沈黙
放送は順調に進んでいた。
オープニングの五分間。真白陸がリードした。番組の紹介、自己紹介、今日の流れ。いつもの放送室でやっていることを、体育館のステージで再現する。
音羽澪は隣にいた。椅子に座って、マイクの前で。
「……こんにちは。音羽澪です」
最初の一言は細かった。マイクが拾って、スピーカーが体育館に流しても、その細さは隠せなかった。八百人の空間に、細い声が糸のように伸びた。
でも、途切れなかった。
お便り紹介に入った。一通目。俺が読んだ。
「『いつも聴いてます。二人の声が好きです。公開放送楽しみにしてました』。ありがたいな」
「……はい。嬉しいです」
音羽が応えた。声がまだ細い。でも先ほどよりも一段太くなった。
二通目。音羽が読む番。手元の紙を持った。震えていない。いや、微かに震えている。でも止まらなかった。リハーサルの四秒を、音羽は繰り返さなかった。
「『放課後のふたりごとを聴くと、昼休みが短く感じます。毎週木曜日が待ち遠しいです』」
読み切った。客席から、小さな拍手が起きた。誰かが反応している。
「木曜日が待ち遠しいって。俺たちの放送が一週間のモチベーションになってるのか」
「すごいですね。……責任重大です」
「まあ、肩の力は抜いていこう」
「真白くんに言われると説得力があります」
「俺、そんなに力抜けてるか」
「いつもです」
客席から笑い声。音羽の切り返しに反応した笑い。
音羽の肩が微かに緩んだのが見えた。笑い声は敵意ではない。楽しんでいる音。
三通目のお便りを俺が読んだ。BGMが静かに流れている。音響は問題ない。桐谷先生がステージ脇で音量を調整してくれている。
ここまでで二十分。折り返し。
フリートークの時間に入った。
台本はない。いつも通り、その場で話す。
「学園祭、楽しんでますか。皆さん」
俺がマイクに向かって問いかけた。客席から「はーい」という声がまばらに返ってくる。体育館に声が響く。
「うちのクラスの喫茶店、もう行った人いるか」
「……二年C組です。ホットチョコレートがおすすめです」
音羽が宣伝した。客席から笑い。
「クッキーは焦げてないのか」
「……焦げてません。本番は成功しました」
「よかった。練習では焦げたって聞いたけど」
「それは言わないでください」
また笑い。
体育館の空気が柔らかくなっている。八百人が聴いている。でもその八百人が、敵ではなく聴衆として、二人の声を受け取っている。
音羽の声がだんだん太くなっていった。三十人のリハーサルのときと同じ変化。最初は細く、途中から安定する。放送室の音羽に近づいていく。
フリートークが続く。
雑談。軽い話題。学園祭の出し物の話。最近読んだ本の話。音楽の話。
いつもの「放課後のふたりごと」だった。場所が違うだけで、やっていることは放送室と同じ。マイクの前で、二人で声を出す。
残り十分。
空気が変わったのは、音羽がマイクに向き直ったときだった。
「あの」
音羽の声が変わった。トーンが下がった。フリートークの軽いテンションとは別の声。何かを決めた声。
俺は横目で音羽を見た。台本にない動きだ。
「少しだけ、自分の話をしてもいいですか」
客席が静かになった。声の変化を感じ取ったのだろう。八百人の空気が、一斉に聴く方に傾いた。
「私は、中学のとき——」
音羽が話し始めた。
台本にない話。打ち合わせにない話。音羽が自分の判断で、今、この瞬間に選んだ話。
「合唱コンクールで、独唱のパートがありました。私がソロで歌う予定でした」
声が平坦だった。感情を押し込めている声。でも、平坦なまま止まらない。
「本番の日。ステージに立ちました。ピアノの伴奏が始まりました。口を開きました」
体育館が静まり返っている。八百人の呼吸が遠くなっている。
「声が、出ませんでした」
音羽の声が細くなった。でも消えなかった。
「何秒だったか分かりません。舞台の上で口を開けたまま、何も出てこなくて。指揮者の先生が伴奏を止めて。会場が——」
音羽の目が上がった。
客席を見た。
その瞬間。
八百の視線が一斉に音羽に集中した。
客席の最前列。中列。後列。体育館の二階席。全ての目が、ステージ上の音羽に注がれている。
中学の体育館と同じだ。
ステージ。照明。客席の目。沈黙。
音羽の声が、止まった。
口が開いたまま固まっている。次の言葉が出てこない。
一秒。
二秒。
三秒。
音羽の手が震え始めた。マイクスタンドを握っている右手が、細かく震えている。目が開いたまま、客席を見つめたまま、動けなくなっている。
合唱コンクールの再現だ。
体育館に、沈黙が広がった。
八百人の沈黙。誰も声を出さない。誰も動かない。ステージの上の音羽を、全員が見つめている。
四秒。
五秒。
音羽の呼吸が浅くなっている。肩が小刻みに上下している。過呼吸の一歩手前。
六秒。
体育館の隅で、誰かが咳払いをした。小さな音。でもこの沈黙の中では、その音が銃声のように響いた。
七秒。
音羽の目に、涙が浮かんだ。
声が出ない。中学のあの日と同じ。体育館のステージで、口を開けたまま、何も出てこない。
八秒。
客席がざわつき始めた。小さな囁き。「大丈夫?」「止まった?」「どうしたの」。ざわめきがステージに届く。
九秒。
音羽の手がマイクスタンドから離れかけた。指が白い。力が抜けていく。立ち上がって逃げようとしているのか。それとも、身体が動かなくなっているのか。
十秒。
俺は——




