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第三話 「理想と現実のあいだ」



「……その、すみませんでした」


床に手をついたまま、一頼はようやくそれだけを言った。


息がまだ少し乱れている。

押し倒された衝撃よりも、突然目の前に現れた男が、あまりにも自分の想像と違っていたことの方が、まだ身体の奥に残っていた。


アトリエの中には、油絵具と溶剤の匂いが濃く漂っている。

窓の外は曇っているらしく、室内の光は鈍かった。そのぶん、散らばるキャンバスや絵具の跡が、余計に生々しく見える。


長身の男――久世鳴海は、一頼から少し距離を取ったところで立ち止まり、気まずそうでもなく、かといって本気で悪びれているふうでもない顔でこちらを見下ろしていた。


「……いや」


低い声が落ちてくる。


「押し倒したのは、悪かったよね」


一頼はきょとんとして顔を上げた。


その言い方が、思ったよりやわらかかったからだ。

ぶっきらぼうなようでいて、語尾だけ妙に力が抜けている。


「……え」


「泥棒かと思ったから」


「泥棒じゃありません!」


すぐさま言い返してから、一頼ははっとする。

勢いで声が大きくなった。


男――未来は、ほんの少しだけ目を細めた。


「だったら、勝手に入らない方がいいよね」


「鍵、開いてたんです!」


「開いてたからって入る?」


「呼んでも返事がなかったからで……!」


「それで入るんだ」


「だ、だって、昨日あんな切り方されたら帰っていいか分かんないじゃないですか!」


言い切ってから、一頼はまた自分で少し悔しくなる。


ずっと会いたかった憧れの作家との再会が、どうしてこんな応酬になっているのか。

しかも自分は、初対面の相手に押し倒されたうえ、言い負かされかけている。


未来は、そんな一頼を見ながら、ごく浅く息を吐いた。


「……まあ、それもそうか」


ぽつりとそう言ってから、彼は視線を逸らす。


「ごめん。来るって分かってたのに、外いたから」


「外?」


「ベランダ」


「ベランダ……」


なんだそれ、と思ったが、一頼はかろうじて飲み込んだ。


とにかく、空気を立て直さなければならない。

ここで感情的になっては、仕事の話も何もできなくなる。


一頼は膝の上で手を握り、どうにか息を整えたあと、鞄から名刺入れを取り出した。


「改めまして」


立ち上がり、少しだけ背筋を伸ばす。


「月刊アートの扉編集部の、吉野一頼です」


一枚、名刺を差し出す。


未来はそれを受け取り、無造作に視線を落とした。


そして――一瞬だけ、動きが止まる。


「……吉野、一頼」


低く、その名前を読み上げる声。


わずかに、表情が固まったように見えた。


「はい」


一頼は頷く。

だが、未来は次の瞬間にはもう何でもない顔に戻っていた。


「編集なんだ」


「はい。美術雑誌の編集をしています」


「ふうん」


名刺を指先で弄びながら、未来は一頼を見る。


さっきまでの剥き出しの警戒は、少しだけ薄れていた。

けれどそのぶん、今度は測るような視線になっている。どこまで本気なのか、何をしに来たのか、相手の奥を静かに探っている目だ。


一頼はその視線を受け止めながら、腹を括るように言った。


「私、あなたの絵を持っているんです」


「……」


「八年前、銀座の画廊で展示されていた作品を買いました」


