踏み出せない理由
風邪から戻った放送室。いつもの席。いつもの距離。でも、互いの目が少しだけ違っていた。
風邪は一日で治った。
正確には、熱が下がっただけで喉にまだ違和感がある。でも学校を二日も休むと放送に穴が空く。音羽澪に一人で回させるわけにはいかない。
教室に入ると、橘夏希が開口一番「顔色悪いぞ」と言った。
「大丈夫だ」
「無理すんなよ。音羽に心配かけるだろ」
「……なぜそこで音羽が出てくる」
「他に誰が出てくるんだよ」
夏希が笑った。秋祭りの夜以来、こいつは遠慮なく俺と音羽の名前をセットで出す。否定する気力がもうない。
放課後。放送室へ向かう。廊下の窓から見える空は鈍い灰色で、十一月の冷気が首筋に触れる。
ドアを開けた。
音羽がいた。ミキサー卓の前の、いつもの席。
「あ」
音羽が振り向いた。
「真白くん。大丈夫ですか」
「ああ。もう平気だ」
「声、少しかすれてますよ」
「……分かるのか」
「分かります」
即答だった。迷いなく。
俺が音羽の声のトーンを聴き分けるように、音羽も俺の声を聴いている。いつからか、互いの声が互いの感情のバロメーターになっていた。
椅子に座る。いつもの距離。肘が触れない程度の間隔。
隣に座った瞬間、何かが違うことに気づいた。
音羽の目だ。
いつもの暗褐色。でも光の入り方が違う。何かを決めたような、でも踏み出せないでいるような。覚悟と躊躇が同時にある目。
放送室で音羽を見てきた半年間で、初めて見る表情だった。
「……どうかしたか」
「いえ。何も」
声が平坦だった。蓋をしているときの声。でも温度は下がっていない。蓋はしているが、中身を殺してはいない。
微妙な違い。俺にしか聴き分けられない違い。
「昨日、一人で選曲リスト組んでくれたんだな」
「はい。途中までですけど」
「助かった。ありがとう」
「……いえ」
音羽が小さく首を振った。そのとき、髪が肩から滑り落ちて、耳が見えた。赤くない。今は恥ずかしいわけではないらしい。
選曲リストを確認する。音羽が選んだ曲の並びを見ていく。起承転結のある構成。聴きやすい流れ。
「いい組み方だな。三曲目から四曲目の繋ぎが自然だ」
「真白くんならそこにトークを挟むかなと思って、間奏が長い曲を入れました」
「……俺の放送スタイルに合わせてくれたのか」
「半年も隣にいれば、分かります」
音羽がこちらを見た。
また、あの目だった。決意と躊躇の同居。何かを言いたくて、でも言えないでいる目。
俺は知っている。その表情を。
鏡で見たことがあるからだ。
好きだと言いたい。でも言えない。俺も、たぶん、音羽も。
たぶん。
いや、「たぶん」じゃない。
この間「分からないことにしてる」と言った。でも、分かっている。音羽の声を聴いていれば分かる。音羽の目を見ていれば分かる。
音羽は、俺の方を向いている。
俺も、音羽の方を向いている。
互いに分かっている。分かっていて、言わない。
俺が言えない理由は明確だ。
この放送室の関係が壊れるのが怖い。半年かけて作り上げた二人の距離感が、「好き」の一言で全部変わる。良い方に変わるとは限らない。公開放送が控えている。音羽が体育館のステージに立つという、人生を賭けた挑戦が目の前にある。その前に余計な感情を持ち込むのは、無責任だ。
音羽が言えない理由は。
……俺の過去を知っているからだ、と思う。
俺は声を上げて失敗した。善意で動いて、状況を悪化させた。片桐に「余計なことをするな」と言われた。
音羽はそれを知っている。放送で聴いた。だから、自分から何かを求めることが、俺にとって重荷になるかもしれないと考えている。
俺が音羽を守ろうとして言えないように、音羽も俺を守ろうとして言えない。
互いを思いやって、互いに踏み出せない。
……馬鹿みたいだ。客観的に見れば、こんなに馬鹿なことはない。
でも、馬鹿みたいに大事なんだ。この距離が。この時間が。この放送室で隣に座っている、この今が。
「来週から、リハーサル本格的に始まるな」
「はい。瀬戸くんが、見学したいって言ってました」
「瀬戸も来るのか。五人のリハーサル、桐谷先生と夏希と瀬戸で三人。あと二人はどうする」
「放送を聴いてくれている後輩が二人、興味があるみたいです」
「じゃあ、五人は揃うな」
「はい」
公開放送に向けて、歯車が動き始めている。五人の前で声を出す。それが最初の一歩。
「音羽」
「はい」
「……体調、気をつけろよ。俺みたいに風邪ひくな」
「それ、自分に言ってください」
「俺はもう治った」
「声がかすれてるのに?」
「……うるさい」
音羽が笑った。柔らかい笑い。声の温度が上がっている。
その笑い声を聴いて、胸が締まる。好きだ。この声が好きだ。この笑い方が好きだ。この人が好きだ。
でも、今は言わない。
公開放送が終わるまで。音羽が体育館のステージで声を出すまで。その挑戦を見届けるまでは、パーソナリティとして隣にいる。それが、今の俺にできる最善だ。
帰り際、音羽がドアの前で立ち止まった。
「真白くん」
「ん」
「……おかえりなさい」
声が小さかった。放送室で使う声よりもずっと小さい。でも、防音壁の中では、どんな小さな声も消えない。
「……ただいま」
音羽が微笑んで、出ていった。
一人の放送室。窓の外は暗い。十一月の夕日は早く沈む。
椅子に座ったまま、天井を見上げた。
互いに好きだと分かっている。互いに言えないと分かっている。互いに、相手のために黙っている。
このすれ違いに、名前をつけるなら。
……優しさ、だろうか。
それとも、臆病さか。
たぶん、両方だ。
鞄を持って立ち上がる。放送室の電気を消す。廊下に出る。
外は冷たかった。吐く息が白い。
でも、胸の奥にある熱は消えない。音羽の「おかえりなさい」が、まだ耳の中で鳴っていた。
好きだから言えない。大事だから踏み出せない。二人の沈黙は、同じ形をしていた。




