空っぽの放送室
真白くんがいない放送室は、同じ部屋なのに別の場所みたいだった。
真白陸が休んだ。
朝、橘夏希くんが教室で「陸、風邪で休みだって」と誰かに話しているのが聞こえた。聞こえたというより、耳が勝手にその名前を拾った。
風邪。たぶん季節の変わり目だ。十一月に入ってから急に冷え込んだ。あの人は薄着が多いから。
……なぜ服装まで覚えているのだろう。
放課後。私──音羽澪は、いつものように放送室に向かった。今日は放送がない日だ。来週の準備をするだけ。一人でもできる作業。
ドアを開ける。
広い。
放送室はいつもと同じ広さのはずだ。ミキサー卓があって、マイクが二本あって、椅子が二脚あって、窓から夕日が差している。何も変わっていない。
でも、広い。
真白くんの椅子が空いている。それだけで、部屋の空気の密度が変わる。
椅子に座った。自分の定位置。隣の椅子には誰もいない。いつもなら文庫本を開いている人が、そこにいない。
静かだ。
放送室はいつも静かだ。防音壁で外の音が遮断されている。でも、二人でいるときの静かさと、一人でいるときの静かさは、全く違うものだった。
二人の静かさには密度がある。ページをめくる音、呼吸の音、椅子の軋み。それが重なって、沈黙に厚みを作っている。
一人の静かさは、ただ空っぽだ。
選曲リストを開いた。先日、真白くんと途中まで組んだもの。画面に曲名が並んでいる。真白くんが「これは十一月後半向き」と言って移動させた曲が、リストの下の方にある。
マウスを動かす。曲を選ぶ。再生ボタンを押す。イヤホンから音楽が流れる。
いつもなら、ここで真白くんが「その曲の間奏が長いから、トークの区切りに使える」とか言う。私が「じゃあ三曲目に入れましょう」と返す。そういうやり取りが、選曲作業の半分を占めている。
一人で聴くと、曲の印象が違う。同じ音楽なのに、隣に誰かがいるかいないかで、聴こえ方が変わる。
二曲目を流した。バラード。声が綺麗な女性シンガーの曲。
真白くんなら「この人の声、音羽と系統が近い」と言うだろうか。前にそういうことを言われたことがある。私が「似てません」と否定して、真白くんが「声の芯の位置が同じだ」と返して、私が何も言えなくなった。声の芯の位置なんて、普通の人は言わない。
真白くんは普通じゃない。声に関しては。
最初から分かっていた。この人は声を聴く人だ。私の声のトーンが変わるのに気づいている。嬉しいとき、怖いとき、蓋をしているとき。全部、聴こえている。
昨日、聞いた。「私の気持ちは」と。
真白くんは「分からないことにしてる」と言った。
あの言葉を、まだ反芻している。
分からないことにしている。つまり、分かろうと思えば分かる。でも、意図的に見ないようにしている。
なぜ。
……分かっている。たぶん、分かってしまったら今の関係が変わるから。この放送室の、二人きりの時間が、別のものになってしまうから。
私だって同じだ。
真白くんの声が好きだ。低くて、素っ気なくて、でも言葉を選ぶときだけ少し間が空く、あの声が。
真白くんの横顔が好きだ。放送中にマイクに向かって話しているときの、まっすぐな視線が。
真白くんの不器用さが好きだ。「嫌じゃなかった」としか言えないくせに、その一言に全部の気持ちを込めるところが。
……声が好き、では収まらなくなっている。
とっくに。
いつからだろう。手を重ねたとき。いや、もっと前。「声、好きだな」と言ってもらったとき。いや、たぶんもっと前。
考えても正確な始点は見つからない。気づいたときには、もう真白くんの声を聴くだけで心拍数が変わるようになっていた。
好きだ。
その言葉が、胸の中で静かに確定した。
でも、言えない。
言ったら、放送室の空気が変わる。パーソナリティ同士の関係が、別のものになる。公開放送の前に、余計な感情を持ち込めない。
それに。
真白くんは、声を上げて人を傷つけた過去がある。自分から何かを言って、状況を悪化させた経験がある。
そんな人に、私から気持ちを伝えるのは。
重荷にならないだろうか。
「好きです」と言われて、応えなければいけないと思わせてしまわないだろうか。真白くんの優しさにつけ込むことにならないだろうか。
考えすぎだと分かっている。でも、考えずにはいられない。
スマートフォンを取り出した。LINEを開く。真白くんとのトーク画面。
指が動いた。
「大丈夫ですか? 無理しないでくださいね」
送信。既読がつかない。寝ているのかもしれない。
十分後。既読がついた。返信。
「寝てた。明日は行く」
たった一行。素っ気ない。いつもの真白くんだ。
安堵した。
たった一行のメッセージに、こんなに安堵している。風邪で寝込んでいるだけなのに、返事が来ただけで胸の力が抜ける。
……もう、取り返しがつかない。
スマートフォンを鞄にしまった。イヤホンを外した。放送室の静寂が戻ってくる。
空っぽの椅子を見た。明日には、あそこに真白くんが座る。文庫本を開いて、「何読んでる」と聞いたら「秘密」と返す。いつもの放課後が戻ってくる。
それだけでいい。それだけで十分だ。
……本当に?
窓の外が暗くなり始めていた。十一月の日没は早い。
鞄を持って立ち上がる。ドアの前で振り返った。
椅子が二脚。マイクが二本。夕日の残りがミキサー卓の上に細い線を引いている。
明日、この部屋に声が戻る。
それを待つ自分の気持ちに、もう嘘はつけなかった。
たった一行の「明日は行く」。それだけで息ができた。もう、誤魔化せない。




