名前の呼び方
放送中は「真白くん」と「音羽」。放送後は「陸くん」と「澪」。たった二文字の切り替えが、こんなに難しい。
火曜日。放課後。
放送室に入ると、音羽澪が……澪が、マイクの前でメモ帳を広げていた。
「こんにちは、陸くん」
「……こんにちは」
挨拶を返す。名前は言わなかった。なぜかというと、教室から放送室まで歩いてくる間に「澪」と声に出す練習を三回して、三回とも途中で咳払いに変えたからだ。
椅子に座る。今日は放送日だ。通常回。テーマは「最近嬉しかったこと」。
放送の打ち合わせをする。お便りの順番を確認する。選曲のタイミングを詰める。
「一通目のお便りのあと、どう繋ぎますか」
「いつも通りでいい。音羽が感想を言って、俺がテーマに戻す」
「……音羽」
澪が俺を見た。
「あ」
しまった。
「……澪」
「……はい」
澪の耳が赤くなった。俺の耳も熱い。
「今、音羽って言いましたよね」
「……言ってない」
「言いました」
「……癖だ。半年間音羽って呼んでたんだから、すぐには」
「分かってます。でも」
澪が少しだけ唇を尖らせた。この表情は初めて見る。不満、というほどではない。もっと柔らかい。拗ねている、に近い。
「……直します」
「お願いします」
放送が始まった。
マイクのスイッチを入れる。赤いランプが点灯する。
「放課後のふたりごと、始まります。パーソナリティの真白陸と」
「音羽澪です」
ここは今まで通りだ。放送中はパーソナリティとしての名前。苗字呼び。リスナーに聴かせる声。
お便りを読む。「最近嬉しかったこと」。一通目のリスナーは、飼い猫が自分の膝にだけ乗ってくるようになった、という内容だった。
「いいですね。選ばれている感覚って、嬉しいですよね」
澪がマイクに向かって言った。声が穏やかだ。放送の声。俺と二人のときの声とは少し違う。もう少し開かれた声。
「猫は気まぐれだからな。膝を選んでくれるのは信頼の証だ」
「真白くんは猫派ですか」
「どちらかというと猫派だな」
「分かります。猫っぽいですもんね」
「……それはどういう意味だ」
「気まぐれなところが」
「俺は気まぐれじゃない」
「そうですか?」
リスナーには軽い掛け合いに聞こえているだろう。いつもの二人。いつものテンポ。
でも俺は、「真白くん」と呼ばれるたびに胸の奥がざわついていた。放送中は「真白くん」。それは正しい。パーソナリティとしての距離感だ。
ただ、金曜日に「陸くん」と呼ばれた声を知ってしまった今、「真白くん」が少し遠い。
二通目を読む。三通目。曲を流す。トークを挟む。
放送が終わった。マイクのスイッチを切る。赤いランプが消える。
「お疲れさまです、陸くん」
スイッチが切れた瞬間に、名前が変わった。
……ずるい。
「お疲れさま、澪」
今度はちゃんと言えた。放送のスイッチを切ったら、名前も切り替わる。パーソナリティとしての「音羽」から、俺だけの「澪」に。
「あの」
「ん」
「放送中の呼び方、どうしましょう」
澪が真面目な顔で言った。メモ帳を開いている。この人は、こういうことをちゃんと話し合おうとする。
「リスナーさんの前では、今まで通りがいいと思います」
「俺もそう思う。パーソナリティとしての関係は変えない」
「でも」
「でも?」
「放送後は……名前で呼びたいです」
澪が俯いた。耳が赤い。声が小さくなっている。
「……呼んでくれ」
「はい」
「俺も、放送後は澪って呼ぶ」
「……はい」
メモ帳にペンを走らせている。何を書いているんだ。覗き込んだ。
「放送中→真白くん/音羽」「放送後→陸くん/澪」。
律儀すぎる。
「メモするようなことか」
「大事なことです。間違えたらリスナーさんにバレます」
「……確かに」
「バレたくないわけじゃないですけど。放送は放送として、ちゃんとしたいんです」
「ああ。同感だ」
放送は俺たちの原点だ。放課後のふたりごとは、二人の関係が変わる前から存在していた。リスナーがいて、お便りがあって、選曲があって、掛け合いがある。それを私情で崩すのは、リスナーにもラジオにも不誠実だ。
「ただ」
「ただ?」
「放送中に澪って言いそうになったら、咳払いで誤魔化す」
「それ、誤魔化せてないと思います」
「……善処する」
澪が笑った。声を抑えた笑い。肩が揺れている。
「……何がおかしい」
「陸くん、普段すごく冷静なのに、こういうところだけ不器用ですよね」
「こういうところ、とは」
「……気持ちのこと」
返す言葉がない。否定できない。
本を開いた。読書タイム。いつもの時間。
五分くらい読んだとき、隣から小さな声が聞こえた。
「……陸くん」
「ん」
「呼んだだけです」
「……何だそれ」
「練習です。慣れたいので」
名前を呼ぶ練習。メモ帳に書くだけじゃなくて、声に出して慣れようとしている。
「……俺も」
「え」
「澪」
「……はい」
「呼んだだけだ」
澪が本で顔を隠した。ページの上端から覗いている目が、笑っている。耳は相変わらず赤い。
馬鹿みたいだ。名前を呼び合うだけで、こんなに胸が熱くなる。
帰り際。ドアの前で。
「お疲れさまです、陸くん」
「お疲れさま、澪」
放送後の挨拶。これが、二人の新しい区切り。マイクが切れて、パーソナリティの顔を外して、名前で呼び合う瞬間。
たった二文字の違いだ。「音羽」から「澪」。「真白くん」から「陸くん」。
たった二文字で、世界の温度が変わる。
名前を呼ぶだけ。それだけなのに、何度練習しても心臓が追いつかない。




