変わったこと、変わらないこと
付き合い始めた翌週の月曜日。放送室のドアを開ける手が、少しだけ震えていた。
土曜日と日曜日が、異常に長かった。
何をしていても音羽澪の……いや、澪の顔が浮かぶ。手の温度が思い出される。「陸くん」と呼ばれた声が耳の中で再生される。
日曜の夜、LINEが来た。
『明日、少し早く放送室に行ってもいいですか』
『何分でも早く来い』
送信してから、返事が即答すぎたことに気づいた。三十秒くらい待ってから返した方が自然だったのでは。いや、今さらだ。
『分かりました。楽しみにしてます』
楽しみにしてます。画面の文字を五回読み返した。何やってるんだ俺は。
月曜日。
教室に入る。澪の席が視界に入った瞬間、心臓が跳ねた。
澪はもう座っていた。本を読んでいる。俺に気づいて、顔を上げた。
目が合った。
澪の唇が動いた。声にならない「おはようございます」。いつもと同じ。でも、口の形が少し違う。いつもより大きく唇が動いている。伝えようとする力が、少しだけ強くなっている。
俺も頷いた。いつもと同じ。
教室では、何も変わっていなかった。
「おはよ」
橘夏希が背後から声をかけてきた。声のトーンが既に全てを知っている人間のそれだ。
「……おはよう」
「金曜日、LINE来なかったんだけど」
「……忘れてた」
「嘘でしょ。絶対それどころじゃなかっただけでしょ」
「……否定しない」
夏希がにやりと笑った。そして小声で言った。
「で、どうだった」
「……付き合うことになった」
「知ってる」
「知ってるなら聞くな」
「本人の口から聞きたかったの。おめでとう」
夏希がそれだけ言って、自分の席に戻った。
一日が過ぎていく。授業を受けて、昼を食べて、また授業を受けて。教室では澪と言葉を交わさない。いつも通りだ。でも、意識の端で常に澪の存在を感じている。
六時間目が終わった。
放課後。
廊下を歩く。二階の端。放送室の前。
ドアノブに手をかける。金曜日と同じように掌が汗ばんでいる。でも理由が違う。あのときは緊張だった。今は。
何だ、これは。緊張とは違う。もっと甘い。もっと落ち着かない。
ドアを開けた。
澪がいた。
いつもの席。いつもの姿勢。本を開いている。
金曜日までと、何が違うんだ。同じ光景だ。同じ部屋で、同じ席で、同じ人が本を読んでいる。
でも、顔を上げた澪の表情が違った。
「……こんにちは、陸くん」
声に出した。教室では口の形だけだった挨拶が、放送室のドアを開けた瞬間に声になった。
変わったこと。名前。
「……こんにちは」
澪、と言おうとして、喉で止まった。
「……澪」
声にするのにまだ一拍かかる。慣れていない。十七年間「音羽」と呼んでいたものを変えるのは、思った以上に難しい。
澪の耳が赤くなった。金曜日と同じ赤さ。
「座って、いいですか」
「自分の席だろ」
「……そうですね」
椅子に座った。いつもの距離。肘が触れない程度の間隔。
変わらないこと。距離。
放送の準備を始めた。来週のテーマを決める。お便りを整理する。選曲リストを確認する。
「三曲目、この曲はどうですか」
「いいな。間奏が長いから、トークの切り替えに使える」
「そう思って選びました」
変わらないこと。放送への向き合い方。
お便りを読んでいく。「公開放送の感想」が相変わらず多い。一つ一つ丁寧に目を通す。澪が横で分類している。取り上げるもの、保留、不採用の三つに分ける。いつもの作業。
「この手紙、字がきれいですね」
「一年生の子だな。直接持ってきてくれた」
「……直接」
「金曜に放送室の前で待ってた」
澪が手紙を手に取って、もう一度読んだ。表情が柔らかくなっている。
変わらないこと。澪のお便りへの丁寧さ。
構成を組み終わった。来週の放送の骨格ができた。
澪が本を開いた。俺も本を開いた。放送後の読書タイム。
変わらないこと。二人で黙って本を読む時間。
ページをめくる音が二つ。秒針。夕日。半年前の最初の日と同じ音。
でも、ときどき本から目を上げると、澪と目が合う。金曜日までは、目が合うとどちらかがすぐに逸らしていた。今日は、少しだけ長く見つめてから、どちらからともなく視線を戻す。
変わったこと。目を逸らさなくなった。
「……陸くん」
「ん」
「今日の放送室、いつもと同じですね」
「ああ。同じだ」
「……よかった」
澪が微笑んだ。
「変わったらどうしようって、少し怖かったんです。付き合い始めたら、放送室の空気が違うものになるんじゃないかって」
「……俺もだ。少しだけ」
「でも、同じでした」
「ああ。同じだ」
本を閉じる時間になった。窓の外が暗くなり始めている。
立ち上がる。鞄を持つ。
「お疲れさま、澪」
変わったこと。「お疲れさま」のあとの名前。
「お疲れさまです、陸くん」
澪がドアの前で立ち止まった。金曜日の夜のように、暗くなった放送室で振り返った。
「また明日」
「ああ。また明日」
変わらないこと。明日もここに来ること。
廊下に出た。ドアを閉めた。
変わったことと変わらないことが、同じくらいの量で存在している。名前が変わった。目の合わせ方が変わった。挨拶に声が乗った。
でも放送室の空気は変わらない。二人で本を読む時間は変わらない。お便りへの姿勢は変わらない。
変わったものは全部嬉しくて、変わらないものは全部安心する。
両方あるから、大丈夫だと思えた。
変わったこと。名前の呼び方。変わらないこと。放送室の空気。どちらも、同じくらい大切だ。




