聴いてほしい曲、二曲目
夏にもらったUSBメモリから半年。同じ形の黒い記憶媒体の中に、全く違う音が入っていた。
木曜日の放課後。放送を終えて、片付けをしていた。
音羽澪がミキサー卓の上を拭きながら、何か言いたげな顔をしている。唇が微かに動いて、止まって、また動く。何回かそれを繰り返してから、ようやく声になった。
「あの、陸くん」
「ん」
「渡したいものがあります」
澪が鞄から小さなUSBメモリを取り出した。見覚えがある。夏休みに渡されたものと同じ形。同じ黒。
「……二曲目か」
「はい」
受け取った。手のひらの上に載る小さなメモリ。前回と同じように、ラベルには何も書いていない。
「今回は何の曲だ」
「……ドビュッシーの『月の光』です」
月の光。ベルガマスク組曲の第三曲。ジムノペディとは系統が違う。もっと色彩的で、もっと繊細な曲だ。
「前回と同じで、ここでは聴かないのか」
澪が一瞬黙った。
それから、首を横に振った。
「……今回は、ここで聴いてほしいです」
「いいのか」
「はい。夏のときは、反応を見られるのが怖くて。でも今は……陸くんの前で聴いてほしいです」
声が震えていなかった。真っ直ぐだった。夏の頃とは違う声だ。
パソコンを開いた。USBメモリを挿す。ファイルが一つ。タイトルは「Clair de Lune」。
再生ボタンを押した。
スピーカーからではなく、放送用のヘッドフォンで聴くことにした。二人で一つずつ、モニター用のヘッドフォンを耳に当てる。
最初の音が鳴った。
静かな導入。右手の高音が、夜の水面に落ちる月光のように降りてくる。
夏に聴いたジムノペディとは、全く違った。
あのときの演奏は、震えていた。一音一音に迷いがあった。途中で止まった。指が怖がっているのが、音を通して伝わってきた。
今回は、止まらない。
テンポが安定している。右手と左手のバランスが取れている。中間部の和音の変化も、指がためらわずに鍵盤を押している。
何より、音に自信がある。
弱い音は弱いまま、でも消えない。強い音は強いまま、でも叩きつけない。音量のコントロールが、夏とは比べものにならないほど精密になっている。
中間部。曲がうねるように盛り上がる。アルペジオが波のように広がって、高音が煌めく。
澪の指が、ここを弾ききっている。夏なら止まっていたかもしれない箇所を、真っ直ぐに通過していく。
終盤。再び静かな主題が戻ってくる。最後の和音がゆっくりと減衰して、消えた。
四分二十秒。
ヘッドフォンを外した。
澪がこちらを見ていた。膝の上で手を握っている。爪が掌に食い込んでいる。唇を引き結んでいる。
自信のある演奏だった。でも、感想を待つ顔はまだ怖がっている。
「……うまくなったな」
最初に出た言葉がそれだった。もっと気の利いたことが言えなかったのか。自分の語彙力に落胆する。
でも、それ以外の言葉が出てこない。うまくなった。格段に。夏のジムノペディとは、同じ人間が弾いているとは思えないくらいに。
「途中で止まらなかった」
「……はい」
「音が怖がってない」
「……」
澪が俯いた。肩が小さく震えている。泣いているのかと思ったが、違った。唇が笑っている。
「真白く……」
言いかけて、止まった。言い直した。
「陸くんに聴いてもらいたくて、練習しました」
声が掠れていた。笑いながら、泣きそうになりながら、それでも真っ直ぐな声。
「夏に、途中で止まったところが悔しくて。あの日からずっと弾いてました。毎日じゃないですけど、週に四回くらい。最初は月の光なんて弾けなくて、指が全然届かなくて」
「週四回も弾いてたのか」
「はい。陸くんに、成長した音を聴いてほしかったので」
俺は何と答えたらいいか分からなくて、USBメモリを手の中で転がした。
夏のジムノペディ。途中で止まった演奏。震える指。それでも最後まで弾ききった音。あれはあれで、音羽澪の声だった。
今回の月の光は、もう一つの声だ。止まらない声。怖がらない声。半年間の成長が、音になって伝わってくる。
「これ、放送で流すか」
思いつきではなかった。聴いた瞬間から考えていた。この演奏を、リスナーにも聴かせたい。
澪が目を見開いた。
「放送で……ですか」
「ああ。音羽澪のピアノを、リスナーに聴かせたい。嫌なら無理にとは言わない」
澪が窓の外を見た。十二月の夕暮れ。日が短くなって、もう空は暗くなりかけている。
「夏のジムノペディのときは、考えられなかったです。人に聴かせるなんて」
「……だろうな」
「でも」
澪が俺を見た。
「流したいです。みんなに聴いてほしい」
迷いのない声だった。公開放送でマイクの前に立ったときの声。あのとき越えた壁の向こう側にいる人間の声。
「自分の音を、隠したくないです。もう」
「……分かった」
来週の放送で流す。選曲リストに組み込む。曲紹介はどうする。
「パーソナリティの音羽が弾いた曲です、って紹介するか」
「……恥ずかしいですけど。はい、それで」
澪が頬を両手で押さえた。赤い。でも声は震えていない。
USBメモリをパソコンから外して、放送用のフォルダにデータをコピーした。来週の構成に組み込む作業を二人で始める。
何曲目に流すか。前後のトークをどうするか。リスナーへの説明は。
「三曲目がいい。トークが温まったところで。前振りは俺がやる」
「前振り、変なこと言わないでくださいね」
「変なこととは」
「……例えば、『パーソナリティの音羽が、僕のために弾いてくれました』とか」
「言わない。というか『僕』は使わない」
「言わないでください。絶対に」
「言わない」
澪が安堵の息を吐いた。それから、小さく笑った。
「でも……本当は、そうなんですけどね」
「何が」
「陸くんのために弾いた、っていうのは」
聞こえないふりをした。聞こえた。全部聞こえた。防音壁の中だから、小さな声でも全部聞こえる。
窓の外が暗くなっていく。壁掛け時計の秒針が刻んでいる。
夏のジムノペディは俺一人で聴いた。部屋で、イヤホンで、一人で。
冬の月の光は、放送室で二人で聴いた。そして来週、リスナーにも届ける。
音羽澪の声が、また一つ広がっていく。
途中で止まらなかった。その事実だけで、半年の重さが分かる。来週、この音を放送に乗せる。




