ふたりごと
音羽澪の唇が動いた。
「好きです」
小さな声だった。防音壁に囲まれた部屋でなければ、消えていたかもしれない声。
「真白くんのことが、好きです」
心臓が止まった。比喩じゃなく、一拍抜けた。そのあと、堰を切ったように脈が速くなった。耳の奥で血流の音が聞こえる。
音羽の声が続く。
「声が好き、と言ったとき」
一年生の頃。放送室の外で、音羽が俺に初めて自分の気持ちを見せた瞬間。「真白くんの声が好きです」。あの一言から始まった。
「本当は、声だけじゃありませんでした」
音羽が膝の上の手を握った。指の関節が白くなるくらい、強く。
「声が好きで、横顔が好きで、選曲を真剣に考えるところが好きで、お便りを丁寧に読むところが好きで、不器用なのに優しいところが好きで」
一つ一つの言葉が、放送室の壁に吸い込まれていく。防音壁は外に音を漏らさない。でも中の音は全部残す。音羽の声が、この六畳の空間に積もっていく。
「本を読む横顔が好きです。コーヒーの匂いが好きです。放送中に少しだけ笑うところが好きです。私が震えているとき、何も言わずに隣にいてくれるところが好きです」
音羽の目からまた涙がこぼれた。でも今度は拭わなかった。涙を流したまま、真っ直ぐに俺を見ている。
「全部、好きです」
放送室が静かになった。
秒針の音。夕日の残り。防音壁。二脚の椅子。
全部、半年前と同じだ。同じ部屋で、同じ席で、同じ時間帯で。でも、この部屋で交わされた言葉は、半年間のどの瞬間とも違う。
「……音羽」
「はい」
「いつからだ」
「……分かりません。気づいたときには、もう真白くんの声を聴くだけで心臓が変になっていました」
「それは俺の台詞だ」
「え」
「俺も、音羽の声を聴くと胸が苦しくなる。鼻歌を聴いただけで足が止まる。笑い声を聴くと息が詰まる。いつからかは、もう分からない」
音羽が息を飲んだ。小さく、でもはっきりと。
「じゃあ、ずっと」
「ずっとだ。自覚したのは九月だけど、たぶんもっと前からだった」
「……私も」
音羽が俯いた。涙の粒が膝に落ちた。
「……泣くな」
「泣いてません」
「泣いてるだろ」
「嬉しいんです。嬉しいと泣くんです。知ってるでしょう」
知っている。公開放送の後もそうだった。音羽は嬉しいと泣く。
俺は手を伸ばした。考えるより先に手が動いた。秋祭りの夜、人混みで音羽の手首を掴んだときと同じだ。反射。身体が先に答えを出す。
音羽の手に触れた。
膝の上で握りしめていた手。指の関節が白くなるほど力が入っていたその手を、上から覆うように手を置いた。
音羽の手が震えていた。冷たかった。緊張で血が引いている。
握った。強くは握らない。ただ、ここにいる、という程度の力で。
音羽の指が少しずつ開いた。俺の指が、その隙間に入っていく。
手が繋がった。
音羽の手が温かくなっていく。体温が伝わる。脈拍が指先を通じて伝わってくる。速い。俺のも速い。どちらがどちらの鼓動か、もう区別がつかない。
秋祭りのとき、手首を掴んだだけで心臓が壊れるかと思った。今はそのときの何倍も近い。指と指が絡んでいる。骨の形が分かるくらい近い。
音羽の呼吸が少しずつ落ち着いていく。指の震えが止まる。体温が伝わって、冷たかった手が温かくなっていく。
「……名前」
「え」
「名前で呼んでいいか」
音羽が顔を上げた。涙の跡が頬に光っている。目が潤んでいる。でも、目の奥は笑っている。
「……はい」
「澪」
初めて呼んだ。下の名前。今までどれだけ頭の中で転がしても、声にはできなかった二文字。
音羽の……澪の耳が赤くなった。頬から耳にかけて、一気に色が変わった。
「……陸、くん」
かすれた声だった。「陸」と「くん」の間に、一拍の躊躇があった。
その一拍が、胸に響いた。
「……もう一回」
「え」
「もう一回、呼んでくれ」
「……陸くん」
今度は躊躇が少し短かった。でもまだ耳は赤い。声も震えている。
俺の耳も熱い。顔全体が熱い。十七歳の二人がこの程度のことで顔を真っ赤にしているのは、客観的に見れば滑稽だろう。でも滑稽でいい。今この瞬間は、俺と澪だけのものだ。
「放課後のふたりごと」
俺が言った。
「え」
「番組名。俺たちの。最初は適当につけたんだ。放課後に二人で話すだけの番組だから、ふたりごとでいいだろって」
「……はい。覚えてます」
「でも今は、意味が変わった」
繋いだ手に力を込めた。ほんの少しだけ。
「ふたりごとは、ラジオの名前だ。でもそれだけじゃない。俺と澪の、二人の話だ。二人だけの言葉だ。ここから始まって、ここで続いていく」
澪が唇を噛んだ。また泣きそうな顔だ。
「……ずるいです」
「何が」
「そういうこと言うの、ずるいです。また泣きます」
「泣けばいい。防音壁の中だ。外には聞こえない」
澪が笑った。泣きながら。声が震えて、鼻声で、でもその笑い声が、放送室に響いた。
防音壁が全部受け止めた。外には漏らさない。この笑い声は、俺だけのものだ。
窓の外が暗くなっていく。夕日が沈んで、部屋が薄暗くなる。壁掛け時計の秒針が変わらず刻んでいる。
手は繋いだまま。
指を絡めた手のひらの温度が、少しずつ同じになっていく。
「……帰らないと」
「……もう少しだけ」
澪がそう言った。小さな声。放送室の声。俺にだけ聴かせる声。
「もう少しだけ、このままでいたいです」
「……ああ」
もう少しだけ。
秒針が刻む時間の中で、繋いだ手の温度だけが、確かだった。




