十人の壁
放送室を出た。防音壁のない教室で、十の視線の前で、声を出す。その一歩がどれだけ重いか、分かっていたつもりだった。
放送室の外に出る、ということの意味を甘く見ていた。
木曜日の放課後。第二視聴覚室。桐谷先生に借りてもらった教室だ。長机が六つ、椅子が十脚。窓が三つ。天井が高い。蛍光灯の白い光。
放送室と、何もかもが違う。
防音壁がない。窓の向こうから部活の掛け声が聞こえてくる。廊下を歩く足音が扉越しに入ってくる。六畳の密室ではなく、普通の教室。声が壁に反射して返ってくる感覚がない。声が空間に吸い込まれていく。
真白陸は長机の上にポータブルのミキサーとマイクをセットしながら、この違いの大きさを噛みしめていた。
十人が集まっている。先週の五人に加えて、クラスメイトが五人。瀬戸颯太が声をかけてくれた放送のリスナーたち。男子三人、女子二人。全員が椅子に座って、こちらを見ている。
十の視線。
教室の入り口に音羽澪が立っていた。
入れない。
足が止まっている。ドアの枠に手をかけたまま、教室の中を見ている。十人の顔を数えている。
俺は立ち上がって、音羽の方に歩いた。
「音羽」
「……はい」
声が細い。緊張のときの声。普段より速度が速く、音が薄い。
「入れるか」
「……入れます」
音羽が一歩踏み出した。教室の床を上履きが踏む音が、やけに大きく響いた。放送室なら防音壁が音を吸収する。ここでは、全部聞こえる。
椅子に座った。マイクの前。隣には俺。いつもの配置。でも背景が違う。放送室の暗い壁ではなく、白い壁と窓と蛍光灯。
「始めるぞ」
小声で言った。音羽が頷く。
「昼休みの放送部です。放課後のふたりごと、始まります」
声を出した。自分の声が教室に広がる。天井に向かって消えていく。放送室なら壁が跳ね返してくれる声が、ここでは跳ね返らない。
「……こんにちは」
音羽の声。
細かった。放送室の半分くらいの音量。マイクが拾ってスピーカーから出ているが、それでも頼りない。
お便りの紹介。一通目は俺が読んだ。読みながら、音羽の様子を横目で見ていた。
手が膝の上で組まれている。指が白い。握り込んでいる。目線がマイクに固定されている。それはいい。マイクだけ見ろと言った通りにしている。でも、目が揺れている。視線がマイクの上で微かに泳いでいる。
二通目。音羽の番だ。
「えっと——」
紙を持つ手が震えていた。先週よりも大きな震え。文字を目で追うが、声が続かない。
「『最近、お二人の放送を聴いて——』」
途切れた。
音羽の声が止まった。
教室に沈黙が落ちた。
一秒。二秒。三秒。
十人の視線が音羽に集中している。沈黙が重い。放送室の沈黙とは質が違う。放送室の沈黙は二人のものだ。ここの沈黙は十二人のもの。重さが六倍になる。
四秒。
橘夏希が椅子の上で身じろぎした。何か声をかけようとしている。
その前に。
「あー、すまない。ここ、俺が読むわ」
自然に。できるだけ自然に。台本の変更ではなく、もともとそういう段取りだったかのように。音羽の手から紙を受け取った。
「『最近、お二人の放送を聴いて、お昼ご飯の時間が楽しみになりました。お二人はお昼に何を食べてますか?』」
読み上げた。そのまま自分で答える。
「俺は購買のパンが多いな。焼きそばパン率が異常に高い」
軽く。軽い話題で空気を戻す。
「……偏ってますね」
音羽の声が聞こえた。
細い。まだ震えている。でも、戻ってきた。
「音羽は」
「私は……お弁当です。自分で作ってます」
「毎日?」
「はい。……朝が早いですけど」
「どんなおかず入れるんだ」
「卵焼きは必ず。あとは……前の日の残り物とか」
会話が繋がった。音羽の声がゆっくりと太さを取り戻していく。完全ではない。まだ細い。でも途切れなくなった。
フリートークに入った。俺が多めに話す配分にした。七対三。普段なら五対五だが、今日は音羽の負荷を減らす。
音羽はそれに気づいているだろう。でも何も言わなかった。俺の話に相槌を打ち、短いコメントを返す。一言二言。でも確実に。
曲紹介。締め。
「放課後のふたりごと、また来週」
「……ありがとう、ございました」
終わった。
拍手が起きた。十人から。小さな教室に拍手が響く。放送室ではありえない音。
音羽が膝の上で拳を握ったまま、俯いていた。
十人が帰っていく。瀬戸が「お疲れさま」と静かに言った。夏希が俺の肩を叩いて「ナイスカバー」と耳元で囁いた。
教室に二人だけが残った。
「……途中で、止まりました」
音羽が最初に言った。声が低い。悔しさを押し込めている声。
「ああ」
「止まって……頭が真っ白になって。文字が読めなくなって」
「ああ」
「三秒くらい。でも、永遠みたいでした」
「四秒だった」
「……数えてたんですか」
「数えてた。四秒で俺が入った。それ以上は引っ張りたくなかった」
音羽が顔を上げた。目が赤い。泣いてはいない。泣くのを堪えている。
「真白くんが、読んでくれなかったら」
「読んだ。それだけだ」
「……でも」
「音羽。聴けよ」
俺はまっすぐ音羽を見た。
「止まった。でも、戻ってきた」
「……」
「四秒止まって、また声を出した。完璧じゃなかった。でも止まらなかった」
「止まりました。四秒」
「四秒で戻った。それは止まらなかったってことだ」
音羽が目を瞬かせた。
「止まらなかった……」
「最後まで声を出し切った。お便りの二通目は俺が読んだ。でもフリートークは音羽が自分で話した。曲紹介も締めも。全部、音羽の声だ」
「……」
「完璧じゃなくてもいい。止まっても戻れるなら、大丈夫だ」
音羽が唇を噛んだ。数秒。それから、小さく頷いた。
「……次は、三十人ですね」
「ああ」
「三十人の前で、止まらずに」
「止まってもいい。戻ればいい」
「……真白くんは、いつも同じことを言いますね」
「大事なことだから何回でも言う」
音羽が微かに笑った。目尻がまだ赤い。でも笑った。
機材を片づけた。ポータブルミキサーをケースにしまう。マイクを巻く。長机を元の位置に戻す。
教室を出る。廊下を歩く。
「真白くん」
「何だ」
「……四秒、ありがとうございました」
「何のことだ」
「分かってて言ってるでしょう」
「……さあな」
窓の外が暗い。十一月の夕日はもう沈んでいた。
音羽の足音が隣にある。硬くはない。でも軽くもない。悔しさと安堵が混ざった、そういう足音。
十人の壁は、完璧には越えられなかった。でも、壊れなかった。
それでいい。今日は、それでいい。
四秒の沈黙。それは失敗じゃない。四秒で戻ったということは、声を手放さなかったということだ。




