった。放送室は変わらない。変わらないまま、少しずつ広がっていく。
それでいい。隣の席さえ変わらなければ、椅子が何脚増えても構わない。
一年前は二脚だった椅子が、来年度には四脚になるかもしれない。声が増えていく。それが嬉しくて、少しだけ寂しい。




