となりの席
十二月の席替えで、くじが隣を引き当てた。教室で隣にいることが、こんなに遠くて近いとは知らなかった。
十二月。席替え。
担任が黒板にくじの番号を書き出していく。窓側の一列目から順に、名前が埋まっていく。
俺の番号は十七番。窓から二列目、後ろから三番目。悪くない位置だ。黒板も見えるし、窓の外も見える。
音羽澪の番号を目で追った。十八番。
隣だった。
「……マジか」
小さく呟いた。隣の席。教室で、隣。
これまで澪の席は教室の前方、俺は後方だった。直線距離で約五メートル。授業中に澪の横顔を見ようとすると、前の席の奴の頭越しに視線を送る必要があった。そんなことはしていない。していないが、仮にするとしたらそういう距離だったということだ。
それがゼロになった。
席替えが完了して、それぞれが新しい席に移動する。椅子を持ち上げて歩く音、机を引きずる音、「誰の隣?」「まじかよ」という声が教室を飛び交う。
自分の席に座った。右隣に、澪が座った。
「……よろしくお願いします」
澪が小声で言った。目が合った瞬間、視線を逸らした。耳の縁が赤くなっている。
「……ああ」
教室だ。放送室じゃない。防音壁もないし、二人きりでもない。三十二人のクラスメイトが周囲にいて、授業が始まろうとしている。
それなのに、澪が隣にいるだけで空気の密度が変わる気がした。右腕が意識を持ったように重くなる。肘をつく位置を三回直した。
一時間目。数学。
ノートを開く。シャーペンを持つ。教師の声を聞く。板書を写す。普通の授業だ。何も変わらない。
ただ、右から微かにページをめくる音が聞こえる。澪がノートに数式を書き写す音。シャーペンの芯が紙に触れる、さらさらという音。放送室では聞こえなかった音だ。教室の澪の音。
集中しろ。数学だ。二次関数の最大値と最小値。教科書の問題を解く。
解いている途中で、右から何かが転がってきた。
消しゴム。白い、小さな消しゴム。澪の机から落ちて、俺の足元まで転がってきた。
拾った。
澪に渡そうとして、手を伸ばした。澪も同時に手を伸ばしていた。
指が触れた。
消しゴムの上で、指先が重なった。0.3秒。それだけの時間。冷たい消しゴムの表面と、澪の指先の温かさが同時に伝わってきた。
二人とも固まった。
澪が息を止めたのが分かった。俺も呼吸を忘れていた。教室の喧騒が一瞬遠くなって、指先だけが世界の中心になった。
「……すみません」
澪が先に手を引いた。消しゴムを受け取って、膝の上で握りしめている。耳だけじゃなく、首筋まで赤くなっている。
「……いや」
それだけしか言えなかった。心臓がやかましい。教室の真ん中で、消しゴムを拾っただけで、心拍数が上がっている。冷静になれ。
二時間目。三時間目。四時間目。
隣に澪がいる。それだけのことが、一日をこんなに長くする。
昼休み。橘夏希が弁当を持って俺の席に来た。
「席替え、隣じゃん」
「……くじだ」
「知ってるよ。くじでしょ。でもさ」
夏希が澪の方をちらりと見た。澪は自分の席で弁当を開いている。一人で食べている。
「運命って信じる?」
「信じない」
「だよね。でもくじって確率じゃん。三十二分の一くらいだよ、隣になる確率」
「計算するな」
夏希がにやにやしている。こいつの笑顔は基本的に信用できない。
五時間目が終わった後、瀬戸颯太が廊下で話しかけてきた。
「真白、音羽さんと隣なんだって?」
「……どこから聞いた」
「夏希経由」
「あいつ……」
「いいじゃん。羨ましいぞ」
瀬戸が軽く笑った。あっけらかんとした笑い方。この男は、あの日以来ずっとこの態度を崩さない。眩しい。
六時間目の終わり際。前の席の奴が振り返って、俺と澪を交互に見た。
「なあ、真白と音羽さんって付き合ってんの?」
空気が、止まった。
周囲の何人かがこっちを見ている。好奇の目。面白がっている目。悪意はない。ただの興味本位だ。
澪を見た。澪は教科書を手に持ったまま、微動だにしていない。表情が固い。でも、視線だけが俺の方に動いた。
どう答える。
まだ公表していない。放送でも言っていない。教室で聞かれるのは想定していたが、こんなに早いとは思わなかった。
「……放送部の仲間だ」
嘘は言っていない。事実だ。放送部の仲間である。それ以上のことは、俺が教室で答えることじゃない。
「ふーん。仲良いよな」
「放送を一緒にやってるんだから、普通だろ」
前の席の奴は「そっか」と納得して、前を向いた。
横を見ると、澪が教科書の影で小さく息を吐いていた。安堵の息だ。
チャイムが鳴った。
放課後。荷物をまとめて、放送室に向かう。廊下を歩く。二階の端。
ドアを開けた。いつもの部屋。防音壁。六畳。西窓。二脚の椅子。
澪が後から入ってきた。ドアを閉めた。
教室と違う。同じ隣の席でも、放送室は別だ。三十二人の視線がない。好奇の質問もない。ここは二人の場所だ。
「……疲れました」
澪が椅子に座って、深く息を吐いた。
「教室で隣って、こんなに緊張するものなんですね」
「……俺もだ」
「消しゴム、すみませんでした」
「謝るな。落としただけだろ」
「でも……指が」
「……それは」
二人とも黙った。
放送室の沈黙。教室の沈黙とは違う。ここの沈黙は、二人だけのものだ。
「聞かれたな。付き合ってるのかって」
「……はい」
「どうする」
澪がしばらく考えていた。膝の上で指を組んで、ほどいて、また組んで。
「……まだ、教室では言わなくていいですか」
「ああ。俺もそう思う」
「放送室とは、別にしたいです。ここは二人の場所だから」
澪がこの部屋を見回した。壁。窓。ミキサー卓。壁掛け時計。
「でも」
「ん」
「隣の席は……嬉しいです。ずっと遠くて、振り向かないと見えなかったから」
声が小さかった。放送室の声。俺にだけ聴かせる声。
「……俺もだ」
教室でも隣。放送室でも隣。
五メートルがゼロになった。でも本当はゼロじゃない。教室には三十二人の距離がある。放送室には防音壁の内側の近さがある。
同じ隣でも、全然違う。
その違いが分かること自体が、たぶん特別なんだと思った。
消しゴムひとつで心臓が壊れそうになる日々が始まった。教室と放送室、同じ「隣」の違う温度。




