学園祭前夜
眠れない。
時計は二十三時を回っている。ベッドの上に仰向けで転がって、天井を見ている。天井の染みが暗闇の中でぼんやり浮かんでいる。
真白陸は何度目かの寝返りを打った。右向き。左向き。仰向け。うつ伏せ。どの姿勢でも眠れない。
明日の台本が頭の中で回っている。オープニングの第一声。「放課後のふたりごと、始めます」。いつも放送室で言っている言葉。でも明日はそれを体育館のステージで言う。八百人の前で。
台本は枕元にある。もう三回確認した。四回目を開く意味はない。頭に入っている。流れも、タイムテーブルも、選曲も。
問題は台本じゃない。
音羽だ。
今日の放課後、音羽の手が震えていた。グータッチの後に少し落ち着いたけど、あの震えが明日のステージ上で再発しない保証はない。三十人の前では途中から安定した。でも八百人は桁が違う。
体育館。ステージ。照明。マイク。客席。八百の視線。
中学の合唱コンクール。音羽が沈黙した場所。体育館のステージは音羽にとって、トラウマの現場そのものだ。
寝返りを打った。五回目。
スマートフォンが光った。
枕元の画面が白く光って、通知を表示している。LINE。
送信者の名前を見て、心臓が跳ねた。
音羽澪。
『眠れません』
三文字。時刻は二十三時十二分。
向こうも眠れないのか。当然と言えば当然だ。明日は音羽にとって、人生を賭けた挑戦だ。
指が画面の上を滑った。
『俺も』
送信。既読。即座に既読がついた。向こうもスマートフォンを握りしめているらしい。
返信。
『明日、大丈夫ですかね』
大丈夫かと聞かれた。正直に答えるなら、分からない。八百人の前で音羽の声が出る保証はどこにもない。リハーサルで段階を踏んできたが、三十人と八百人の間には超えられない壁があるかもしれない。
でも。
『大丈夫だ。放送室と同じだ』
送った。嘘ではない。放送室でやることと本質は同じだ。マイクの前に座って、声を出す。それだけ。
既読。間。
『放送室は防音ですけど、体育館は』
音羽の不安が文字に滲んでいる。防音壁。放送室の安全装置。外の音が入ってこない。中の声が守られる。体育館にはそれがない。
返事を考えた。三秒。五秒。
指が動いた。
『目を閉じればいい。俺の声だけ聴いてろ』
送信してから、自分が何を打ったのか理解した。
俺の声だけ聴いてろ。
……告白みたいだ。
既読がついた。返信が来ない。十秒。二十秒。三十秒。
長い。何か変なことを言っただろうか。いや、変なことを言った。自覚はある。でも送り直すわけにもいかない。
一分。
返信。
『……はい』
三点リーダの後に「はい」。それだけ。
音羽の声が聞こえるようだった。文字の向こうに、小さな声が。少しかすれた、感情を押し込めている声が。
もう一通。
『真白くんの声だけ、聴きます』
心臓がうるさい。ベッドの上で仰向けになったまま、スマートフォンを顔の上に掲げている。画面の光が目に痛い。
返事を打とうとして、やめた。打ち直した。またやめた。
結局、短い言葉を打った。
『おやすみ』
送信。
既読。
『おやすみなさい』
それで、やり取りは終わった。
スマートフォンを枕元に置いた。画面が暗くなる。部屋が闇に戻る。
天井を見ている。さっきと同じ天井。同じ染み。でも、胸の中の感覚が変わっている。
音羽も眠れない。音羽も同じ夜を過ごしている。同じ明日を前にして、同じ不安を抱えて、同じようにベッドの上で寝返りを打っている。
その事実が、不思議と落ち着きを与えた。
一人じゃない。明日も。今夜も。
目を閉じた。まだ眠くはない。でもさっきよりは少し、身体の力が抜けている。
「俺の声だけ聴いてろ」と打った。音羽は「聴きます」と返した。
明日、本当にそうなる。八百人の体育館で、音羽が聴くのは俺の声だけ。そして俺が聴くのは、音羽の声だけ。
いつもの放送室と同じだ。
マイクが二本。椅子が二脚。聴いてるのは互いだけ。
壁があろうがなかろうが、変わらない。
そう思いたかった。
そう信じたかった。
目を閉じたまま、ゆっくりと呼吸を整えた。明日の第一声を頭の中で練習する。「放課後のふたりごと、始めます」。いつもの声。いつものトーン。
音羽がそれを聴いて、声を出す。「こんにちは」と。細くても、震えていても。声を出す。
大丈夫。
根拠はない。でも、大丈夫だと思える。半年間、隣で声を聴いてきた。音羽の声は強い。折れそうに見えて、折れない。細く見えて、芯がある。
その声を、明日も聴く。
眠りが来たのは、日付が変わる少し前だった。最後に見た画面は、音羽の「おやすみなさい」の文字。暗闇の中で、その五文字だけが残像のように瞼の裏に浮かんでいた。




