声が、出た
舞台袖に戻った瞬間、膝から力が抜けた。
壁にもたれる。体育館のざわめきが分厚い幕の向こう側で渦巻いている。拍手がまだ続いている。何百人もの手が叩く音が、ここまで振動として伝わってくる。
隣で、音羽澪が泣いていた。
声を殺すように両手で口を覆って、肩を震わせている。目の縁から涙がこぼれて、顎の先から落ちた。
泣き方すら静かだった。この人はいつも、声を押さえ込む癖がある。
「……音羽」
「はい」
返事は震えていた。鼻声で、かすれていて、でも声は出ていた。
「泣くな。まだ撤収作業が」
「分かってます。分かって、るんですけど」
音羽が手を下ろした。涙で頬が光っている。目が赤い。鼻の先も赤い。それなのに、表情は笑っている。泣きながら笑うというのは矛盾しているようだが、音羽の顔を見ればそれが可能だと分かる。
「止まらないんです」
「……そうか」
俺の目の奥も熱い。喉の奥が締まっている。泣きそうだ。ステージの上では張りつめていたものが、幕の内側に入った途端に溶け出している。
泣くな。泣かない。ここで泣いたら、何かが崩れる。
天井を見上げた。体育館の天井は高い。鉄骨の梁が交差している。照明の残光が目に沁みる。
さっきまで、あそこにいた。あのステージの上で、音羽の隣で、マイクの前にいた。音羽が固まったとき、全身の血が逆流した。「目を閉じろ」と言った自分の声が、自分のものとは思えなかった。
でも音羽は目を閉じた。そして、声を出した。
あの瞬間の音羽の声を、たぶん一生忘れない。震えていて、でも芯があって、聴く人間の胸を掴む声だった。
足音が近づいてきた。
「二人とも!」
橘夏希が走ってきた。息を切らしている。観客席から裏に回ってきたのだろう。
「すごかった。マジですごかった。音羽さん、泣いてるの?」
「す、すみません」
「泣くでしょあんなの。私も泣いたわ」
夏希の目も赤かった。嘘じゃなかった。
後ろから桐谷先生が歩いてきた。いつもの穏やかな表情。でも目が潤んでいた。
「二人とも。立派だったわ」
先生は多くを語らなかった。ただ頷いて、音羽の肩に手を置いた。音羽がまた泣いた。
最後に瀬戸颯太が来た。
「音羽さん。あんた格好よかったぞ」
瀬戸の声が真っ直ぐだった。普段の軽い調子ではない。本気で言っている声だ。
「怖いまま声を出すって、言ったろ。あれ聞いて鳥肌立ったわ」
音羽が泣き笑いの顔で「ありがとうございます」と答えた。かすれた声だった。でも、ちゃんと届く声だった。
撤収作業を五人で片づけた。マイクのケーブルを巻き、モニターを外し、台本を回収する。音羽はまだときどき目を拭いていたが、手は動いていた。
桐谷先生が「写真撮りましょう」と言って、五人をまとめた。舞台袖の壁を背に並ぶ。音羽が俺の隣に立った。目が腫れている。鼻が赤い。それでも笑っていた。
シャッター音が鳴った。
夏希と瀬戸が先に帰った。夏希は帰り際に俺の肩を叩いて「あんたもすごかったよ」とだけ言った。瀬戸は音羽に「また放送聴くわ」と手を振った。
桐谷先生が機材の最終確認をして「あとは任せるわね」と言い残して去った。
放送室のドアを開けた。
二人きりになった。
いつもの椅子。いつものミキサー卓。窓からの夕日が、いつもと同じ角度で差し込んでいる。体育館のステージとは違う。ここには防音壁がある。秒針の音がある。二脚の椅子がある。
音羽が自分の椅子に座った。俺も座った。
沈黙。
でも、空っぽの沈黙じゃなかった。密度がある。お互いの呼吸と、心臓の音と、まだ冷めきらない興奮が、防音壁の中に満ちている。
音羽が口を開いた。
「声が、出ました」
小さな声だった。泣いた後のかすれた声。でも、震えていなかった。
「ああ。出たな」
「怖かったです」
「知ってる」
「足が動かなくなりました」
「見てた」
「目を閉じたら、ここにいる気がしました」
「……」
「真白くんの声が聞こえたから。だから、声が出ました」
窓の外で鴉が鳴いた。遠い音。防音壁越しの、輪郭だけの音。
俺は何も言えなかった。言葉が見つからなかったんじゃない。言葉が多すぎて、どれを選べばいいか分からなかった。
好きだ、と言いそうになった。
今ここで言ったら、たぶん嘘には聞こえない。音羽の声が震えていた体育館のステージ。あの瞬間の俺の心臓は、パーソナリティとしてではなく、ただの真白陸として鳴っていた。
でも。
今日は、音羽の日だ。音羽がステージに立って、声を出した日だ。俺の感情を上乗せする場面じゃない。
「……よくやった」
それだけ言った。それだけしか言えなかった。
音羽がこちらを見た。夕日を受けた暗褐色の目。涙の跡が頬に残っている。
「ありがとうございます」
静かな声だった。放送室の声だった。俺にだけ聴かせる、蓋を外した、本当の声。
音羽が本を取り出した。俺も本を取り出した。いつもの読書タイム。ページを開いたが、文字は追わなかった。たぶん音羽も読んでいない。でも、この形が必要だった。いつもの放課後の形。
半年間で作り上げた、この距離と、この沈黙と、この空気。ステージの上の非日常から、放送室の日常に戻るための儀式。
窓の外が暗くなるまで、二人とも動かなかった。




