最初の観客
パイプ椅子が一脚、増えていた。それだけで放送室の空気が変わる。たった一人の観客が、ゼロとの違いを教えてくれた。
木曜日。放課後。
放送室のドアを開けると、桐谷先生がすでに中にいた。パイプ椅子を一脚持ち込んで、ミキサー卓から少し離れた位置に座っている。
「早いですね、先生」
「楽しみにしてたのよ。授業中からそわそわしてた」
「先生がそわそわしてどうするんですか」
「だって、初めてでしょう。観客付きの放送」
先生が眼鏡を指で押し上げた。笑っている。
音羽澪はまだ来ていなかった。俺——真白陸は先にミキサー卓の電源を入れて、マイクの位置を確認する。いつもの放送と同じセッティング。違うのは、六畳の空間にパイプ椅子が一脚増えていること。
ドアが開いた。
音羽が立っている。鞄を胸の前で抱えている。その持ち方は、緊張しているときの癖だった。
「……こんにちは」
「いらっしゃい。座って」
先生が手を振った。音羽が入ってくる。靴を脱ぎ替えるような慎重さで、一歩ずつ。
いつもの椅子に座った。鞄を下ろす。その手が少し硬い。
「音羽」
「はい」
「先生一人だぞ」
「……分かってます」
「じゃあ肩の力を抜け。いつも以上に入ってる」
「……自覚はあります」
先生がくすりと笑った。音羽の耳が赤くなる。
マイクの前に座る。二本のマイクが並んでいる。ON AIRのランプは点けない。今日は実際の放送ではない。本番形式のリハーサル。
「じゃあ始めます。先生、普通に聴いていてください」
「はいはい。静かにしてるわ」
台本を手元に置いた。今日の内容は短縮版。挨拶、お便り一通、フリートーク、曲紹介、締め。十分程度。
息を吸った。隣を見る。
音羽がマイクを見つめている。目線がマイクの先端に固定されている。その向こうに先生がいることを意識しているのが分かる。
「音羽」
「……はい」
「先生の方を見るな。マイクだけ見ろ。いつもと同じだ」
「……はい」
音羽が小さく頷いた。目線をマイクに戻す。
「始めます」
俺がマイクに向かって声を出した。
「昼休みの放送部です。放課後のふたりごと、始まります」
いつもの導入。いつものトーン。隣の音羽が反応する。
「……こんにちは」
声が硬い。最初の一音が引っかかった。喉の奥が詰まるような、あの硬さ。
でも、二語目からは流れた。
「今日はお便りを一通、紹介します」
音羽がお便りを読み上げる。事前に用意しておいた、リスナーからのメッセージ。内容は軽いもの。「最近寒くなりましたね、二人はどんな防寒してますか」。
「俺はマフラー一択だな。巻くだけで済む」
「私はカイロです。ポケットに入れておくと、手が冷えたときに」
「音羽、手冷たいもんな」
「……なぜ知ってるんですか」
「前にプリント受け取ったとき、指先が氷みたいだった」
「……覚えてるんですか、そんなこと」
「覚えてる」
さらっと言った。音羽の耳がまた赤くなった。
先生が椅子の上で微かに身じろぎした。視界の端で、口元を手で覆っているのが見えた。笑いを堪えている。
放送は続く。フリートークに入った。
「学園祭の話、しよう」
「……はい」
「準備、進んでるか? クラスの出し物」
「二年C組は喫茶店です。メニューを決める係になりました」
「音羽がメニュー決めるのか。どんなのがある」
「紅茶とコーヒーと、あと……ホットチョコレートを入れたいと思ってます」
「ホットチョコレートはいいな。十一月だし」
「はい。温かいものがいいかなと」
会話が自然に流れている。音羽の声のトーンが変わっていた。最初の硬さが取れている。半音下がって、いつもの柔らかい声になっている。
先生が一人、正面にいる。でも音羽の意識はもうマイクに向いている。俺との会話に集中している。
先生の存在が消えたわけじゃない。でも、放送室の空気がいつものそれに近づいている。二人の声が重なる、あの密度。
「じゃあ最後に、曲紹介」
「今日の一曲は——」
音羽が曲名を読み上げた。声が安定していた。最初から最後まで、途切れなかった。
「放課後のふたりごと、また来週」
「……ありがとうございました」
マイクから口を離した。リハーサル終了。
数秒の沈黙。
先生がパイプ椅子から立ち上がった。
「二人とも」
先生が眼鏡を外して、レンズを拭いた。癖だ。何か感情が動いたとき、先生はいつもそうする。
「ちゃんと届いてたわよ。二人の声」
音羽がこちらを見た。目が少し潤んでいる。でも泣いてはいない。
「……ありがとうございます」
声が小さかった。でも、震えていなかった。
先生が眼鏡をかけ直した。
「音羽さん。最初だけ少し硬かったけど、途中からは全然。いつもの放送を聴いてるみたいだった」
「……そうですか」
「そうよ。私、毎週職員室で聴いてるんだから。イヤホンで聴くより、生の声の方がずっといい」
先生がそう言って、パイプ椅子をたたんだ。
「次は五人ね。頑張って」
「はい」
先生が出て行った。ドアが閉まる。放送室に二人だけが残る。
防音壁の中の、いつもの静けさ。
音羽が大きく息を吐いた。肩の力が一気に抜けるのが分かった。椅子の背もたれに体重を預けて、天井を見上げている。
「……できました」
「ああ」
「先生の前で、話せました」
「できてた。途中からはいつも通りだった」
「……最初、声が出なくなるかと思いました」
「でも出た」
「はい。……出ました」
音羽が天井から視線を戻して、俺を見た。
暗褐色の目。安堵と、小さな達成感。怖かったけどやり切ったという、静かな光。
「真白くんが『先生の方を見るな』って言ってくれたおかげです」
「別に。いつもの放送と同じことをしただけだ」
「それが、助かるんです」
音羽が小さく笑った。その笑い方を見て、胸の奥が温かくなった。
一人の観客。たった一人。でも、ゼロと一の間には無限の距離がある。
音羽はその距離を、今日越えた。
「来週は五人だ」
「……はい」
「同じだ。マイクだけ見ろ。俺の声だけ聴いてろ」
「……それ、ずるいです」
「何がだ」
「毎回それで乗り切れると思われたら困ります」
「乗り切れてるんだから問題ないだろ」
「……」
音羽が口を閉じた。否定しなかった。代わりに、少しだけ顔を俯けた。耳が赤い。
片づけをする。マイクを戻す。ミキサー卓の電源を落とす。パイプ椅子は先生が持って行った。放送室がいつもの姿に戻る。
鞄を持って、ドアの前に立った。
「音羽」
「はい」
「今日の声、よかった」
分析じゃなく。感想として。
音羽がまばたきした。
「……ありがとうございます」
声のトーンが半音上がった。嬉しいときの音。
廊下に出た。窓の外の空が赤い。十一月の夕焼け。
最初の一歩は、踏めた。
先生の「届いてたわよ」が、音羽の肩からひとつ荷物を下ろした。次は五人。もう一段、階段を上る。




