逃げない
職員室のドアの前で、二人で立っていた。音羽が言った「やります」は、誰かに背中を押された声じゃなかった。
十一月の第二週。放課後の廊下は冷えていた。
真白陸は職員室の前で足を止めた。隣に音羽澪がいる。二人並んで、ドアの前に立っている。
音羽の呼吸がわずかに速い。
「大丈夫か」
「……大丈夫です」
声が細い。緊張のときの声だ。普段より半音高く、語尾が短くなる。放送室で何度も聴いた音。
ノックした。返事があって、ドアを開ける。
桐谷先生がデスクの前にいた。赤ペンを持ったまま顔を上げる。
「あら、二人揃って。珍しいわね」
「公開放送の件で相談があります」
「ああ、学園祭の。企画書、出してくれたでしょう。職員会議で通ったわよ。体育館のステージ、四十五分枠」
「はい。それで、リハーサルの計画を組みたくて」
先生がペンを置いた。眼鏡越しに音羽を見る。
「音羽さん。あなたはどう?」
音羽が一瞬だけ俺の方を見た。すぐに視線を先生に戻す。
「……やります」
声が小さかった。でも消えなかった。
「やります。公開放送」
先生が両手を組んだ。音羽をまっすぐ見ている。
「本当に? 無理しなくていいのよ。放送室からの中継でも十分——」
「いえ」
音羽が遮った。珍しいことだった。音羽が人の言葉を遮ることは、半年間でほとんどなかった。
「ステージに立ちます。真白くんと二人で」
先生が黙った。数秒の沈黙。それから、ゆっくり頷いた。
「分かった。全力でサポートするから。機材も場所も、必要なものは言って」
「ありがとうございます」
音羽が頭を下げた。職員室を出る。廊下に戻って、二人で歩き始めた。
音羽の足音がいつもより硬い。上履きが廊下を叩く音の間隔が短い。早足になっている。
「音羽」
「はい」
「少しペースを落とせ」
「……すみません」
音羽が速度を落とした。横顔を見ると、唇が一文字に結ばれている。緊張と決意が入り混じった表情。
「先生に言えたな」
「……はい」
「偉いとは言わない。音羽が自分で決めたことだから」
「……」
音羽が何かを言いかけて、やめた。階段を上る。二階の廊下を西に向かう。放送室への、いつもの道。
ドアを開けた。西日が差し込んでいる。六畳の空間。ミキサー卓。マイクが二本。椅子が二脚。いつもの放送室。
椅子に座った。音羽も座る。いつもの距離。
「リハーサルの話をしよう」
「はい」
俺はノートを開いた。先日ざっくり立てた計画を書き直す。
「まず五人。桐谷先生と橘夏希と瀬戸颯太。プラス二人。放送室の中で、本番形式で話す」
「はい」
「大丈夫だったら十人。教室を借りる。放送室の外で、初めて声を出す」
「……はい」
ペンが止まった。音羽の声が少しだけ揺れた。十人のところで。
「三十人。二年C組の教室でクラスメイトの前で。これが最後のリハーサル。ここを越えたら、本番」
「……」
「音羽。一つ確認する」
「何ですか」
「どの段階でも、無理だと思ったら止める。止めることは逃げじゃない。俺が言ったこと、覚えてるか」
「覚えてます」
「なら、もう一つだけ言っておく」
音羽がこちらを見た。
「逃げなくていいんだぞ」
その言葉は、音羽のためだけじゃなかった。自分自身に向けても言っている。かつて声を上げて失敗した俺が、もう一度声を上げようとしている。
音羽が目を細めた。
「逃げません」
一拍置いて。
「逃げたくないんです」
声のトーンが変わっていた。さっきの職員室で「やります」と言ったときとも違う。あれは決意で蓋をした声だった。今は違う。蓋をしていない。怖さも、決意も、そのまま声に乗っている。
怖い。でも逃げたくない。
その両方が正直に響いている声を聴いて、胸の奥が熱くなった。
「……分かった」
それ以上は言わなかった。音羽の決意に言葉を足す必要はない。
ノートに計画の続きを書く。日程。場所。必要な機材。台本の骨組み。
音羽が隣でそれを覗き込んでいた。肩が触れそうな距離。髪から、微かにシャンプーの匂い。
集中しろ、と自分に言い聞かせた。
「来週の木曜にまず桐谷先生だけのリハーサル。先生一人なら、負荷が少ない」
「はい。先生なら……大丈夫だと思います」
「その翌週に五人。人数を増やすペースは、音羽が決めていい」
「……真白くんが決めてくれた方が、楽です」
「楽な方を選ぶな」
「……」
「自分で決めろ。自分の声のことは、自分が一番分かる」
音羽が黙った。数秒。それから、小さく息を吐いた。
「……五人は、桐谷先生のリハーサルの翌週で。一週間あれば、心の準備ができます」
「分かった。その間隔でいく」
ノートに日付を書き込んだ。十一月の木曜日が四つ並ぶ。最後の木曜日が本番の週。
音羽がその日付を見つめている。
「あと三週間」
「ああ」
「……短い」
「長いよりいい。長いと考えすぎる」
「……それは、真白くんの経験ですか」
「俺の経験だ」
中学のとき。声を上げる前に何日も悩んだ。悩んだ時間の分だけ、失敗したときのダメージが大きかった。
「考える時間が長いほど、失敗が怖くなる。だから短期決戦がいい」
「……なるほど」
音羽が少し笑った。唇の端がわずかに上がる程度。でも声は笑っている。
「真白くん、たまに体育会系みたいなこと言いますね」
「……気のせいだ」
「気のせいじゃないです」
放送室に小さな笑い声が落ちた。
窓の外の空が橙色に染まっている。十一月の夕日は低い。光がミキサー卓の上を横切って、音羽の手元を照らしていた。
その手は、もう震えていなかった。
逃げないと決めたのは音羽だ。俺はただ、その決意が揺れないように隣にいる。それだけでいい。今は。