未来のまなざしが、わずかに揺れる。


「そのときの名前は……久見ルナ、でした」


部屋の空気が、ほんの少しだけ変わった。


今まで、どこか曖昧に漂っていたものが、そこではじめて輪郭を持ったような感覚だった。


「……その名前、まだ覚えてる人いるんだね」


未来がそう言った。


軽く笑ったような口調なのに、その奥はまったく笑っていなかった。


「忘れるわけないです」


一頼は即答した。


「ずっと、探していましたから」


「……」


「あなたの絵に、ずっと支えられてきたんです」


言葉にするたびに、あの冬の記憶が胸の奥から浮かび上がる。

誰もいない家が嫌で、ひとり銀座を歩いた夜。

画廊のガラス越しに見た、あのやわらかな光。

子どもを抱く女の腕の、あたたかさ。


一頼は、自然と声が静かになっていくのを感じた。


「寂しいときも、苦しいときも、あの絵を見ると少しだけ息ができる気がしたんです」


未来は何も言わない。


「美術に興味を持ったのも、あの絵がきっかけでした。あの一枚がなかったら、今こうして編集の仕事をしていなかったかもしれません」


「……そこまで」


未来がぽつりと呟く。


「そこまで、ひとつの絵で変わるものなんだね」


「変わります」


一頼はまっすぐに言い切った。


「少なくとも、私は変わりました」


沈黙が落ちた。


未来はその沈黙の中で、一頼の顔をじっと見ている。

その目は相変わらず感情が読みにくかったが、さっきよりもほんの少しだけ深く、一頼の言葉を聞いているように思えた。


「……だから、知りたかったんです」


一頼は続けた。


「どうして個展が急に中止になったのか。どうして“久見ルナ”という名前が消えたのか。どうして、あなたは表に出なくなったのか」


その問いを口にした瞬間、未来の表情がすっと薄くなる。


まるで、目の前に見えない壁が一枚下ろされたみたいに。


「昔のことだよ」


声音はやわらかい。

けれど、それ以上近づかせないためのやわらかさだった。


「いろいろあったんだよね」


「いろいろって」


「いろいろ」


未来はそれ以上を言わなかった。


一頼は唇を噛む。


八年間抱き続けてきた問いが、たったそれだけで片づけられてしまったような気がして、肩の力が落ちる。


「……そう、ですか」


「うん」


それきり終わらせるつもりなのが、声色で分かった。


一頼は一瞬だけ俯き、それからはっと顔を上げた。


違う。

今日は、このためだけに来たわけじゃない。


「……あ、そうだ、仕事」


自分で言っておきながら少し慌てて、鞄の中から企画書を取り出す。


「今回、私、初めて巻頭特集を任されたんです」


未来の眉が、わずかに上がる。


「へえ」


「特集テーマは、美人画です」


机の上へ企画書を広げ、一頼は勢いをつけるように言葉を重ねていく。


「伝統的な美人画の流れを踏まえつつ、現代の作家が描く“いまの女性像”を扱いたいと思っていて。その巻頭と、できれば表紙もお願いしたいんです」


未来は黙って聞いている。


一頼はその反応の薄さに少し怯みそうになったが、止まらなかった。


「あなたの描く人物って、ただ綺麗なだけじゃないんです。やわらかさもあるのに、どこか息苦しさとか、言葉にできない感情が滲んでいて……見ていると、その人がここに生きていた時間まで感じるような気がして」


