ここは放送室だ
十一秒目。
真白陸はマイクから口を離した。
椅子の上で身体の向きを変えた。正面の客席ではなく、隣の音羽澪に向かって。
音羽の横顔が見える。口が半開きのまま固まっている。目が見開かれている。涙が一筋、左の頬を伝っている。手がマイクスタンドの上で震えている。
体育館のざわめきが大きくなっている。「大丈夫かな」「誰か助けて」「先生——」。八百人の囁きが一つの音になって、ステージに押し寄せてくる。
俺は声を出した。
マイクを通さない声。
音羽にだけ聞こえる声。
「目を閉じろ、音羽」
音羽の瞳がゆっくりとこちらに動いた。焦点が合っていない。客席の視線に射すくめられたまま、意識が半分飛んでいる。
もう一度。
「目を閉じろ」
舞台袖で言ったのと同じ言葉。同じトーン。低く、静かに。音羽の耳にだけ届く音量で。
音羽の瞼が震えた。開いたまま固まっていた目が、ゆっくりと閉じ始める。睫毛が下りていく。涙がもう一筋、右の頬を伝った。
閉じた。
音羽の目が閉じた。
客席が消える。八百の視線が消える。照明の眩しさが消える。音羽の世界が暗闇になる。
「ここは放送室だ」
声を落として囁いた。嘘だ。ここは体育館だ。八百人が見ている。マイクが二本あって、スピーカーが音を拡散している。
「防音の壁がある。外の音は聞こえない」
嘘だ。防音壁はない。客席のざわめきが聞こえている。
「聴いてるのは俺だけだ」
嘘だ。八百人が聴いている。
でも。
音羽が目を閉じている。目を閉じた音羽の耳に入るのは、マイクを通さない俺の声だけだ。客席のざわめきよりも近い距離から発せられる、俺の生の声だけが、音羽の鼓膜を叩いている。
嘘じゃない。
今この瞬間、音羽が聴いているのは本当に俺の声だけだ。
「深呼吸しろ。ゆっくり」
音羽が息を吸った。震えている。浅い。
「もっとゆっくり。腹で吸え」
もう一度。今度は少し深い。
吐いた。長く。
もう一度。吸って、吐いて。
三回目で呼吸のリズムが整った。肩の上下が小さくなった。
体育館のざわめきが止まっていた。
いつ止まったのか分からない。俺が音羽に声をかけている間に、八百人が黙った。ステージの上で何かが起きていることに、客席の全員が気づいている。二人のやり取りを——マイクが拾っていない、本来聞こえないはずのやり取りを——息を詰めて見守っている。
「声を出してみろ。小さくていい。俺にだけ聞こえればいい」
音羽の唇が動いた。
「……」
音が出なかった。唇が動いただけ。
「もう一回」
「……こわ」
途切れた。
「もう一回」
「……怖い、です」
声が出た。
かすれていた。ほとんど息に近い声。でも声だった。言葉だった。
「怖いか」
「……はい。怖い、です。今も」
音羽の目は閉じたままだ。涙が頬を濡らしている。唇が震えている。
「でも」
音羽の声が変わった。
かすれたまま。震えたまま。でもその奥に、芯が一本通った。
「怖いまま声を出すことは、できます」
その声が——マイクが拾った。
音羽の口元に近いマイクが、その言葉を拾って、スピーカーに送って、体育館に流した。
「怖いまま声を出すことは、できます」
八百人の空間に、音羽の声が響いた。かすれて、震えて、涙に濡れた声が。体育館の天井まで昇って、壁に反射して、客席の隅々まで届いた。
沈黙。
八百人の沈黙。
でも、さっきまでの沈黙とは違う。
さっきの沈黙は、何かが壊れかけている沈黙だった。声が出なくなった人間を前にした、困惑と不安の沈黙。
今の沈黙は、聴き入っている沈黙だ。
音羽が目を開けた。
ゆっくりと。恐る恐る。
客席を見た。
八百の顔が、音羽を見ている。さっきと同じだ。でも、視線の質が違う。
最前列。橘夏希が唇を噛んでいた。隣の瀬戸颯太が目を擦っている。
中列。女子生徒が一人、目頭を押さえていた。その隣の男子生徒が、前のめりになってステージを見つめていた。
後列。泣いている生徒がいた。一人じゃない。何人も。
音羽が客席を見渡した。ゆっくりと。怯えながら。でも目を逸らさずに。
俺はマイクの前に戻った。身体の向きを客席に戻す。
「……今のが、この番組の相方です」
自分の声が体育館に響いた。
「怖くても声を出す人です。声が止まっても、また声を出す人です」
台本にない言葉だった。でも、今言わなければならない言葉だった。
「俺は半年間、この声を隣で聴いてきました。たぶん、これからも聴いていきます」
音羽がこちらを見た。目が赤い。涙の跡がステージの照明に光っている。口元が開いている。何かを言いたくて、でも声にならなくて。
俺はマイクに向き直った。
「放課後のふたりごと。聴いてくれて、ありがとうございました」
最後の曲が流れた。BGMがスピーカーから体育館に広がる。柔らかいピアノの旋律。
その音が消える前に。
拍手が起きた。
最初は一人。最前列の夏希だった。両手を打ち合わせている。その隣の瀬戸が続いた。
二人の拍手が三人になり、十人になり、三十人になり、百人になり。
体育館を揺るがす拍手が響いた。
八百人の手のひらが一つの音を作っている。壁が震える。天井が震える。ステージの床が振動する。足の裏から拍手の音が昇ってくる。
音羽が椅子の上で、両手を膝に置いたまま、その音を聴いていた。
泣いていた。
もう堪えていなかった。涙が頬を伝って、顎先から落ちて、膝の上の手の甲に落ちた。
でも笑っていた。
三十人の前で泣いたときと同じだ。涙を流しながら笑っている。でも、あのときよりも笑っている。目が細くなって、頬が上がって、口元がほころんで。泣いているのに、笑っている。
拍手が続いている。止まらない。
音羽が立ち上がった。椅子から立って、マイクの前に立って、客席に向かって頭を下げた。
「ありがとう、ございました」
かすれた声。マイクが拾って、体育館に流した。泣き声混じりの「ありがとうございました」が、拍手の中に溶けていった。
俺も立ち上がった。音羽の隣に立った。
客席に頭を下げた。
頭を下げながら、横を見た。
音羽がいる。泣いて、笑って、震えながら立っている。さっきまで声が出なかった人が、今、八百人の前に立っている。
半年前。放送室で初めて会ったとき、音羽は椅子の上で本を読んでいた。俺が入っても顔を上げなかった。声を出すことが怖かった。人に聴かれることが怖かった。
今、音羽は体育館のステージで八百人の拍手を浴びている。
守りたいんじゃない。
この人の隣にいたい。
その思いが、拍手の音と一緒に、身体中を震わせていた。




