俺がいる
学園祭前日。
放課後の校舎は浮き足立っていた。廊下のあちこちに模造紙と段ボールが積まれている。ペンキの匂い。笑い声。誰かが校舎の端から「青い絵の具どこー!」と叫んでいる。文化祭前日の空気は、いつもの学校とは別物だった。
真白陸は放送室に向かっていた。廊下を歩く速度はいつもと変わらない。でも心拍数はいつもより高い。
明日だ。
体育館。全校生徒。八百人。マイク二本。椅子二脚。ステージの上で、「放課後のふたりごと」を。
放送室のドアを開けた。
音羽澪がいた。いつもの席に座っている。机の上に台本が広げてある。
でも、台本を読んではいなかった。
両手が膝の上にある。組まれている。指が白い。
震えている。
「音羽」
「……あ。真白くん」
顔を上げた。笑おうとした。でも口元が引きつっている。無理に笑おうとして失敗した顔。
「打ち合わせ、しよう」
「……はい」
隣に座った。台本を確認する。明日の流れ。四十五分枠。オープニング五分、お便り紹介十五分、フリートーク十五分、エンディング十分。シンプルな構成。放送室でいつもやっていることの拡大版。
「選曲は昨日確認した通り。オープニングとエンディングの曲は体育館の音響と相性がいいやつを選んだ。フリートークのBGMは控えめに流す」
「はい」
「お便りは五通選んであるけど、実際に読むのは三通くらいだと思う。時間配分は当日の空気で調整する」
「はい」
「フリートークは台本なし。いつも通り、その場で話す」
「……はい」
音羽の声が平坦だった。内容が頭に入っているのかどうか、声だけでは判断しづらい。蓋をしているときの声に似ている。でも違う。蓋をするのは感情を隠すとき。今の音羽は、感情がありすぎて処理しきれていない。
「音羽。台本を閉じろ」
「え」
「閉じていい。明日の流れは頭に入ってる。今さら確認することはない」
「でも——」
「確認しても不安は減らない。それは分かってるだろ」
音羽が口を閉じた。台本を閉じた。膝の上に両手が戻る。
震えている。さっきよりも分かりやすく。
「手」
「……はい」
「震えてる」
「……分かってます」
「先週の三十人のときは、途中から止まってた。今はまだ本番の前日で、教室に誰もいないのに震えてる」
「……はい。自分でも、おかしいと思います」
「おかしくない」
「……」
「明日は八百人だ。震えて当然だ。俺だって緊張してる」
音羽が顔を上げた。
「……真白くんも、ですか」
「ああ。心拍数が普段より高い。手も少し冷たい」
右手を開いて見せた。音羽が見つめている。
「……見えません。震えてるようには」
「見えない程度。でも中はざわついてる」
「……」
「音羽と同じだ。規模が違うだけで、同じものを感じてる」
音羽が黙った。俺の手を見ている。そして自分の震える手を見た。
俺は立ち上がった。音羽の正面に立つ。
拳を作った。右手。握って、前に差し出した。音羽の目の高さに。
「……何ですか」
「グータッチ」
「……は?」
「見れば分かるだろ。拳合わせるやつ」
「分かりますけど、急に何——」
「明日の前に。約束だ」
音羽が俺の拳を見ている。目が揺れている。拳の意味を測っているような目。
「本番でも、俺は隣にいる」
言葉が口から出た。考えて選んだ言葉ではなかった。喉の奥から自然に上がってきた声。
「ずっと」
放送室が静かだった。防音壁が外の喧騒を完全に遮断している。学園祭前日の浮ついた空気がここには一切入ってこない。二人の呼吸と、暖房の低い音だけ。
音羽が右手を持ち上げた。震えている。指が一本ずつ折りたたまれていく。小指、薬指、中指、人差し指。最後に親指が拳を包んだ。
小さな拳だった。俺の半分くらい。
その拳が、ゆっくりと前に出てきた。
コツン。
小さな音。骨と骨が触れる、硬くて軽い音。放送室の防音壁の中で、その音だけが鳴った。
音羽の拳が俺の拳に当たっている。体温が伝わってくる。指先は冷たい。でも拳の芯は温かい。
言葉はなかった。
音羽は何も言わなかった。俺も何も言わなかった。
拳を合わせたまま、二秒か三秒。時間の感覚が曖昧になっていた。
音羽が拳を引いた。手を膝に戻す。
震えが止まっていた。
完全にではない。微かにまだ揺れている。でもさっきまでの、見て分かるほどの震えは消えていた。
「……ありがとうございます」
声が変わっていた。平坦でも細くもない。少しかすれている。感情が声の制御を超えかけている。でも壊れてはいない。
「礼はいらない」
「言わせてください」
「……」
「ありがとうございます。明日、頑張ります」
「頑張らなくていい。いつも通りやればいい」
「いつも通りが一番難しいです」
「……それは、そうだな」
音羽が小さく笑った。笑い声が少し震えていた。泣き笑いに近い声。でも涙は出ていない。
台本と機材の最終チェックを済ませた。明日使うSDカードを確認。選曲リストの順番。タイムテーブル。全部、問題ない。
鞄を持って立ち上がる。
「明日は十時に体育館集合。音響のセッティングがある」
「はい」
「朝飯はちゃんと食え。空腹で声を出すと喉に負担がかかる」
「……お母さんみたいなこと言いますね」
「うるさい」
音羽が笑った。今度は震えていなかった。
ドアの前に立った。音羽が先に出る。廊下に出ると、学園祭前日の喧騒が一気に押し寄せてきた。模造紙を運ぶ生徒、ガムテープを探す声、ペンキの匂い。
放送室の中と外で、こんなにも空気が違う。
「音羽」
「はい」
「今日は早く寝ろ」
「……真白くんも」
「ああ」
音羽が小さく手を振って、階段を下りていった。
一人で廊下に立っている。右手の拳を開いた。さっきの「コツン」の感触がまだ残っている。骨と骨が触れた、硬くて軽い感触。
言葉にならない約束。
隣にいる。ずっと。
それは、公開放送のことだけを言ったのか。
……考えるな。今は。
拳を握り直して、廊下を歩き始めた。