未来の目が、わずかに細くなる。


「……そんなふうに見てるんだ」


「見てます」


「怖いね」


「褒めてませんよ」


「褒めてるでしょ」


少しだけ、未来の口元が緩んだ。


その変化に、一頼は一瞬だけ言葉を失う。

笑うと、思っていたよりずっと年相応に見える。冷たい印象の顔立ちが少し和らぎ、奥にある人間らしさが覗く。


「とにかく」


一頼は誤魔化すように咳払いをした。


「私は、あなたにお願いしたいんです。今の久世鳴海にしか描けない巻頭を、見てみたい」


未来は企画書に視線を落としたまま、少しだけ黙った。


そして、ぽつりと呟く。


「……面白いかもね」


一頼の目が見開かれる。


「ほんとですか?」


「うん。ちゃんと考えてるんだなって思った」


それは、ようやく得られた好感触だった。


一頼の胸の内に、ぱっと明るいものが差す。

この人に届いた。少なくとも今、自分の言葉が少しは届いたのだと思えた。


「ありがとうございます!」


思わず身を乗り出す。


未来はそんな一頼を見て、少しだけ可笑しそうに目を細めた。


「でも」


その一言で、一頼の背筋がぴんと伸びる。


「昔の名前は出さないでほしいかな」


「……え」


「久見ルナだった頃の話も、記事に入れるつもりでしょ」


図星だった。


一頼は一瞬だけ言葉に詰まるが、すぐに持ち直す。


「……はい。もちろんです。今の活動だけじゃなくて、そこに至るまでの流れも含めて読者に知ってもらえたら、もっと――」


「それは嫌だ」


未来の声が、さっきより少し低くなった。


空気が張る。


一頼は目を瞬かせる。


「でも」


「過去のことを書くなら、仕事は受けない」


「そんな」


「嫌なんだよね」


淡々としている。

そのくせ、拒絶だけははっきりしていた。


一頼は企画書を握る手に力が入るのを感じた。


「それじゃ、読者にとっても不親切です」


「不親切でいいよ」


「よくありません。あなたを長く見てきた人も、新しく知る人も、ちゃんと――」


「吉野さん」


未来が、一頼の言葉を静かに遮る。


「作家に理想像を押し付けない方がいいよ」


「……」


「作家って、想像してるほどお綺麗じゃないんだよね」


その言葉は、冗談めいているようで、少しも冗談ではなかった。


未来の目の奥にあるものが、一瞬だけ深く沈む。


「昔の名前とか、消えた理由とか。そういうのを綺麗に並べれば物語になるかもしれないけど」


「私は、物語にしたいわけじゃ――」


「してるよ」


きっぱりと言われて、一頼は息を呑む。


未来は表情を変えずに続ける。


「憧れの作家がいて、昔の名前があって、消えた理由があって。そこに意味を見つけたいんでしょ」


「……」


「でも、たいてい大した理由じゃないし、知ったらがっかりすることの方が多い」


一頼は押し黙った。


たしかに、自分はこの人に何か“意味”を求めていたのかもしれない。

あのときの個展中止にも、名前が消えたことにも、ただの事情以上の何かを見ていた。


けれど、それでも。


「……それでも」


一頼は、ゆっくり顔を上げた。


未来の視線を、正面から受け止める。


「あなたを評価してくれる人のためにも」


「……」


「まず、あなた自身が自分の価値を信じるべきじゃないですか」


言ってしまってから、少し遅れて空気の重さに気づく。


未来の表情が変わった。


静かに、けれどはっきりと、感情が動いたのが分かる。


悔しそうにも、腹立たしそうにも見える、複雑な顔だった。


「……簡単に言うね」


低く落ちる声。


未来が、一歩近づく。


一頼は思わず息を止めた。


距離が詰まる。

ただそれだけで、さっき押し倒されたときの感覚が一瞬よみがえる。


「そんなの、できるなら最初からやってるでしょ」


「……っ」


さらに一歩。


一頼は反射的に後ろへ下がろうとして――背中がテーブルの端にぶつかった。


がた、と鈍い音がする。


その上に置かれていた油洗壺が大きく揺れた。


「あっ――」


未来が目を見開く。


次の瞬間、一頼は考えるより先に手を伸ばしていた。


倒れかけた壺の先にあったのは、描きかけのキャンバスだった。

油がかかれば、絵は台無しになる。


咄嗟に身体を捻り、キャンバスを庇う。


壺の中身がこぼれ、服へ飛ぶ。

刺すような溶剤の匂いが、一気に広がった。


「……っ、うわ……!」


冷たく濡れた感触に顔をしかめながらも、一頼はまずキャンバスを見た。


「絵は……」


未来が呆然と立ち尽くしている。


一頼は自分の袖を見下ろし、それから少しだけ笑った。


「絵は無事です……!」


未来は、しばらく何も言わなかった。


まるで、今目の前で起きたことの意味がすぐには飲み込めないという顔だった。


その沈黙が妙に長く感じられたあと、未来がいきなり一頼の腕を取る。


「え」


「こっち」


「え、ちょっと」


半ば引きずられるように連れて行かれた先は、アトリエの奥にあるバスルームだった。


「入って」


「……は?」


「早く洗わないと」


