第二話「はじまりの光」
それから、一頼は何度も画廊へ通った。
学校帰り、少し遠回りをして銀座まで出る。
目的はもちろん、あの絵を見ることだった。
何度見ても飽きなかった。
むしろ見るたびに、新しい色や、見落としていた気配に気づく。
そしてそのたびに、一頼は受付の女性へ尋ねてしまう。
「久見ルナさん、今日は来られますか」
「今日は難しそうですね」
「次は来ますか」
「たぶん、展示終盤には……」
曖昧な答えが返ってくるたびに、期待と落胆を繰り返した。
その間に父とも相談し、結局、一頼はその絵を購入することにした。
決して安くはない。
高校生の自分にとっては大金だ。
けれど父は、一頼の顔を見てこう言った。
「そんな顔でずっと悩まれるくらいなら、買ったほうがいいのかもな」
「……そんな顔って?」
「取られたくない、って顔」
そう言われて、一頼は言い返せなかった。
図星だった。
その絵が誰かのものになってしまうことを想像するだけで、胸がざわついたのだ。
購入の手続きを済ませた日も、一頼はどこか落ち着かなかった。
絵が自分の手元に来ることは嬉しい。けれどそれと同じくらい、「久見ルナ」に会えないまま展示が終わってしまうかもしれないことが寂しかった。
けれど結局、展示期間中に作家本人が現れることはなかった。
最終日、画廊の扉の前で一頼は少しだけ立ち尽くした。
もしかしたら今日こそ、と淡い期待を抱いていたからだ。
けれど店内にいるのはいつもの女性だけで、そのやわらかな笑顔が、かえって現実をはっきり告げていた。
「来られなかったんですね」
一頼がぽつりと呟くと、女性は少しだけ気遣うように目を細めた。
「ええ……残念ですけど」
「……そうですか」
一頼は微笑もうとして、うまくできなかった。
自分でも可笑しかった。
会ったこともない人なのに。
名前と絵しか知らないのに。
それなのに、会えなかったことが、思っていた以上に寂しい。
⸻
絵は後日、自宅に届いた。
父と二人で丁寧に箱を開け、リビングの一角に飾る。
壁に掛けられたその絵は、画廊で見たときよりも少しだけ私的なものに見えた。
部屋の空気に溶け込みながら、それでもたしかにそこだけ柔らかな光を残している。
「良い絵だな」
父がしみじみと言った。
「……でしょう」
一頼は嬉しくて、少しだけ誇らしい気持ちになる。
「こんな絵を描く人なら、きっとすごい人なんだろうな」
ぽつりと漏れたその言葉に、自分で少し驚いた。
“すごい人”ではなく、会ってみたい人、と思っていることに気づいたからだ。
⸻
それからしばらくして、一頼の元に一通のダイレクトメールが届いた。
差出人は、あの画廊。
そこには、「久見ルナ」の次の個展の案内が記されていた。
一頼は思わず声を上げた。
「ほんとに!?」
父が台所から顔を出す。
「どうした」
「次の個展! 久見ルナさんの!」
その瞬間、胸が一気に高鳴る。
今度こそ会えるかもしれない。
前回はタイミングが悪かっただけで、今度はきっと。
絵のことを聞きたい。
どうしてあの光を描いたのか知りたい。
あの絵がどれほど好きか、伝えたい。
そんなふうに、会ったときのことを何度も考えながら、その日を待った。
そして当日。
一頼は学校が終わると、ほとんど走るようにして会場へ向かった。
けれど——
画廊の前に立った瞬間、その足が止まる。
ガラス扉には、白い紙が一枚貼られていた。
本日開催予定の「久見ルナ」個展は、都合により急遽中止となりました。
それだけだった。
「……え」
声にならない声が漏れる。
一頼は貼り紙を見つめたまま、しばらく動けなかった。
嘘みたいだった。
期待して、楽しみにして、ここまで来たのに。
なのに、そこにあるのは理由も説明もない、ただの中止の知らせだけ。
「どうして……」
小さく呟いても、返事はない。
閉ざされた扉の向こうは暗く、気配ひとつなかった。
そのとき初めて、一頼は「久見ルナ」という存在に、どこか不穏な影のようなものを感じた。
絵だけを残して、本人は現れない。
ようやく繋がると思った糸は、また何の前触れもなく切れてしまう。
その日から、「久見ルナ」は一頼の中で、会えなかった憧れとして静かに残り続けた。
⸻
八年後。
朝の東京は、情け容赦がない。
満員電車、途切れない通知音、締切の確認、先方からのメール、赤字の入ったゲラ。
美術雑誌の編集部で働く吉野一頼は、休む暇もないほど慌ただしい毎日を送っていた。
高校生の頃の面影を残しながらも、今の彼女はもう、寂しさを持て余して街を彷徨うだけの少女ではない。
