三十人の声
二年C組の教室。放課後。
机が後ろに寄せられて、前方にスペースが作られている。そこにポータブルミキサーとマイク二本。椅子が二脚。即席の放送ブース。
その向こうに、三十の顔。
クラスメイト全員。自分たちのクラス。毎日顔を合わせている三十人が、椅子に座ってこちらを見ている。
真白陸はマイクの前に座りながら、教室の空気を測っていた。放送室とも、先週の第二視聴覚室とも違う。ここには日常がある。毎朝ホームルームをする教室。昼飯を食う教室。授業を受ける教室。その日常の中に、非日常のマイクが二本立っている。
橘夏希が最前列の真ん中にいた。腕を組んで、やけにリラックスした顔をしている。その隣に瀬戸颯太。瀬戸は少し緊張した面持ちだった。聴く側の緊張。
桐谷先生が教室の後ろに立っている。腕を組んで壁に寄りかかっている。見守る側。
教室のドアが開いた。
音羽澪が入ってきた。
三十の視線が音羽に向いた。一斉に。
音羽の足が止まった。一瞬。ほんの一瞬だけ。でも俺にはその一瞬が見えた。
音羽が息を吸った。吐いた。そして歩き始めた。
教室を横切って、マイクの前の椅子に座る。鞄を下ろす。手を膝の上に置く。
手が震えていた。
先週の十人のときよりも大きな震え。膝の上で組んだ指が、細かく揺れている。
「音羽」
小声で呼んだ。マイクが拾わない音量で。
音羽がこちらを見た。目が揺れている。暗褐色の瞳の中で、恐怖が波打っている。
「いつもと同じだ」
「……三十人、います」
「いる。でもマイクは一本だ。声を届ける先は一つだ」
「……」
「マイクだけ見ろ。大丈夫だ」
音羽が目を閉じた。二秒。三秒。目を開けた。
目線がマイクに固定された。
「始めるぞ」
頷き。小さいけれど、確かな頷き。
「昼休みの放送部です。放課後のふたりごと、始まります」
俺の声が教室に広がった。三十人の呼吸が微かに聞こえる。静かだ。クラスメイトたちが聴く姿勢に入っている。
「……こんにちは」
音羽の声。
細かった。先週よりも細い。三十の視線の重さが声にのしかかっている。
でも、出た。
お便りの紹介。一通目を俺が読んだ。音羽が相槌を打つ。声は細いまま。でも途切れない。
二通目。音羽の番。
先週、ここで止まった。十人の前で声が出なくなった。
音羽が紙を持った。手が震えている。でも、紙を目の前まで持ち上げた。
「『放送を聴いて、二人の雰囲気が好きになりました。二人はどうやって仲良くなったんですか?』」
読み切った。声が震えていた。でも止まらなかった。
先週の四秒がなかった。
「どうやって仲良くなったか。難しいな」
「……最初は、同じ部屋にいるだけでした」
「ああ。音羽が本を読んで、俺も本を読んで。それだけの時間が長かった」
「はい。でも、それが心地よかったんです。無理に話さなくていい空間が」
「そのうち、話すようになった」
「はい。……少しずつ」
音羽の声がわずかに太さを取り戻した。自分の記憶を語っているとき、声が安定する。これは放送室で何度も確認したパターンだ。
フリートークに入った。学園祭の話。今度は五対五の配分で話す。先週の七対三ではなく。音羽が自分から話題を出した。
「学園祭の喫茶店、メニューが決まりました」
「何になった」
「紅茶、コーヒー、ホットチョコレート。あと、クッキーを焼きます」
「クッキーも出すのか」
「はい。放課後に試作したんですけど……少し焦げました」
クラスメイトの中から、小さな笑い声が起きた。試作に参加した女子が「少しどころじゃなかったよね」と声を漏らした。
音羽の口元がほころんだ。
「……はい。少しどころじゃなかったです」
笑い声が広がった。三十人の中に、温かい空気が流れた。
音羽の目が変わった。
三十人を見ている。マイクだけを見ろと言ったのに、音羽が顔を上げて、教室を見渡している。
怖いはずだ。三十の視線。中学の合唱コンクールで沈黙した体育館。あの記憶がよぎっていないはずがない。
でも音羽は目を逸らさなかった。三十人の顔を見て、そこに敵意がないことを確認するように、ゆっくりと視線を動かした。
曲紹介。締めの挨拶。
「放課後のふたりごと、また来週」
「……ありがとうございました」
最後の言葉を言い切った。音羽の声が教室に響いた。細いまま。震えたまま。でも、最後まで。
拍手が起きた。
三十人の拍手。教室が揺れるほどじゃない。でも、放送室では絶対に聞こえない音。三十人の手のひらが合わさる音が、窓ガラスに反射して、教室中に満ちた。
音羽がマイクの前で固まっていた。
目に涙が浮かんでいる。
こぼれてはいない。まだ堪えている。唇が震えている。拍手の音を全身で受け止めているように、微動だにしない。
でも、笑っていた。
涙を浮かべながら、笑っていた。唇の端が上がって、頬が少しだけ持ち上がって、目尻が細くなって。泣くのと笑うのを同時にやろうとしている、不器用で、でも美しい顔。
俺は拍手の中で、音羽の横顔を見ていた。
守りたい、とは思わなかった。
守るのは違う。音羽は守られるために声を出したんじゃない。自分で立って、自分で声を出して、自分で三十人の目を見た。
守りたい、じゃない。
この人の隣にいたい。
その思いが、拍手の音に紛れて、胸の奥で静かに確定した。
拍手が止まった。クラスメイトが帰り始める。夏希が通りがかりに親指を立てた。瀬戸が小さく頷いた。桐谷先生が教室の後ろから「お疲れさま」と声をかけて、出て行った。
教室に二人だけ。
音羽が目を擦った。手の甲で。
「……泣いてません」
「泣いてるだろ」
「泣いて、ません」
声が鼻にかかっている。完全に泣いている。
「……拍手、もらえるとは思ってなかったです」
「もらえた」
「三十人。全員が。手を叩いてくれました」
「ああ。聴いてた。全部」
音羽が涙を拭いた。何度目かの「泣いてません」を飲み込んだらしく、口を開けて、閉じた。
「……ありがとうございます」
「何に対してだ」
「全部です」
音羽が立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音。教室の窓から、夕日の最後の光が差し込んでいた。音羽の頬に涙の跡が光っている。
「次は、本番ですね」
「ああ。体育館。全校生徒」
「……怖いです」
「ああ」
「怖いです。でも」
音羽が俺を見た。涙の跡が残る目。でも怯えてはいない。
「三十人の拍手、聴きました。あの音を、もっと大きな場所で聴きたいと思いました」
「……欲が出てきたな」
「はい。……欲が出てきました」
機材を片づけた。教室を元に戻す。机を並べ直す。
廊下に出た。十一月の冷気。吐く息が白い。
音羽が隣を歩いている。足音は軽い。先週の硬さも悔しさもない。三十人の拍手が、足取りを変えていた。
本番まであと一週間。
体育館。全校生徒。八百人。
三十とは桁が違う。でも、今日の音羽の目を見た。涙を浮かべながら笑ったあの顔を。
大丈夫だ、とは言わない。大丈夫かどうかは分からない。
ただ、隣にいる。
それだけは、確かだ。