未来はそう言いながら、一頼を中へ押し込む。


「ちょ、ちょっと待ってください!」


「待たない」


「待ってくださいって!」


未来はどこからか持ってきた自分の服――ゆるいパーカーとスウェットらしきものを、一頼の胸元へ押しつけた。


「これ着て」


「いや、でも」


「そのままじゃ気持ち悪いでしょ」


「それはそうですけど……!」


「じゃあ洗って」


未来はさっさと用件だけ告げると、戸惑う一頼を残したまま背を向けた。


「え、ちょ、久世さん!」



それだけ言って、彼はさっさと出ていってしまった。


一頼はしばらく、閉まったドアを呆然と見つめていた。


「……何なの、ほんとに」


胸の中が忙しい。

腹が立つのか、振り回されているのか、助けられたのか、自分でもよく分からない。


ただ、服に染みた匂いだけはどうにもならなかった。



シャワーで軽く汚れを流し、借りたパーカーを被る。


男物の服は当然大きくて、袖が少し余った。

鏡に映る自分は妙にちぐはぐで、一頼はなんとも言えない気分になる。


バスルームを出ると、アトリエはさっきよりも静かだった。


未来の姿を探して奥へ進むと、開け放たれたベランダの向こうに彼がいた。


手すりにもたれ、煙草をくわえている。

曇り空の光の中で、その横顔は思ったよりも若く、けれど思ったよりもずっと疲れて見えた。


「……あの」


声をかけると、未来が振り向く。


その視線が一頼の姿を捉え、一瞬だけ止まる。


男物のパーカーを着た一頼。

濡れた髪を軽く拭いただけで、まだ少し毛先がしっとりしている。


未来は何か言いかけたような顔をした。

けれど結局、煙を細く吐き出しただけだった。


「……ありがとうございました」


一頼が言う。


「服まで借りて、すみません」


「別に」


未来は短く答える。


「絵、庇ってくれたしね」


「当たり前です。あんなの、目の前にあったら」


「普通は自分の服の方かばうけど」


「かばいませんよ」


「かばうよ」


「私はかばいません」


言い合ううちに、一頼は少しだけ眉を寄せる。


「むしろ、あれくらいで済んでよかったです」


未来は煙草を持つ手を止めたまま、一頼を見た。


その目は相変わらず何を考えているのか読みにくい。

けれど、さっきまでよりも少しだけ戸惑っているように見えた。


やがて彼は視線を外し、煙草を灰皿へ押し付ける。


「……帰って」


「え?」


「今日はもう」


一頼は目を丸くした。


「いや、でも、まだ話――」


「荷物、持ってくるから」


言うなり、未来は部屋の中へ戻っていく。


「あ、ちょっと!」


慌てて追いかける。


未来は机のそばに置かれた一頼の鞄を手に取り、そのまま玄関の方へ向かっていた。


「待ってください、まだ全然終わってません!」


「俺の中では終わったんだよね」


「終わってません!」


「今日は無理」


「なんでですか!」


未来は玄関の前で立ち止まり、振り返った。


「……なんでって」


「だったら、どうして私をアトリエに呼んだんですか」


その問いに、未来の目が少しだけ揺れる。


けれど、返ってきたのはやはり曖昧な言葉だった。


「顔見た方が、早いかなって思っただけ」


「それだけですか」


「うん」


「絶対それだけじゃないでしょう」


「そうかもね」


「どっちですか!」


「さあ」


一頼は、ぷるぷると肩を震わせた。


人を食ったような返し方ばかりするくせに、ときどき妙に核心を避ける。

近づいたかと思えば、すぐにするりと逃げる。どうにも調子が狂う相手だった。


未来は玄関のドアを開けた。


外の冷たい空気が細く流れ込む。


「……帰って、吉岡さん」


一頼の眉がぴくりと動く。


「……吉野です」


「え?」


「吉・野、です!」


未来は、ほんの一瞬だけぽかんとした顔をして、それからどうでもよさそうに言った。


「ああ。ごめん」


その謝り方が、まったく悪いと思っていない感じだった。


一頼はかっと頬が熱くなるのを感じた。


「最悪です!」


「そう」


「帰ります!」


「うん」


「二度と間違えないでください!」


「善処する」


「してください!」


ぷりぷりと怒りながら、一頼は玄関を出た。


ドアが閉まる寸前、未来の「パーカー、今度返して」という声が聞こえた気がしたが、一頼は振り返らなかった。



編集部へ戻る頃には、夕方になっていた。


一頼は借り物の大きなパーカーのまま、なるべく目立たないように自席へ滑り込もうとした――が。


「ちょっと待ってひより、その格好なに?」


鋭く声をかけてきたのは、同僚の桃香だった。


長い巻き髪を揺らしながら、一頼の全身を上から下まで見回す。


「えっ、な、何って……」


「何って、男物じゃん、それ」


「そ、そうかな!?」


「そうだよ。サイズ感見れば分かるって」


桃香がじりっと距離を詰めてくる。


「まさか、男?」


「違う!」


一頼は必要以上に大きな声を出してしまった。


周囲の何人かがちらりとこちらを見る。


