俺自身の言葉で
金曜日。
朝から心臓がうるさかった。
教室に入る。いつもの席。音羽澪はまだ来ていない。窓際の席が空いている。
橘夏希が横を通り過ぎるとき、小さく拳を握って見せた。「頑張れ」のジェスチャー。俺は目だけで頷いた。
音羽が教室に入ってきた。白い肌。肩の下まで伸びた黒い髪。いつも通りの静かな足取り。俺の席の横を通り過ぎるとき、唇が小さく動いた。声にはならない「おはようございます」。
俺も小さく頷いた。
今日の放課後に、この人に告白する。
その事実が胸の中にあるだけで、一日の全てが変わった。授業の内容が頭に入らない。ノートを取る手が止まる。数学の時間に先生に当てられて、答えられなかった。隣の席の奴が笑っていた。
昼休み。弁当を開けたが、味がしない。三回目だこの症状。
「顔色悪いぞ」
瀬戸颯太が弁当を持って隣に座ってきた。
「……平気だ」
「嘘つけ。朝からずっとそわそわしてんじゃん」
「……してない」
「してるって。ペン回し三回落としてたぞ」
数えていたのか。
瀬戸が卵焼きを口に放り込んで、小声で言った。
「今日か」
「……何がだ」
「とぼけんな。顔に書いてあるわ」
俺の顔はそんなに読みやすいのか。音羽に声を読まれ、夏希に表情を読まれ、瀬戸に顔色を読まれる。防御力ゼロだ。
「頑張れよ」
瀬戸がそれだけ言って、自分の席に戻っていった。背中に余計な感情はなかった。真っ直ぐな背中だった。
午後の授業が永遠に感じた。時計の針が動かない。五分が一時間に引き伸ばされている。
六時間目の終わりのチャイムが鳴った。
教室を出る。廊下を歩く。二階の端。特別教室が並ぶ一角。放課後は人通りがほとんどない。
放送室の前に立った。
ドアノブに手をかける。掌が汗ばんでいる。
引き戸をずらした。
音羽がいた。
いつもの席。ミキサー卓の前。窓からの夕日を受けて、横顔が橙色に縁取られている。膝の上に本を開いている。半年前と同じ光景。でも、今は全く違う意味を持っている。
「あ。真白くん」
「ああ」
椅子に座った。いつもの距離。肘が触れない程度の間隔。
放送の準備をした。今週の通常回。テーマは「最近嬉しかったこと」。お便りを読んで、選曲して、三十分の放送を流した。
いつも通りだった。マイクの前では声が安定する。パーソナリティとしての真白陸は、私情を挟まない。音羽との掛け合いもいつも通りだった。
でも音羽が笑うたびに、心臓が跳ねた。音羽の声が柔らかくなるたびに、指先が震えた。リスナーには分からない。マイクは声しか拾わない。でも、隣に座っている音羽には気づかれているかもしれない。
放送が終わった。
機材の電源を落とす。マイクをスタンドに戻す。お便りを片づける。
いつもの作業。いつもの手順。いつもの放課後。
音羽が本を開いた。放送後の読書タイム。二人で黙って本を読む時間。半年間続けてきた、二人だけの時間。
俺も本を手に取った。
ページを開いた。文字が全く読めなかった。
窓の外の夕日が低くなっている。ミキサー卓の上の影が伸びている。秒針が刻んでいる。一秒、二秒、三秒。
本を閉じた。
音が鳴った。本の表紙がぱたんと閉じる音。防音壁に囲まれた部屋では、小さな音も消えない。
音羽が顔を上げた。
「音羽」
「……はい」
声が出た。自分の声だ。低くて、少しかすれていて、緊張で半音上がっている。音羽にはバレているだろう。全部。
「ラジオの話でも、放送の話でもない」
音羽の目が少し大きくなった。本を持つ手が止まっている。
「俺自身の言葉で、伝えたいことがある」
音羽が本を閉じた。静かに。膝の上に置いて、こちらを向いた。
暗褐色の目が、俺を見ている。夕日の光が瞳の中で揺れている。
防音壁。秒針。夕日。六畳の部屋。椅子が二脚。マイクが二本。半年間、この場所で声を出してきた。ここで出会って、ここで話して、ここで近づいて、ここで好きになった。
この場所以外に、伝える場所はない。
「好きだ、音羽」
声が震えた。技術も何もない。パーソナリティとしての安定感もない。ただの十七歳の男の、震える声。
「声も、笑い方も、選曲のセンスも、メモ帳の字も、クッキーも、震える手も、全部」
音羽が動かなかった。目を見開いたまま、俺を見ている。唇が薄く開いている。何かを言おうとして、声が出ていない。
「技術的な意味じゃない。分析でもない。パーソナリティとしてでもない」
胸が痛い。心臓がうるさい。掌が汗でべとべとだ。
「ただの俺が、お前のことが好きだ」
沈黙が落ちた。
防音壁が外の音を全部遮断している。この部屋には俺の声と、音羽の呼吸と、壁掛け時計の秒針しかない。
一秒。
二秒。
三秒。
窓の外で夕日が沈みかけている。橙色の光が細くなって、ミキサー卓の端に線を引いている。
音羽の目から涙がこぼれた。
声を出さずに、ただ涙が頬を伝っていく。二日前にステージ袖で見た涙とは違う。あのときは嬉しさと安堵の涙だった。今は。
今の涙が何なのか、俺には分からない。
「……音羽」
「待って、ください」
かすれた声だった。声が震えている。感情が声の制御を超えている。
「少しだけ、待ってください」
音羽が両手で顔を覆った。肩が震えている。
俺は待った。
秒針が十を数え、二十を数え、三十を数えた。
音羽が手を下ろした。
涙の跡が頬に残っている。でも目は真っ直ぐに俺を見ていた。蓋をしていない目。壁のない目。放送室でだけ見せる、本当の音羽澪の目。
唇が開いた。




