放送室の外側
学園祭明けの月曜日。
教室に入った瞬間、空気が違うことに気づいた。
俺に向けられる視線が増えている。普段はほとんど存在を認識されない真白陸が、今日は教室の入口で何人かと目が合った。
「あ、真白くんだ」
前の席の女子が振り返って言った。名前を覚えられているのがまず驚きだ。
「昨日の公開放送、すごかったね」
「……ありがとう」
「音羽さんが泣きそうになったとき、真白くんが何か言ったでしょ。あれ何て言ったの?」
「……放送の話だ」
「えー、教えてよ」
「放送のことは放送室で」
我ながら意味不明な返しだった。女子が首を傾げている間に席に着いた。
橘夏希が横から顔を出した。
「人気者じゃん」
「うるさい」
「昨日のスタンディングオベーション見た? 体育館の後ろの方まで立ってたぞ」
「……見てない。音羽の方しか見てなかった」
「今の発言、本人の前で言えよ」
「……言ってない。今のは事実の報告だ」
「はいはい」
昼休み前に、瀬戸颯太が俺の席に来た。
「なあ真白。うちのクラスの奴ら、みんな公開放送の話してるぞ」
「そうらしいな」
「音羽さん人気爆発だわ。『あの静かな転校生がすごかった』って」
瀬戸が楽しそうに言った。嫉妬の色はない。この男はそういう人間だ。
午後の授業中、窓の外を見ながら考えていた。
放送室は、俺と音羽澪の場所だった。防音壁に守られた、二人だけの空間。そこで声を出して、そこで本音を話して、そこで少しずつ近づいた。
公開放送は、その放送室を体育館に持ち出したようなものだった。二人だけの場所が、全校生徒の前に開かれた。
それは音羽が望んだことだ。「怖いまま声を出す」と決めたのは音羽自身だ。
でも。
放課後。教室を出て、廊下を歩く。放送室に向かう、いつもの道。
二階の廊下の角を曲がったとき、放送室の前に人がいた。
女子が二人。一年生だろうか、制服のリボンの色が違う。放送室のドアの前で、何か話している。
「あの、音羽先輩いますか」
俺に気づいて聞いてきた。先輩。一年生だ。
「まだ来てないと思うけど」
「あの、昨日の放送聴いて、感動して。お便り直接渡したくて」
手紙を持っていた。便箋が二通。
「放送室のポストに入れておけば、次の放送で読むと思う」
「本当ですか。ありがとうございます」
一年生たちが嬉しそうに去っていった。
ドアを開けた。音羽はまだいない。
椅子に座って、待った。
五分後、ドアが開いた。音羽が入ってきた。頬が少し赤い。
「遅くなりました」
「何かあったのか」
「……教室で、話しかけられました」
「誰に」
「隣の席の子です。今まで一度も話したことなかったんですけど、昨日の放送のことを」
音羽が椅子に座った。鞄を膝の上に置いて、少し息を整えている。
「びっくりしました。教室で、私に話しかける人がいるなんて」
「スタンディングオベーションだったからな。話題にならない方がおかしい」
「それは、そうなんですけど」
音羽が窓の方を見た。夕日がミキサー卓を照らしている。いつもの光景。
「嬉しかったです。教室で声をかけてもらえるのが」
「……そうか」
「でも」
音羽が俺の方を向いた。
「少しだけ、寂しかったです」
「寂しい?」
「ここが、二人だけの場所じゃなくなるみたいで」
俺の胸の中にあったものと同じだった。昨日からずっと、言葉にできなかった感覚。嬉しいのに寂しい。音羽が認められるのは良いことなのに、放送室の特別さが薄まるような気がする。
「……なくならないだろ」
「え」
「ここは放送室だ。誰が話題にしても、ここで声を出すのは俺たちだ。公開放送は終わったけど、放課後のふたりごとは続く。リスナーが増えても、マイクの前に座るのは二人だ」
音羽が目を瞬かせた。
「……そうですね」
「一年生がお便り持ってきてた。ポストに入れてある」
「一年生が?」
「直接渡したいって。昨日の放送に感動したって言ってた」
音羽がポストから便箋を取り出した。二通。丁寧な字で書かれた手紙を読んでいる。音羽の目がだんだん潤んでいく。
「……また泣くのか」
「泣きません。泣いてません」
泣いていた。
お便りの整理をした。学園祭後の反響で、いつもの三倍の量が届いている。「音羽さんの話に泣いた」「真白くんの言葉がかっこよかった」「二人の掛け合いが好き」。
全部読んで、次回の放送で取り上げるものを選んだ。
作業が終わる頃には、窓の外が暗くなり始めていた。
「真白くん」
「ん」
「放送室の外でも、少しずつ話せるようになりたいです」
「……教室で?」
「はい。今日、隣の席の子と話して思いました。怖いけど、声は出せます。ここで練習したから」
「ここで練習、ね」
「技術的な意味で」
音羽が少しだけ笑った。「技術的な意味で」は俺の口癖だ。真似されている。
「でも」
音羽が立ち上がって、鞄を持った。ドアの前で振り返った。
「帰ってくる場所は、ここがいいです」
「……ああ。俺もだ」
音羽が小さく微笑んで、出ていった。
一人の放送室。お便りの束がテーブルの上に積まれている。いつもの三倍。二人だけの番組を、たくさんの人が聴いてくれている。
嬉しい。素直に嬉しい。
でも、音羽がドアの前で「帰ってくる場所はここがいい」と言ったとき、俺が一番嬉しかったのは、リスナーが増えたことじゃなかった。
音羽がここを選んでくれたこと。それだけだ。




