開演
学園祭当日。十一月の第四土曜日。
朝から空は晴れていた。風はない。気温は低いが、日差しがある。学園祭日和、というやつだろう。
真白陸は十時に体育館に着いた。ステージの上にはすでに音響機材が搬入されている。ミキサー卓。スピーカー二台。マイクスタンド二本。椅子が二脚。
放送室の配置を、そのまま広い場所に展開した形。でも規模が違う。放送室は六畳。体育館は——広い。天井が高い。ステージから客席の最後列まで、三十メートル以上ある。
桐谷先生が音響の調整をしていた。
「あ、真白くん。マイクチェックお願い」
「はい」
ステージに上がった。マイクの前に立つ。スイッチを入れる。
「テスト。テスト」
自分の声が体育館に響いた。スピーカーから返ってくる音。壁に反射して、天井に昇って、全方位から自分の声が戻ってくる。
放送室では起きない現象だ。防音壁は声を吸収する。体育館の壁は声を跳ね返す。声がどこまでも広がっていく感覚。
客席を見た。今は無人。パイプ椅子が整然と並んでいる。八百脚。一脚ずつに人が座る。八百の目が、このステージに向く。
胃の奥が締まった。
「音響、問題ないわ。声の通りがいいわね」
先生が親指を立てた。
「開演は一時からよ。お昼の後の枠。二時間あるから準備して」
「はい」
ステージを降りた。体育館の入り口に向かう。
音羽澪がいた。
入り口の外、廊下の壁に背中を預けて立っている。制服の上にカーディガンを羽織っている。手が自分の肘を抱いている。
顔が青白かった。
「音羽」
「……おはようございます」
声が薄い。挨拶の音量じゃなかった。
「マイクチェック終わった。音響は問題ない」
「……はい」
「体育館に入って確認するか」
「……後で。もう少し、ここにいたいです」
入れないのだ。体育館に。
無人の客席でもまだ入れない。八百脚のパイプ椅子が並んでいるのを見るだけで、身体が固まる。
「分かった。じゃあ台本の最終確認をしよう。ここで」
「……はい」
廊下で台本を開いた。壁にもたれて並んで立つ。学園祭の喧騒が廊下の向こうから聞こえてくる。焼きそばの匂い。音楽。歓声。
台本の内容は頭に入っている。確認するまでもない。でも、何かをしていた方がいい。手を動かしていた方が、頭が余計なことを考えずに済む。
十二時。昼食の時間。
橘夏希が弁当を持ってきてくれた。
「食え。空腹だとパフォーマンス落ちるぞ」
「……ありがとう」
音羽と二人で、廊下の隅でおにぎりを食べた。音羽は一個だけ。半分以上残した。
「食えないか」
「……喉を通らなくて」
「無理しなくていい。水だけは飲め」
「はい」
十二時半。体育館の客席に人が入り始めた。遠くから、ざわめきが聞こえてくる。
十二時四十五分。
先生が呼びに来た。
「そろそろ舞台袖に入って。十分前にはスタンバイ」
「はい」
立ち上がった。音羽も立つ。足が重そうだった。
体育館の裏口から入る。舞台袖。暗い。ステージの照明が横から漏れてくる。幕の向こう側から、ざわめきが聞こえる。八百人のざわめき。
音羽が固まった。
足が止まっている。舞台袖の暗闘の中で、棒立ちになっている。顔が青白い。唇の色がない。手が身体の横で硬直している。
「音羽」
返事がなかった。
目が開いたまま、どこも見ていなかった。焦点が合っていない。体育館のざわめきを聴いて、身体が凍りついている。
合唱コンクール。
中学の体育館。ステージ。同じざわめき。同じ視線の圧。
フラッシュバックが来ている。
俺は音羽の前に立った。音羽の視界を塞いだ。幕の隙間から漏れるステージの光も、客席の気配も、俺の身体で遮った。
「音羽。目を閉じろ」
声を低くした。マイクを通さない声。音羽にだけ届く距離の声。
音羽の目がゆっくりと動いた。焦点が俺に合う。
「目を閉じろ」
もう一度言った。
音羽の瞼が下りた。ゆっくりと。睫毛が頬に影を作った。
「聴こえるか。俺の声」
「……聴こえます」
かすれた声。ほとんど息だけ。でも返事が返ってきた。
「ここは放送室だ」
嘘だ。ここは体育館の舞台袖だ。幕の向こうに八百人がいる。
「防音の壁がある。外の音は聴こえない。聴いてるのは俺だけだ」
嘘だ。防音壁はない。ざわめきが聞こえている。
でも音羽は目を閉じている。目を閉じていれば、耳に入る声を選べる。
「深呼吸しろ」
音羽が息を吸った。震える吸気。吐いた。吐くときの方が長い。
もう一度。
三回目。呼吸のリズムが整った。
「声を出してみろ。小さくていい」
「……こんにちは」
小さかった。でも声が出た。
「もう一回」
「こんにちは」
少しだけ太くなった。
「目を開けろ。俺だけ見ろ」
音羽が目を開けた。俺の顔を見ている。暗い舞台袖の中で、俺の目だけを見ている。
「いくぞ」
「……はい」
「いつもと同じだ。マイクの前に座って、声を出す。それだけだ」
「……それだけ」
「それだけだ」
音羽が頷いた。まだ顔は青白い。でも目に光が戻っていた。
幕が上がる合図のブザーが鳴った。
先生がステージに出て、マイクの前に立った。
「皆さん、学園祭のプログラム、次は放送部による公開放送『放課後のふたりごと』です。どうぞお楽しみください」
拍手。八百人の拍手。体育館が揺れるような音。
俺は一歩踏み出した。舞台袖からステージへ。
振り返った。
音羽が立っている。舞台袖の暗がりの中に。ステージの光が足元まで届いている。
右手で拳を作った。
昨日と同じ。グータッチの形。
音羽が見た。その拳を。
小さな拳が上がった。
コツン。
昨日と同じ音。骨と骨が触れる音。舞台袖の闇の中で、二人だけに聴こえた音。
俺はステージに出た。照明が眩しい。客席が——見えた。八百人。顔。目。体育館を埋め尽くす人。
息が詰まった。一瞬だけ。すぐに戻した。
マイクの前の椅子に座った。
横を見た。
音羽がステージに出てきた。一歩。二歩。照明の中に入る。青白い顔に光が当たる。
八百人が音羽を見ている。ざわめきが一瞬止まった。
音羽がマイクの前の椅子に座った。俺の隣。いつもの距離。
手が震えている。でも座った。逃げなかった。
俺はマイクに向かった。
「放課後のふたりごと、始めます」
声が体育館に響いた。スピーカーが声を八百人に届ける。
隣で、音羽が息を吸った。