忙しさに追われながらも、自分で選んだ仕事にしがみつき、取材先と渡り合い、企画を通し、校了までこぎつけるだけの強さを身につけていた。
とはいえ、疲れないわけではない。
夜遅く、自宅マンションへ帰り着き、靴を脱いでリビングへ入る。
その正面の壁には、あの日買った絵が今も大切に飾られていた。
柔らかな日差しの中、我が子を抱きしめる女性。
もう何年も、ほとんど毎日のように見ている絵だ。
それでも、その前に立つと不思議と心が静まる。
「……ただいま」
誰にともなく呟く。
もちろん返事はない。
けれど、その絵があるだけで、部屋がただの箱ではなく、自分の帰る場所になる気がした。
⸻
その日、一頼は取材先の画廊を訪れていた。
新進気鋭の作家を扱う、こぢんまりとしながらも評判の良いギャラリー。企画の下見も兼ねて、編集部から一人で足を運んでいたのだ。
白い壁に並ぶ作品を順に見ていた一頼は、ある一点の前で唐突に立ち止まった。
「……え」
心臓が、強く跳ねる。
油彩。
人物画。
光の入り方。
肌の色の沈み方。
静かなのに、奥で何かが揺れているような空気。
見間違えるはずがなかった。
八年前から、毎日見ている。
朝も、夜も、何度も何度も見てきた筆致だ。
一頼は吸い寄せられるようにネームプレートへ視線を落とす。
【久世鳴海】
知らない名だった。
「……誰」
思わずそう呟いていた。
けれど、知らないからといって否定はできない。
むしろ、知らない名前だからこそ、胸の奥がざわつく。
——この人だ。
根拠はない。
だが、確信だけはあった。
この絵を描いた人は、あの絵を描いた人と同じだ。
「すみません」
気づけば、一頼はギャラリストに声をかけていた。
応対に出たのは、小柄で柔らかい雰囲気の女性だった。落ち着いた黒の服を着こなし、営業用の笑みを浮かべている。
「はい」
「この作家さん……久世鳴海さんについて、お聞きしてもいいですか」
「久世先生について?」
「私、美術雑誌の編集をしていて……」
名刺を差し出しながら、一頼はできるだけ冷静に事情を話した。
昔、久見ルナという名前の画家がいたこと。
その絵と、この作品の筆致があまりにも似ていること。
できれば、特集を組みたいと思っていること。
女性——姫川は話を聞くうちに、わずかに表情を曇らせた。
「……久見ルナ」
その名を口にしたときだけ、彼女の視線が少し揺れたのを一頼は見逃さなかった。
「何か、ご存じなんですか」
姫川はすぐには答えなかった。
しばらく迷うように沈黙したあと、小さく息を吐く。
「本当は、こちらから個人の連絡先をお伝えすることはしないんですが」
「……はい」
「編集の方で、正式な取材依頼ということなら」
姫川は一頼の名刺をもう一度見てから、デスクの奥へ手を伸ばした。
「かなり気難しい方です。それでもよろしければ」
「お願いします」
即答だった。
姫川はそんな一頼を見て、少しだけ苦笑する。
「……本当に、よほどお好きなんですね」
そう言って、紙に番号を書いた。
⸻
編集部へ戻るなり、一頼はその番号へ電話をかけた。
呼び出し音が、妙に長く感じる。
やがて、通話が繋がった。
『……はい』
低い声だった。
一頼は一瞬、言葉を失う。
「え……あ、あの、月刊アートの扉編集部の吉野と申します。久世鳴海さんでしょうか」
『そうですけど』
男性だった。
一頼は咄嗟に背筋を伸ばした。
勝手に、女性だと思い込んでいた。
久見ルナという名前の響きと、あの絵の印象から、どこか静かな女性像を描いていたのだ。
「あの、美術特集の件でぜひ一度お話を伺いたくて……」
『……』
『……』
「久世さん、以前は別のお名前で活動されていましたよね。私、その時から先生のことを存じておりまして……」
「......」
相手は少し沈黙してから、淡々とした声で言った。
『一度、アトリエ来てもらえますか』
「え?」
『明日。午後ならいます』
「あ、あの、突然で申し訳ないんですが、詳しいお話を——」
『住所、送ります』
「あの、取材内容のご説明を……」
『来てもらった方が早いんだよね』
語尾が少しだけ伸びる、妙にやわらかい言い方なのに、こちらへ選択肢を与えない声音だった。
「……」
『じゃあ』
ぷつり、と通話が切れた。
スマートフォンを耳から離し、一頼はしばらくそのまま固まっていた。
「……何、あれ」
肩の力が抜ける。
ずっと会いたかった憧れの作家。
ようやく繋がったと思ったのに、相手は男で、しかもかなり偏屈そうだった。
「女性じゃなかったし……」
思わず独り言が漏れる。
勝手な想像だったと分かっていても、拍子抜けした気持ちは否めない。
それに、あの感じの悪さ。
(ほんとに、あの絵を描いた人……?)
