冬休みのメッセージ
冬休み。放送室のない日々。でも夏とは違う。声が、すぐそこにある。
冬休みが始まった。
夏休みと同じだ。学校がない。放送室がない。澪に会えない日が続く。
でも、夏とは全然違った。
夏休みのメッセージは、最初は選曲の相談だけだった。業務連絡。三日目あたりから内容が逸れ始めて、五日目には曲と関係ない話もするようになった。段階を踏んで、少しずつ。
冬休みは、初日から違った。
『おはようございます、陸くん』
朝八時。音羽澪からのメッセージ。普通の挨拶。でも夏には存在しなかった種類の連絡だ。
『おはよう』
返した。即答。夏のときのように三十秒待ってから返す必要はもうない。
『今日は何をしますか』
『宿題。数学が終わってない』
『まだですか。夏と同じこと言ってますよ』
『数学は毎回死ぬ』
『教えましょうか。通話で』
通話。
夏のメッセージは文字だけだった。「テキストでも声が聞こえます」と澪は言った。確かにそうだった。文字の向こうに声の温度が透けていた。
でも、本物の声にはかなわない。
『頼む』
十分後、通話が繋がった。
「……もしもし」
澪の声。電話越しの声。放送室で聴く声とは少し違う。電波を通すと、高音が僅かに削られて、全体的にまろやかになる。でも声の芯は変わらない。
「数学、どこが分からないですか」
「確率のところ」
「教科書の何ページですか」
「百三十二ページ」
「開きます。……ああ、これは条件つき確率ですね」
澪の声が「教える声」に切り替わった。放送の声でも、二人きりの声でもない、三つ目の声。落ち着いていて、論理的で、でも丁寧。成績が俺より上だという話は嘘じゃなかったらしい。
四十分で確率の範囲が終わった。
「……助かった」
「どういたしまして」
「数学、本当にできるんだな」
「信じてなかったんですか」
「半信半疑だった」
「ひどいです」
笑い声。電話越しの笑い声は、放送室で聴く笑い声より少しこもる。でも、温度は同じだ。
宿題の話が終わっても、通話は切れなかった。
「陸くん」
「ん」
「今日のお昼、何食べますか」
「……まだ決めてない」
「私はお母さんのカレーです」
「いいな」
「辛口です」
「音羽家は辛口なのか」
「私だけです。お母さんは中辛」
こういう会話だ。何でもない。意味がない。でも声が聴けるだけで、冬休みの空白が埋まっていく。
その日から、通話が日課になった。
朝はメッセージ。昼過ぎに通話。夜にまたメッセージ。
通話は三十分から一時間。宿題の話、本の話、放送の企画の話。話題が尽きると沈黙になる。でも電話を切らない。放送室の沈黙と似ている。何も言わなくても、繋がっている安心感がある。
澪の声には、いくつかのパターンがあることに気づいた。
嬉しいとき、半音高くなる。これは前から知っていた。放送室でも同じだ。
眠いとき、柔らかくなる。語尾が少し伸びて、母音が丸くなる。夜遅い通話で分かった。
考えているとき、声量が落ちる。質問してから答えが返ってくるまでの間に、小さく「うーん」と唸る。その唸り声が、普段の声の半分くらいの音量。
怒っているとき。これはまだ聞いたことがない。聞きたくもない。
十二月二十九日。夜の通話。
「陸くん」
「ん」
「電話越しの声と、放送室の声と、どっちが好きですか」
不意打ちの質問だった。
「……なぜ聞く」
「気になったので」
「どっちも澪の声だろ」
「それはそうですけど。音が違うじゃないですか。電話だと少し変わりますよね」
変わる。確かに変わる。電波の圧縮で高音が落ちる。ノイズが乗る。空間の反響がなくなる。
「……放送室の方が、近い」
「近い?」
「防音壁の中の声は、他のどこよりも近い。加工されてない、そのままの声だから」
「……じゃあ、放送室の声の方が好きですか」
「好きかどうかの問題じゃない。どっちも好きだ。ただ、放送室の声は特別だ」
電話の向こうで、沈黙が落ちた。三秒。
「……隣にいるときの声です」
「何が」
「私が一番好きなのは。電話でもなく、放送でもなく、隣にいるときの陸くんの声です」
「……どう違うんだ」
「電話だと少し硬いです。放送中は、パーソナリティの声になる。でも放送後に隣で話すとき、一番低くて、一番穏やかになります。あの声が好きです」
返事ができなかった。自分では気づいていなかった。隣にいるときの声が違うということに。
「……そうか」
「はい」
「冬休みが明けたら、隣で話す」
「……楽しみにしてます」
大晦日。十二月三十一日。
夜の十一時半に通話を始めた。年越し通話。
「あと三十分ですね」
「ああ」
テレビの音が電話越しに聞こえる。澪の家の居間のテレビだろう。紅白の歌声が遠くから漏れてくる。
「今年は、いろんなことがありました」
「ああ。ありすぎた」
「放送を始めて、リスナーが増えて、公開放送をやって。陸くんと……付き合うことになって」
「全部、放送室から始まった」
「はい。全部、あの部屋から」
時計を見た。十一時五十八分。
「澪」
「はい」
「来年もよろしく」
「……気が早いです。まだ二分あります」
「二分待つのか」
「待ちます。カウントダウンしたいので」
「……分かった」
沈黙。テレビの音。遠くの除夜の鐘。
十一時五十九分。
「あと一分です」
「ああ」
「十、九、八……」
澪が数え始めた。小さな声で。電話越しに、カウントが聞こえる。
「七、六、五」
「四、三、二」
「一」
「……あけましておめでとうございます、陸くん」
「あけましておめでとう、澪」
年が変わった。声が一番に届いた。電話越しの声。放送室の声とは違う。でも、同じ人の声。
「今年もよろしくお願いします」
「ああ。今年も」
通話を切った後、部屋が静かになった。
夏休みのメッセージは、文字だけで声を想像していた。冬休みは、声そのものが届く。距離は変わらない。でも密度が違う。
枕元にスマホを置いた。画面が消えて、暗くなる。
来年も声を聴ける。その事実だけで、年が明ける意味がある気がした。
年越しの瞬間、最初に届いたのは電話越しの声だった。来年もよろしく。その一言が、新しい年の始まりになった。




