帰り道が変わった
校門を出て、初めて同じ方向に歩いた。十五分の遠回りは、少しも長くなかった。
水曜日。放送室で作業を終えた。
「お疲れさま、澪」
「お疲れさまです、陸くん」
放送後の挨拶。三日目。まだ耳が熱くなるが、声の震えはなくなった。慣れ、というより覚悟だ。
玄関で靴を履き替えて、校門を出た。
ここから先が、今まで通りではなかった。
半年間、校門を出たら別々の方向に歩いていた。音羽澪は東、俺は西。放送室を出た瞬間に、二人の動線は分岐する。それが当たり前だった。
「……澪」
「はい」
「家、どっちだ」
「東です。駅の方」
「知ってる」
「知ってるなら聞かないでください」
「……送る」
澪が足を止めた。
「遠回りになりますよ」
「大した距離じゃない」
「嘘です。反対方向でしょう」
「反対でもない。ちょっと遠回りなだけだ」
「ちょっとって、何分ですか」
「……十五分くらい」
「十五分は『ちょっと』じゃないです」
「じゃあ適度な遠回りだ」
澪が黙った。数秒の沈黙。それから、小さく「……お願いします」と言った。
二人で歩き出した。
十一月の夕暮れ。空が赤から紫に変わりかけている。街灯がぽつぽつと点き始める時間帯。
放送室と、外。同じ二人なのに、空気が違う。
放送室では防音壁がある。外の音が入ってこない。だから声が裸のまま相手に届く。小さな声でも、かすれた声でも、全部聞こえる。
外では、車の音。自転車のベル。犬の散歩をしている人の声。帰宅する生徒たちの笑い声。いろんな音が混じる中で、隣を歩く澪の声を拾う。
「風、冷たくなりましたね」
「十一月だからな」
「マフラー、持ってくればよかったです」
「明日から持ってこい」
「はい」
会話が短い。でも途切れない。ぽつ、ぽつ、と途切れそうになりながら、次の言葉が自然に出てくる。放送室の密な会話とは違う。もっと軽くて、もっと曖昧で、でも心地いい。
「陸くん」
「ん」
「帰り道に話すのって、放送室と全然違いますね」
「……分かるか」
「放送室は密閉されてるから、声が二人の間だけに閉じこめられる感じがするんです。でも外だと、声が空気に溶けていく」
「声が空気に溶ける、か。いい表現だな」
「パーソナリティに褒められました」
「パーソナリティとしてじゃなく、普通に」
「……ありがとうございます」
商店街を抜けた。住宅街に入る。道幅が狭くなって、自然と距離が近くなった。
澪の肩が、俺の腕に触れた。触れて、離れて、また触れた。歩くリズムのせいだ。
「……あの」
「ん」
「秋祭りのとき、手を掴んでくれましたよね」
「……ああ」
「あのとき、すごく心臓が速くなって。家に帰ってからもずっと、手首を押さえてました」
「……見てた」
「え。見てたんですか」
「花火のとき。右手首を左手で押さえてただろ」
「……見ないでください」
「見えたんだから仕方ない」
澪が俯いた。暗い住宅街だから表情は見えない。でも、声のトーンが上がっている。恥ずかしいときの声だ。半音高くて、少し速い。
住宅街の角を曲がった。澪の家が近いのだろう、足のテンポが少しだけ落ちた。
「あの日から、帰り道がさみしかったんです」
「……さみしい?」
「校門を出ると反対方向に歩くでしょう。それが、あの日からすごくさみしくて。一緒に帰れたらいいのに、って」
「……俺もだ」
「本当ですか」
「校門を出て西に曲がるとき、毎回振り返りそうになってた」
「振り返ってくれたら、よかったのに」
「振り返ったら、追いかけてたかもしれない」
澪が足を止めた。
信号のない交差点。街灯の光がぼんやりと二人を照らしている。
「……ここです」
「ここ?」
「この角を曲がると、家があります」
近い。校門から十五分くらい。俺の家への遠回りを入れると、帰宅は三十分遅くなる。でも、その三十分を惜しいとは思わない。
「ありがとうございます。送ってくれて」
「ああ」
「明日も、送ってくれますか」
「……毎日来る」
「毎日は遠回りが大変じゃないですか」
「大変じゃない」
嘘だ。大変だ。でも大変でも来る。
澪が笑った。街灯の光の中で、小さく。
「……じゃあ、また明日」
「ああ。また明日」
澪が背中を向けた。数歩歩いて、立ち止まった。振り返った。
「陸くん」
「ん」
「手」
「……手?」
「繋いで、もらっても、いいですか」
声が小さかった。途切れ途切れだった。暗い住宅街の中で、街灯だけが照らしている。澪の表情は影になっていてよく見えない。でも、差し出された手は見えた。
白い手。細い指。金曜日に放送室で繋いだ手。
手を伸ばした。
指が触れた。冷たい。十一月の夜の空気で冷えている。
握った。今度は手首じゃない。手のひら。指を絡めて、しっかりと。
澪の指が俺の指の間に入ってくる。冷たかった手が、少しずつ温かくなっていく。
脈拍が指先を通じて伝わってくる。速い。俺のも速い。秋祭りの夜と同じだ。どちらの鼓動か、区別がつかない。
「……冷たいな」
「すみません。手、冷え性で」
「謝るな。温める」
「……はい」
繋いだ手をそのまま、ポケットに入れた。俺のコートの右ポケット。二人の手が収まるにはぎりぎりの大きさだ。
澪が一歩近づいた。腕が触れる距離。肩が並ぶ距離。
「……陸くん」
「ん」
「放送は、変わらず続けましょう」
「当たり前だ。ラジオは俺たちの原点だ」
「はい。放課後のふたりごとは、これからも」
「ああ」
繋いだ手を離した。名残惜しかった。澪の手の温度が、指の間からゆっくりと抜けていく。
「おやすみ、澪」
「おやすみなさい、陸くん」
澪が角を曲がって、見えなくなった。
一人になった帰り道。西に向かって歩く。十五分の遠回り。
右手がまだ温かかった。ポケットの中に、澪の手の温度が残っている。
空を見上げた。十一月の夜空。星はあまり見えない。街の灯りが明るすぎるからだ。
半年前、放送室のドアを開けたとき、俺はただの居場所が欲しかっただけだった。静かで、人がいなくて、誰にも邪魔されない場所。
そこに音羽澪がいた。
紙をめくる音が二つになった。沈黙に厚みが生まれた。声を交わすようになった。放送を始めた。リスナーが増えた。名前で呼び合った。手を繋いだ。
帰り道が変わった。
西ではなく東に。一人ではなく二人で。そして今、遠回りの道を一人で歩いている。十五分余計にかかる。でも、この十五分が惜しくない。
明日もまた、放送室のドアを開ける。いつもの椅子に座って、いつもの放送をして、いつもの読書をする。
そして放送後に「お疲れさま、澪」と言って、校門を出て、東に曲がって、帰り道を一緒に歩く。
手を繋いで。
放課後のふたりごとは、まだ続く。
帰り道が変わった。放送室は変わらない。手を繋いだ温度だけが、ポケットの中に残っている。