そんな疑問すら浮かぶ。
けれど同時に、胸の奥では別の感情が強く脈打っていた。
八年越しに、ようやく手がかりに触れたのだ。
ここで引くわけにはいかない。
⸻
翌日。
送られてきた住所は、都心から少し離れた古い建物の一角だった。
住宅地の奥、静かな通りに面したアトリエ。看板もなく、知らなければ通り過ぎてしまいそうな佇まいをしている。
一頼は建物の前で一度深呼吸をした。
コートのポケットに手を入れ、スマートフォンでもう一度住所を確認する。間違いない。
「……失礼します」
小さく呟いて、玄関の前に立つ。
インターホンを探したが見当たらない。
仕方なく扉の前で声をかけようとした、そのときだった。
ドアノブが、わずかに動いた。
「……え?」
そっと押してみる。
開いた。
鍵がかかっていない。
一頼は思わず周囲を見回した。
だれもいない。
「……久世さん?」
呼びかける。返事はない。
もう一度、少し大きな声で言う。
「吉野です。昨日、お電話した……」
沈黙。
アトリエの中は静かだった。
(どうしよう)
勝手に入っていいものか迷う。
だが、相手のあの口ぶりからして、来たことをわざわざ伝えないまま帰ったら、二度と相手にしてもらえない気もする。
一頼は意を決し、そっと扉を押し開けた。
鼻先をかすめるのは、油絵具と溶剤の匂い。
少し湿ったキャンバスと木枠の匂いが混じり合い、ひんやりした空気の中に漂っている。
玄関を上がり、奥へ進む。
そして、次の瞬間——一頼は立ち尽くした。
「……っ」
目の前に、描きかけの作品がずらりと並んでいた。
壁に立てかけられた大きなキャンバス。
イーゼルに載せられた未完成の人物画。
床に置かれたスケッチや、絵具の飛んだ布。
どこを見ても制作の気配に満ちている。
そして、それらのすべてに、見覚えがあった。
いや、見覚えがあるというより、身体の方が先に理解していた。
この光の扱い。
この色の滲み方。
人物の輪郭を、やさしく掬い上げるような筆。
間違いない。
あの絵を描いた人の手だ。
八年前、自分の心を奪った一枚と同じ呼吸が、ここにはあった。
「……すごい……」
思わず漏れる。
仕事で来たことも、偏屈そうな電話口の男のことも、その一瞬だけ頭から飛んでいた。
一歩、また一歩と部屋の奥へ進み、目の前の作品に見入る。
ここにある。
自分がずっと探していたものが。
ずっと会えなかった作家の時間が、こんなにも生々しく、無造作に積み重ねられている。
そのときだった。
背後に、気配が落ちた。
「——っ!」
振り返る暇もなかった。
強い力で腕を引かれ、そのまま身体がぐらりと傾く。
「きゃ……!」
床に押し倒され、息が詰まる。
一瞬、何が起きたのか分からない。
視界が揺れる。
上から影が落ちてきて、ようやく一頼は目を見開いた。
長身の男だった。
見上げるほど背が高い。
パーマがかった茶髪が額にかかり、影を落とした目は驚くほど鋭い。
細身なのに、押さえつける腕の力は強かった。
男は一頼を組み伏せたまま、低い声で言った。
「……誰」
短い一言。
けれど、その声音にははっきりとした警戒が滲んでいた。
「よ、吉野、です……!」
一頼は息を切らしながら答える。
「昨日、電話した……編集の……!」
男の目が、わずかに細まる。
数秒の沈黙。
一頼の鼓動は嫌になるほど速くなっていた。
やがて男は、押さえていた手を少しだけ緩める。
「ああ」
それだけ言って、ゆっくり身を起こした。
一頼も上半身を起こし、乱れた呼吸を整えながら相手を見上げる。
近くで見ると、その男は思っていた以上に若く、そしてひどく整った顔立ちをしていた。冷たい印象の目元と、少し無造作な髪。その全体にどこか危うい静けさがある。
そして何より——
この人だ、と一頼は思った。
理由は説明できない。
けれど、目の前の男から漂う空気が、さっきまで見ていた絵たちと繋がっている。
「……あなたが」
乾いた喉で、ようやく言葉を絞り出す。
「久世鳴海……さん?」
男は一頼を見下ろしたまま、淡々と言った。
「そうだけど」
「……」
「勝手に入るなよ」
低く、ぶっきらぼうな口調だった。
一頼は床に手をついたまま、ぽかんと彼を見上げる。
八年前、銀座の画廊で、一枚の絵に目を奪われた。
会いたくて、会えなくて、名前だけを胸に残し続けた。
その人が、今、目の前にいる。
久見ルナ。
そして現在は、久世鳴海と名乗る画家。
一頼はまだ知らない。
彼の本当の名前が、水瀬未来であることを。
ただ、自分が長い時間をかけて探し続けた憧れの正体に、ようやく辿り着いてしまったのだということだけは、痛いほど分かった。
けれどその現実は、夢見ていたものとはずいぶん違っていた。
もっと静かで、もっと優しくて、もっと遠い存在を想像していた。
なのに、そこにいたのは、無愛想で、感じが悪くて、ひどく人を寄せつけなさそうな男だった。
その落差に戸惑いながらも、一頼の胸の奥では、八年前の冬に止まったままだった何かが、たしかに音を立てて動き始めていた。