「じゃあ何」


「えっと、その……取材先でちょっと汚しちゃって!」


「何をどうしたら、男物のパーカー借りる流れになるの?」


「それは……いろいろ!」


「いろいろって何」


「いろいろは、いろいろ!」


桃香はじとっとした目で一頼を見る。


「怪しい……」


「怪しくない!」


そのとき、奥のデスクから編集長の声が飛んだ。


「吉野」


「は、はい!」


「久世鳴海、どうだった。受けてもらえそうか」


「…………」


一頼は一瞬、固まった。


桃香の視線。

編集長の視線。

編集部のざわめき。


すべてが一気にのしかかってくる。


「えっと……その……」


「その?」


「い、今、前向きに……ご検討中です!」


編集長が眉を上げる。


「ずいぶん歯切れが悪いな」


「いや、でも、企画自体には興味を持っていただけたので!」


これは半分本当で、半分誤魔化しだった。


編集長はしばらく一頼を見たあと、「そうか」とだけ言って書類へ視線を戻した。


桃香は小声で囁く。


「絶対なんかあったでしょ」


「ない!」


「ある顔してる」


「ないってば!」


席に着いた一頼は、ようやくどっと肩を落とした。


机の引き出しへ鞄をしまおうとして、ふと一枚の名刺が目に入る。


姫川あかり――姫川画廊。


あのとき、連絡先を教えてくれたギャラリスト。

たしか、久世鳴海の大学時代の同期だと言っていた。


「……」


一頼は名刺を見つめる。


あの未来の様子。

“久見ルナ”の名前を出したときの、あからさまな表情の変化。

なぜ自分をアトリエに呼んだのかも、結局はぐらかされたままだ。


(……姫川さんなら、何か知ってるかもしれない)


期待というより、藁にもすがるような気持ちだった。


一頼は立ち上がる。


「どこ行くの」


桃香が問う。


「ちょっと、取材の続き!」


「その格好で?」


「……その格好で!」


半ば自棄になりながら、一頼は編集部を飛び出した。



同じ頃、姫川画廊では。


静かな空間に、やわらかな照明が落ちていた。


応接スペースのテーブルには、資料のほかにティーカップと、小さなクッキー缶が置かれている。もともとは次の個展の打ち合わせのための席だった。


「だから、会期の後半で壁面を少し変えたいの」


姫川あかりが、資料をめくりながら言う。


「前半と後半で流れを作れたら、お客さんももう一度来やすいし」


「うん」


未来はソファにだらりともたれたまま、生返事をした。


その指先はすでに資料ではなく、テーブルのクッキーへ伸びている。


「あ、ちょっと」


姫川が眉をひそめる。


「今まさに真面目な話してるんだけど」


「聞いてるよね」


未来はクッキーをひとつ口に入れながら言った。


「壁面変えたいんでしょ」


「そういうことじゃないの」


「これ美味しい」


「人の話聞いて」


未来は、くすりと笑う。


昨日アトリエで見せていた刺々しさは薄く、あかりの前では少しだけ気が抜けているようだった。


「で」


姫川はあきれたようにため息をつく。


「昨日来たんでしょ、吉野さん」


未来の手が、次のクッキーへ伸びかけたところで止まった。


「……来たよ」


「断ったの?」


「うん」


姫川は露骨に肩を落とす。


「せっかく、良い話だったのに」


「そうだね」


「そうだね、じゃなくて」


未来は苦笑する。


姫川の目には、責める気持ちよりも惜しむ気持ちの方が強く滲んでいた。未来のためを思って紹介した仕事だったのだと、分かってしまう顔だった。


「……ありがとね」


未来がぽつりと言う。


姫川が少し目を瞬く。


「何が」


「俺のために動いてくれたんでしょ」


「それは……まあ、そうだけど」


「分かってるよ」


未来は、空になった指先を軽く払った。


「でも、俺は今ので充分なんだよね」


その声は穏やかだった。


けれど、それ以上先へ進まないと決めた人間の声でもあった。


姫川は何か言い返しかけて、結局、飲み込んだ。


そこへ、入口のベルが鳴る。


「あれ、まだ誰か……」


姫川が立ち上がる。


扉の方を見ると、そこに立っていたのは――


「すみません、姫川さん、今――」


一頼だった。


そして、その視線が応接スペースにいる未来を捉えた瞬間、言葉が止まる。


「……えっ」


未来もまた、クッキーを持ったまま目を瞬かせる。


数秒の沈黙。


最初に口を開いたのは、未来だった。


「……なんでいるの、不法侵入者」


「誰が不法侵入者ですか!」


即座に返す一頼。


姫川は二人を交互に見て、きょとんとする。



一頼はぷりぷりしたまま未来を睨んでいる。


その光景を見て、姫川は思わず額に手を当てた。


「……え、えっ...?」


画廊の白い壁に、三人のぎこちない沈黙が落ちる。


次の瞬間、誰が何を言い出してもおかしくない、そんな張り詰めた導火線のような空気だけが、そこにあった。






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