好きな人が、います
水曜日の放課後。放送室で翌週の構成を組んでいるとき、音羽澪のスマートフォンが鳴った。
音羽が画面を見て、少し固まった。
「……どうした」
「瀬戸くんから、です」
「瀬戸?」
「話があるから教室に来てほしい、って」
俺の手が止まった。
瀬戸が音羽を呼び出す。話がある。放課後に。教室に。
嫌な予感、ではない。予感ではなく、確信に近かった。瀬戸の音羽に対する態度をずっと見てきた。あの距離感は、ただの友人のそれじゃない。気づいていた。認めたくなかっただけだ。
「……行ってこい」
「いいんですか? 構成の続き」
「俺一人でできる。大した量じゃない」
音羽が立ち上がって、鞄を持った。ドアの前で一瞬だけ振り返ったが、何も言わずに出ていった。
一人の放送室。静かだ。秒針の音だけが聞こえる。
音羽の椅子が空いている。あの日と同じだ。音羽が風邪で休んだ日、一人で座っていた放送室。あのときは一日だけだった。今は、戻ってくるまでの時間が分からない。
構成表の画面を見つめる。文字が頭に入らない。
考えるな。瀬戸が何を言うかは瀬戸の自由だ。音羽がどう答えるかは音羽の自由だ。俺がどうこうする話じゃない。
俺がどうこうする話じゃない、のに。
椅子の肘掛けを握る手に力が入っている。
十五分が経った。二十分。三十分。
時計の秒針が嫌に大きく聞こえる。防音壁のせいだ。外の音が入ってこないから、室内の小さな音が全部拾える。
椅子が軋んだ。自分が貧乏ゆすりをしていることに気づいて、止めた。
四十分。
ドアが開いた。
音羽が戻ってきた。
表情を読もうとした。泣いた跡はない。怒りもない。困惑もない。どちらかというと、静かな顔だった。何かを整理した後の、落ち着いた顔。
「……戻ったか」
「はい」
音羽が椅子に座った。鞄を膝の上に置いて、しばらく黙っていた。
「……瀬戸くんに、告白されました」
分かっていた。分かっていたのに、心臓が一拍飛んだ。
「……そうか」
「好きだ、って。夏頃からずっと言いたかったって」
瀬戸。あの真っ直ぐな男。サッカー部で鍛えた根性で、ちゃんと自分の気持ちを伝えた。逃げずに、正面から。
俺にはできなかったことを、瀬戸はやった。
俺は窓の外を見た。夕日が低い。秋の日没は早い。音羽が教室を出てから四十分。その間、俺はこの椅子から一歩も動けなかった。
「……で、どう答えた」
声が平坦だった。感情を乗せないように意識した。成功しているかは分からない。音羽には声で全部バレる。
「断りました」
呼吸が止まった。
「好きな人がいます、と言いました」
放送室の空気が変わった。防音壁に囲まれた六畳の空間に、音羽の声だけが残っている。
好きな人がいます。
誰だ。
聞けない。聞けるわけがない。聞いたら、答えを知ってしまう。知ったら、「分からないことにしてる」が崩壊する。
「瀬戸くんは、笑ってました」
「……笑ってた?」
「分かってた、って。背中を押したかっただけだ、って」
瀬戸らしい。最後まで真っ直ぐだ。フラれてもなお、笑って相手の背中を押す。俺にはできない潔さだ。
「嫌な顔は、しませんでした。怒りも、悲しみも、声に乗ってなかったです。ただ少し、声が低くなってました」
音羽は声で感情を読む。瀬戸が無理をしていたことも、聴き取っている。
「瀬戸くんは、いい人です」
「……ああ。いいやつだ」
「だから、ちゃんと断りたかったんです。曖昧にしたくなかった」
「……そうだな」
沈黙が落ちた。窓の外の夕日が長い影を作っている。ミキサー卓の上に橙色の線が伸びて、音羽の指先をかすめている。
好きな人がいます。
その言葉が頭の中で何度も反響していた。防音壁に吸い込まれるはずの音が、壁の代わりに俺の脳の内側で跳ね返り続けている。
音羽の声のトーンを思い出す。「好きな人がいます」と言ったときの声。平坦ではなかった。蓋をした声でもなかった。静かだけど、芯があった。自分で選んだ言葉を、自分の意志で口にしている声。
聞くな。聞かなくていい。音羽がそれを俺に伝えたのは、報告だ。パーソナリティ同士の信頼関係として、隠し事をしたくなかっただけだ。
そうだ。そういうことにしておけ。
「……構成、ほとんど終わった。確認してくれ」
「はい」
画面を見せた。音羽が構成表を確認している。いつもの作業。いつもの距離。
でも俺の心臓はいつも通りじゃなかった。「好きな人がいます」の六文字が、秒針より大きな音で胸の中を叩いていた。
帰り際、玄関を出たところで瀬戸が待っていた。
俺を、だ。
瀬戸は校門の柱にもたれて、スマートフォンを触っていた。俺に気づいて顔を上げた。
「よう」
「……待ってたのか」
「ちょっとな」
瀬戸が柱から背中を離した。いつもの笑顔、ではなかった。笑ってはいるが、目の奥の温度が違う。
「フラれたわ」
あっさりと言った。
「……聞いた」
「音羽さんから?」
「ああ」
「そっか。ちゃんと報告してくれたんだな。律儀だわ、あの人」
瀬戸が空を見上げた。十一月の夕暮れ。赤と紫の境目が滲んでいる。
「好きな人がいるって言われた」
「……」
「まあ、分かってたんだけどさ」
瀬戸が俺の方を向いた。さっきとは違う目。真っ直ぐに、俺を見ている。
「真白。ちょっと話そうぜ」




